誓いの啼泣その5
レスリーが静かに涙を零す間、マテウスは彼女に声も掛けられずに静かに隣に立っていた。彼には彼女が何故、突然泣き始めたのか理解出来なかったからだ。だが、激しい訓練の最中でも、レスリーがこんな涙を見せた事がないのをマテウスは知っている。それなりの理由があるのだろう事は、想像に難くない。
マテウスには、レスリーの涙の理由を、直接問い質す選択もあった。そして思いつく限りの適当な言葉を並べれば、その涙を止める事も出来たかもしれない。だが、彼女の事をなにも理解していないマテウスがそれをするのは、自身の居心地の悪い現状の改善であって、本当に彼女の為になるのか? という疑問がマテウスには残った。
だから彼はなにも言わず、静かに傍に立っていた。その涙を止めてやる事は出来ずとも、涙が枯れるまで付き合う程度の事は、造作もない。
そしてマテウス自身、少し考えたい事があったのだ。赤毛の女が告げた、父さんという言葉に対してだ。
マテウスは教官役として一歩身を引いた道具として、騎士見習いのレスリーと向き合っていた。だが、部外者から見ればただの父娘に見えるらしい事に気付かされて、それ程にレスリーは若く、自らが年配である事に思い至ったのだ。
であるならば、自らがすべきは違ってくるのではないだろうか? と、疑問を抱く。マテウスがまだ騎士として駆け出しで道を見出せなかった時、ゼノヴィアの父セドリックが、エステルの父ゴードンが、歳の離れた先覚達が示してくれた道や、与えてくれた言葉は、彼にとっては有難かった。
まだ娘のように幼いレスリーが手を伸ばすのを待つのではなく、マテウスから深く彼女へと踏み込んで、その手を掴んで手繰り寄せる。そういう方法もあるのではないだろうか? と、その可能性を考えたのだ。
「すっ、すいません……お待たせしましたっ」
「いや、気にするな。落ち着いたか?」
「は、はい。レスリーならもう、だ、大丈夫です。お帰りになりますか?」
「そうだな。そうしようか」
瞳の周りを赤く腫らしたまま、強がるような笑みを浮かべるレスリーに対して、その事をそれ以上指摘する気になれなかったマテウスは、静かに彼女と並んで歩き始める。
マテウスの横に並ぶレスリーは、時折鼻を啜るような音を鳴らしながらも、しっかりと顔を上げて前を見据えていた。そんな彼女にどう声を掛けるべきか迷いながら、何度か様子を伺うたびにレスリーもマテウスが気になるようで、2人の視線は交わる。
だが、その度に互いに極まりが悪く、すぐに視線を逸らした。そうやって何度か同じ事を2人繰り返してたが、マテウスは意を決して口を開く。
「レスリー」
「あっ、あのっ!!」
しかし、2人の声が掛けるタイミングが重なってお互いに二の句を告げれなくなってしまった。2人は立ち止まって、互いに牽制し合うように見詰めあっていたが、おずおずと手を上げたのはレスリーからだった。
「あっ、あの、レスリーから、いいですか?」
「あぁ、いいぞ。聞こう」
マテウスは、レスリーがおそらく初めて見せた小さな主張に、戸惑いを隠せぬままに頷いていた。そしてそれは、その後の質問の内容に対しても同様だった。
「マテウス様は……ど、どうしてレスリーに良くしてくれるのですか? 今まで髪の色も、肌の色にも、お、御家の事についても触れずに、い、いてくれるのですか?」
その緊張に硬く強張った声色の質問を聞いて、マテウスは感情を激しく揺らされた。レスリーにとってその質問は、今までのように、ただ流れに身を任せるではなく、マテウスと向き合おうとする勇気。そういったモノを示す為の問い掛けだった。
もし以前までのマテウスなら、この質問に対して端的にこう答えていた事だろう。レスリーが見習い騎士で、自身がその教官という役目だからそうしたまでだと。その役目を全うしようとする限り、何物にも囚われる必要はないと。
多分この答えに間違いはない筈だ。2人の関係も明確になり、指導も円滑になるだろう。だが自身の本心が違う所にある事を、彼自身が自覚していた。
マテウスはもう1度思い出すようにと、自問する。これまで彼女と過ごした、約1週間の出来事を。いつだって謝り倒す姿、訓練中の姿、作業中に付き従う姿、モニカに感じた言い知れない怒り、そしてそれを痛快に晴らしてくれた彼女の見せた知性……
(セドリック卿とゴードン卿も、こんな気分だったのかも知れんな)
「君が……君が俺の教え子だからだよ。御家も肌も髪も関係ない。まだたった1週間かそこらだが、一緒に過ごして、少しずつ成長する君を見てるとな。良くしてやりたくもなる」
「でも、でも……レスリーはそんないい子ではありません。ま、マテウス様の仰る事を聞くのも、ドイル家に……あそこに戻るより、ま、マシだからです。ただ、マテウス様を利用するだけの、み、醜くて浅ましい女なんですっ。すいません、すいませんっ、でも、だから……良くして貰う価値なんてないんですっ!」
「別に構わん。好きなだけ利用しろ。君が生きてきた事を思えば……これから、もっと苛烈になるだろう、闘いの中で生きていく事を思えば、それぐらい強かである方がいい。だからもう謝るな。堂々としていればいい」
「でも、でもっ……レスリーは堂々と、で、出来るのでしょうか? レスリーは、レスリーだってもう……本当は、あ、謝りたくありません。お母さんとお揃いのこの髪と、この肌の事で、もう誰にも謝りたくなんてないんですっ! 強く、なりたい。こんなレスリーでも、強くぅ……なれますかっ?」
「時間はかかるかもしれない。それに俺には騎士としての道しか示せない。だが、騎士としてでいいのなら、必ず強くしてみせる。約束だ」
既に声を震わせていたレスリーは、マテウスが告げ終わったのと同時に彼の胸へ飛び込んで、盛大に声を上げながら泣きじゃくった。流しきった筈の悲しみが、彼女の内で悔しさとなって、涙に変わっていく。子供のように、恥も外聞もなく、ただただ感情に身を任せて、ごめんなさいと、強くなりたいとを繰り返しながら、声を枯らしながら涙した。
マテウスはそんなレスリーの背中を叩いてやりながら、静かに大丈夫だと、約束だと言葉を返してやる。このやりとりが正しかったどうか、マテウスは知らない。明日からレスリーが激変するとも思えないし、その先で約束を果たせる確証もなく、得られた強さが彼女の望むものである保証もない。
だが、正解が見えないからといって、足踏みをしている訳にはいかない。手さぐり歩みだそうという教え子がいるなら、先が見えずとも、同じく付き合ってやらずして、教官とは呼べまい。
(子守はごめんだった筈なんだがな……)
マテウスの半身は心に強く誓った決意に対して、面倒事をまた抱えたなと、冷徹に見据えていた。だが、もう半身で篝火に触れるような温かさを覚えて、大切にしてやりたいと、そう思っていた。