エピローグその1
―――夕方。王都アンバルシア北区、王女親衛隊兵舎
「それで、解放した奴隷達をどうしたんだ? 君は」
マテウスは眉間に皺が寄るのを抑える事が出来ずに、指先でその部分を撫でながら深い溜め息を落とした。場所は王女親衛隊兵舎の食堂で、彼が話し掛ける相手はエステル。その両脇には、見覚えのある赤い髪の女ヴィヴィアナと、その姉と自己紹介されたばかりのロザリアが座っている。
マテウスは今日も疲労を覚えていた。レスリーの家庭教師探しに奔走していたからだ。彼は戦場を生きてきた騎士であり、戦士だ。慣れない作業に疲労を覚えるのは仕方のない事だった。
そして礼儀作法を教える事が出来るような高貴な出自の教師達は、ベルモスクの血を毛嫌いしている事が多いという現実が、彼の疲労に拍車をかける。
本音を言えば教師の選定などに時間をかけている余裕などマテウスにはなかった。(一応、パメラへの捜査指示、異端審問局も独自に動いている筈なので、捜査自体を中断している訳ではないのだが)そうこうしている内にマテウスの追う誘拐未遂事件と殺人事件は人々の記憶から薄れ、風化し、犯人達の思惑通り曖昧模糊のまま消えてしまうのだ。それは避けなければいけない。
だが、レスリーの教育も絶対に必要な事柄だった。教育を施さなければ恥をかくのはレスリーであり、そして教育が反映されるのには時間がかかるのを、マテウスはよく理解していた。だから、教師の選定は速やかに行わなければならない。
マテウスはそんな2つの優先事項の板挟みに合い、それでいてどちらも進展させる事の出来ない自身に不甲斐なさを覚えていた。そんなタイミングでの、この出来事である。
「孤児院前まで案内した。年齢的に孤児でない者に関しては、治安局前まで案内した。これは両方ロザリア殿の案でな。ロザリア殿にはとても助けられた」
「そうか……」
話の全容を聞いて、マテウスは頭を抱えたくなる思いだった。マテウスが予想するに、その奴隷商人達は商会を通した正式な奴隷を扱っている。商会の依頼を受けて奴隷を輸送、市場で販売する事によって、正当な利益を得ているのだ。だが、人は欲深い。その上で貧民街から有望な奴隷候補を連れ去り、市場に奴隷を持参する事によって更なる利益を得ようとしたのだろう。
これはそう珍しい話ではない。彼等奴隷商人が扱う奴隷の数が多少違ったところで、少し金を握らせれば皆が盲目になってくれる。そもそも奴隷として狙われたのも貧民街の連中だ。国に貢献せず、隠れるようにして生きる彼等の数が多少間引かれたところで、誰も気付かないのだ。
だが今回はそうはならなかった。誰もが盲目なり、気付かない筈の出来事をエステルが見咎めた。気付き、両断してしまった。そして商会を通した正しい売買までも壊したのだ。犯罪に近いその行為を、隠そうともせず胸を張って成果として語るエステルに、マテウスは頭を抱えたくなるのだ。
問題はそれだけではない。マテウスはエステルが奴隷達を連れて行った孤児院の内情を、具体的に知っている訳ではないが、孤児院がどこも生活に窮しているであろう事は想像に難くない。その孤児院に、大勢の奴隷を押し付ける事の意味を、エステルが理解しているようには思えなかった。最悪孤児院自体が潰れる可能性があるにも関わらずだ。
そして奴隷達を治安局に引き渡した件だ。これは、強盗が盗んだ商品をそのまま治安局に手渡す行為に等しい。場所が貧民街であった事と、直接治安局までエステルが足を運んだ訳ではない事が、エステルがこの場所にいる理由だ。少しでも判断が違っていたなら、彼女は今頃投獄されていてもおかしくはない。
マテウスはこれらの事実を、どうエステルに伝えるべきか考えていた。頭ごなしに叱った所で彼女は理解出来ないだろう。なにしろ彼女は正しい事をしたと思っているのだから。そんなマテウスの緊張した面持ちに気付いたエステルは、静かになる。そして、そんな両者の間に流れた沈黙を破ったのは、意外にもロザリアだった。
「マテウスさんはどうすべきだったと、お考えですか?」
「俺が、か?」
「ええ。同じ状況に追い詰められた時。マテウスさんならば、どうやって私を助けてくれましたか? それとも、諦めますか?」
その質問でマテウスは、ロザリアもエステルの行為に、間違いを見出していると気付いた。孤児院と治安局に直接引き渡すように指示しなかったのは、彼女の入れ知恵だろう。つまり彼女は前述した内容を全て理解しながら、エステルを手助けをしたのだ。見た目によらず強かな女だと、マテウスは少し警戒を強めた。
「いや。俺ならそうだな。2、3人……出来るならば頭目を含めて不意打ちで制圧。そして奴隷商人相手に貧民街から誘拐した者だけを解放するなら、これ以上被害は出さないと交渉をする。この時、人質に取られる可能性があるから、ロザリアさんの名前は出さない」
このマテウスの言葉に真っ先に反応を示して見せたのはエステルだった。両手を机に着いて、足の届かない椅子から飛び降り、マテウスへと詰め寄る。
「なに? では、他に拘束されている者に関しては捨て置くと言うのか?」
「そうなるな。彼等は商会を通じて正式に売買される奴隷達だ。彼等に手を出す権限は俺にはない」
「また商会か。それがなんだというのだ? 弱き者が力に屈して、不当に拘束されているのは変わらんのだろう? それを助けるのが騎士の役目の筈だ」
「確かに彼等は弱く、商会に逆らう力はない。というより、商会には俺とて逆らえるモノではない。彼等は事情があって、金銭の見返りに奴隷として売られたのだ。その事情に君が言うような不当なモノがあったかもしれないが、売られた後の経緯は正当だよ」
「その正当とやらも、強者である商会とやらが敷いたルールではないか。商会が奴隷より、そして自分より強いからといって、私は私の中の正義を曲げる訳にはいかん。弱き者が拘束されているなら助ける。騎士の役目だ。マテウス卿、貴殿はそんな事も出来ない騎士なのか?」
ここまで頑なとはな……彼女の芯の強さは知っていたマテウスだったが、これ程までの反発は予想はしていなかった。だが彼は、彼女の父ゴードンと言い争っていた日々の事も、同時に思い出す。
彼女は父の背中を追い続け、これ程までに強く育った。だがマテウスにとって、今回の件を看過する訳にいかないのも事実だ。どう返したものか、そう答えを考えていた間に割って入ったのは、またしてもロザリアだった。
「エステルさん、商会は強者ではありませんよ。商会は生活を守る為に必要な存在です。なくなれば困ってしまう人が沢山出ます」
「だがロザリア殿。私には、自らの身の振り方も分からぬ弱き子供達を、不当に拘束する存在が許されるとは思えない」
「それにはマテウスさんが仰ったように、事情があったのだと思います。どんな事情であれ商会が扱う奴隷達は、彼等の保護者が正式に奴隷として雇って貰えるようにと商会に預けられた存在です」
「保護者? 親が子供を売るというのか?」
「口減らし、都合の悪い存在。そうであった子供達もいるでしょうね。だから商会は、そういった保護者達の言葉を聞き入れただけなんです」
そこまでロザリアが発言した時点でエステルが黙してしまう。それを見てマテウスは初めて自分の勘違いに気付いた。エステルが商会のシステムをよく理解してないのではないか? という疑念が湧いたのだ。そしてそれは正しかった。
「そういった子供達を養っていく事が出来ない理由を抱えた保護者達の下では、子供達はいずれ不幸な死を迎える事でしょう。いえ、そうなってしまう事が多いといった方がいいかもしれませんね。だが、奴隷としてなら……子供達は命を繋ぎ止める事が出来ます。少なくとも奴隷を買い取る事の出来る人物は、目的はなんであれ養っていく経済力があるからです。弱い子供達や女性からすれば、その先の人生を大人や商会の都合で奴隷として決定付けられる事が、不当に思えるかもしれません。ですが……」
そこでロザリアは一呼吸置いた。食堂に席を外していたレスリーが、音を立てずに入ってくる。会話の邪魔にならぬようにと、マテウスの右後ろへ移動。そこから少し離れた場所で足を止めた。ロザリアはレスリーに小さな会釈をして、エステルに向き直り、会話を再開する。
「ですが、力ないままに死を迎えるよりかは、いい選択だといえませんか? 商会はその選択に応じるだけの仕組みであり、組織。そういったモノなんです」
「付け足すなら商会はそれぞれの土地を管理し、あらゆる経営を管理している。商人同士の争いを起こさぬように務め、税を徴収し、それを国や領主へと上納する役目も担っている。だから、エステル。君がヴィヴィアナを助けたと言った行為……あれはヴィヴィアナの方に非がある。彼女はあの場所で、商会に無許可に営業をしていたのだろう。それは強い言い方をするなら、経済の秩序を乱し、国を裏切る行為だ。わかるか?」
マテウスの言葉の成否を、ヴィヴィアナに確認するような視線をエステルは送った。ヴィヴィアナは無言で両手を広げて肩を竦めて見せた。肯定こそしてはいないが、この場で否定しないという事がどういう事か程度、エステルにも理解出来た。
それに彼女は、ヴィヴィアナの過去の発言を忘れた訳ではなかった。
『あれは、私が商会を通さずに勝手に商売をしていたからっていうか。面倒だったけど、あれに関してはあいつ等のが正しかったっていうか……』
エステルの頭の中でもう1度ヴィヴィアナの言葉が蘇る。その時の彼女は装備の大半を外していたが、脇に差したままになっていたソードブレイカーに触れながら、ヴィヴィアナを睨みすえた。
「つまりヴィヴィ殿は、それが罪であると分かっていてあの場所で商いをしていたのだな?」
「まぁ事情はあるけどそうなるね。なに? やるっていうの?」
エステルの剣幕に当てられて、ヴィヴィアナも席から立ち上がり、両脇に差した2本のナイフの柄に触れた。臨戦態勢を解こうとしない2人にそれぞれ声が飛ぶ。
「やめなさい、ヴィヴィ」
「剣を抜くな、エステル。軽々しく抜いた結果がこれだと、今自覚したんじゃないのか?」
マテウスの言葉がエステルに痛烈に響く。その葛藤は剣に触れる手の震えからありありと見てとれた。エステルの剣から手が離れたのを見て、ヴィヴィアナはもう1度、椅子へと腰をおろす。
「では私は……今日1日、初めから間違いを犯し続けていたのか?」
「少なくとも最良の選択とは言えないな」
「はっきり間違いと言ったらどうなのだ?」
「別に君に気を使ってそう言った訳じゃない。物事そう単純じゃないんだ。エステル、君は今、少し冷静さを失っているぞ」
「うっ……そうだな、その通りだ。すまない。外の空気を浴びて頭を冷やしてくる」
そう言ってエステルは1人食堂を出ていった。横を通り過ぎるエステルに声も駆けれずに、オロオロと皆の顔色を伺うだけのレスリー。ヴィヴィアナは一瞥もくれようとはしなかった。ロザリアだけがその背中が食堂から消えるまでをジッと見守っていた。
「ロザリアさん。どうして止めなかったんだ? 話を聞く限り、君が先程の説明をすれば、止める事も出来たのではないのか?」
「私が先に止めたのに聞かなかったのはあの娘でしょ。それともなに? アンタ、まさか姉さんが悪いって言いたいの?」
「ヴィヴィ、やめて。マテウスさんは私に聞いているの」
ロザリアの制止にヴィヴィアナはそれ以上の追及を抑えるが、未だ納得できないような鋭い視線をマテウスへと送り続ける。マテウスは敢えてそれを無視して、ロザリアの返答を待った。
「マテウスさんの仰る通り、確かにあの場でそうする事は出来ました。エステルさんが、商会についても、奴隷についても、よく理解しないままに、ただ助けようとしている事には気付いていましたしね」
「じゃあ何故そうしなかったんだ?」
「私も助けたかったんです。彼等に帰る場所や行く宛がない事が分かっていても、刹那的な正義だと分かっていても、助けたいという感情が間違いだって蓋を閉じてしまうのが嫌でした。エステルさんを見て、そう思ったんです」
ロザリアの浮かべる柔和な笑顔には、嘘を吐いている様子はなかった。まるで小さな悪戯が成功した時の子供のような無邪気な笑顔だと、マテウスは思った。だが、彼女のそんな悪戯の所為で未熟にも思い悩んでしまった少女がいる。そしてそれはマテウスの教え子だ。放って置く訳にはいかない。
しかし、マテウスよりも先にロザリアから提案があった。