逃れようのない依拠その2
モソモソと硬いパンを咀嚼して、白湯を飲み込んで口の中を渇きを癒すアイリーン。レスリーはその作業を甲斐甲斐しく、黙々と手伝っていた。特別な会話もなく、静かな時間が流れていく。
エステルを助けようとした際、水路に飛び込んだ事もあって、アイリーンの全身はまだ半渇き状態であった。しっとりと濡れた髪や、破れかけの襤褸衣から、動く度に零れ落ちてしまいそうな水の滴る肉体が、嗜虐心を逆撫でるような妙な色香を放っている。
「んっ? もしかして私、やっぱり臭うかな? 自分だと分かり辛くて……でも私、下水で泳いじゃったもんね。あははっ、ごめんね?」
レスリーからの視線を感じたアイリーンが、浅く照れ笑いを零しながら、恥ずかし気に顔を伏せる。自らの首元に顔を近づけてスンスンと鼻を鳴らすが、やはり判然としなさそうであった。
「べっ、別に……その、きにっ、気になりませんので。あのっ、そ、それよりっ……レスリーの事を、たっ、助けて頂いたって、エステル様が、そのっ……」
「えっ? あっ! それは、いいんだけど……エステルは他になにか言ってなかった?」
「……じっ、次期当主様が、おっ、お亡くなりに、なったとも、おっ、仰って、おりました」
「あぁ……レスリー、本当にごめんなさいっ。ジーン卿の事は、隠しておくつもりはなかったの。でも、こんな時に伝えるのは、レスリーが動揺しちゃうかなって……」
そこまで言い掛けて、アイリーンは顔を俯かせて口を閉ざした。そしてゆっくりと頭を横に振るう。
「嘘。私……怖かったんだ。本当は私から真っ先に伝えるべきだって分かっていたのに、この事をレスリーに知られて、嫌われちゃうんじゃないかと思って」
罪悪感に蝕まれて、歪んだ表情を浮かべるアイリーンの横顔をレスリーは珍しそうに見やった。彼女にこんな卑怯な一面があった事に、むしろホッとした安堵すら覚えた。
それに、レスリーからしてしまえば、兄であるジーンの死など、喜ばしい事以外のなにものでもない。もう彼に煙たがられ、暴言や暴力を浴びせられる日が来ないと知って、むしろ晴れやかな気持ちにすらなった。
ただ、それを口にしたり表情に出す事は、レスリーには出来そうになかった。ジーンが死んだと聞いてなお、絶対に彼の耳に届く筈もないこんな薄暗い地下の一室でさえ、その声が、その表情が、もし見聞きされてしまった時の事を思うと、身体の震えが止まらないのだ。
どんな言葉を掛けられようとも拭い切れない、圧倒的な恐怖を、刷り込まれてしまっているのである。
「だっ、だから……レスリーのっ、命を救った事も、仰らなかった……の、ですか?」
「それも、私はレスリーと一緒に溺れていただけで、私達の事を助けてくれたのはパメラだもの。それに私の口から伝えて、レスリーに負い目を感じてもらうのは、嫌だったから」
アイリーンの言葉に、虚実は混じってなさそうだとレスリーは感じた。エステルを助ける為に、躊躇なく下水に飛び込んだ時と同じように、彼女は運河に身を投じた自身を追って、飛び込んだのだろう。危うくも、無策なその姿がレスリーにも容易に想像できた。
「そっ、そんな事っ。ほ、本当に……本当にレスリーを引き止めたいので、あればっ、つっ、伝えればいいじゃないですかっ。命の、おっ、恩人の言う事を聞けって……そう、はっきりと申しつければ、レスリーだってっ」
「さっきの時も思ったのだけれど……もしかしてレスリーは、引き止めて欲しいの?」
「ちっ、ちがっ。違いますっ!」
レスリーは顔を真っ赤にしながら、否定を露にした。己の心の内にまで、そう言い聞かせるように。
「うん、安心して。私はレスリーの事、引き止めたりしないよ」
アイリーンの優しく落ち着いた声音。だというのに、その内容にレスリーは一瞬にして胸中をざわつかせる。
「えっ……えっ? それはっ、その、やっぱり、レスリーなんて必要なくて……」
「そうじゃないっ。そうじゃないの、レスリー。私にとってレスリーは必要で、とっても大切な人の1人で、私の幸せに欠かせない人よ。でもね? それは私にとって幸せで、レスリーにとっての幸せとは限らないから」
「レスリーの幸せ?」
「そう。私の幸せは昨晩に伝えた事が全て。少し嫌いな所があって、それでもやっぱり大好きで、もっと仲良くなりたいし、ずっと傍にいて欲しい。そうして伝える事が、私に出来る精一杯の我儘。それ以上を望んじゃうと、我儘じゃなくて……強要とか、命令とか……そういった、息苦しいものになっちゃう」
アイリーンは顔を上げ、寂しそうな微笑みを浮かべてレスリーを見つめる。
「私、大切な人にそんな思いをさせたくない。幸せになって欲しい……だから、ラウロさんと一緒にいる事がレスリーにとっての幸せになるなら、引き止めたりなんて出来ないよ」
両手両足を奪われた、なんの抵抗も出来そうにない無防備なアイリーンに対して、怯えた様子を見せながら後退るレスリー。
「だから教えて、レスリー。貴女の幸せってなに?」
レスリーに、分かろう筈もなかった。彼女が今まで生きながらえて来たのは、自らの命を絶つ勇気が出なかっただけだ。母が亡くなってからというもの、苦しく、辛い日々の連続で、赤鳳騎士団に入団してさえ、寂寞とした想いや、嫉妬のような後ろ暗い感情を持つ方が多いような彼女が、己の幸せと向き合った事などあろう筈もない。
マテウスの傍にさえいれたら、自らが強くなれたなら……苦しさや辛さなんて感じる事なく、こんな感情も抱かずに済む筈……今より楽になれる筈だと、たったそれだけの卑しく浅ましい願いしか、レスリーの内にはないのだから。
だから、今の彼女にはこういう答えしか出せなかった。
「れっ、レスリーには、わっ、分かりません。た、ただっ……あそこはっ、あっ、アイリ様の、世界にはっ! レスリーの、居場所では、あっ、ありませんのでっ」
そう告げながらフラフラと立ち上がったレスリーが退室しようとする。アイリーンはそれを追い掛けようとして、前のめりに倒れて派手な音を立てた。その音に驚いて、レスリーが再び振り返る。
「じゃあ、会いに行くっ。今みたいに、レスリーの世界に私の方からっ。ラウロさんと一緒の、幸せになったレスリーを、もう1度探しに行くからっ! だからっ、もう1度出会えたその時は……その時は私達、仲直りをしよう?」
「仲直り?」
「うん。久しぶりって抱きあって、元気だった? って笑いあって……お互いに幸せだよって話しあうの。だってこのままお別れだなんて、寂しいよっ」
「わっ、分かりませんっ。し、知りっ……知りませんっ!」
レスリーは逃げるように退室して、扉を閉ざす。その光景を這いつくばった体勢のまま見送ったアイリーンは、レスリーを失ったのだという現実が胸の内に膨らんで、その喪失感に涙が流れ始める。
「待ってっ、待ってよレスリーッ。嫌っ! やっぱり行かないでっ! 戻って来てレスリーッ。こんなのっ。こんなお別れ嫌だよ、レスリー。レスリーッ! わあぁぁぁぁ~~~~っっ!!」
1度感情が発露してしまうと留めようがなかった。子供のように泣きじゃくるアイリーン。その声は扉の向こう側で、後ろ背を預けて立ち止まったままの、レスリーにも届いた。
(ほらっ、正体を現した。結局、どんなに言い繕おうともアイリ様は、レスリーを出汁にして自分だけ助かって、幸せになりたいだけなんですっ。きっとレスリーみたいなベルモスク混じりが、幸せになんてなれる筈ないのを分かっていて、あんな言葉をっ……不幸になれっ。アイリ様も不幸になればいいんだっ!)
思いつく限りの悪態を吐いて、アイリーンを悪者に仕立て上げる。そうしないと罪悪感に圧し潰されてしまいそうだから。胸を締め付けるようなこの痛みと、熱くなっていく目頭の意味に気付いてしまいそうだから。
いつの間にかレスリーは、走り出していた。アイリーンの声を聞かなくて済むように両耳と両目を塞いで、何度も躓きながら、知りたくもない全てから逃げ出すように。




