終ぞ許せぬ己へのその5
「ヴィヴィアナッ!」
ヴィヴィアナが誰に向けてでもなく問い掛けた悲鳴。しかしその声は、彼女が今一番応えて欲しい相手……マテウスへと届いていた。
ヴィヴィアナとシドニー。2人を乗せたボートの姿が消えたのを確認するや否や、怪我の手当てを買って出た異形対策局の制止を振り切って、ここに駆け付けたのである。
しかし、その姿は誰が目にしても満身創痍だと分かる酷いものであった。
額を覆う包帯は勿論、乱れた制服から覗く胸板を覆った包帯までも赤く染まり、異形ハンクに貫かれた足が、地面を蹴りつける度に出血していた。当然、マテウス本来の健脚の面影はなく、身体を動かすたびに酷くなっていく激痛と、自らへの不甲斐なさに必要以上に歯を食いしばりながら、真っ直ぐヴィヴィアナの下へと近寄っていく。
「一体なにをっ……」
樹木に押し流された沈みかけのボートの上に立ったまま、逃げようともしないヴィヴィアナ。一体なにをしているのかと正気を疑い掛けたマテウスだったが、そこで初めて彼女の片腕から伸びるロープの先が、橋向こうのシドニーへ伸びている事に気付いて、益々状況の劣悪さに顔をしかめる。
「あんな奴、放っておいても死なんだろうに、糞ったれっ。おいっ、ヴィヴィアナッ。ボートをなんとかしないとぶつかるぞっ! 聞こえていないのかっ、ヴィヴィアナッ!」
しかし、マテウスの声にヴィヴィアナは応えない。集中していて視野が狭まっているうえに、急流の水の音がうるさくて、マテウスの声が彼女に届く前に掻き消しているのだ。
右手でロープを掴みながら、左手を伸ばして舵を掴まえるヴィヴィアナ。体を沈ませて舵を回そうとするが、船体は微動だにしない。そして……
バギィッッ!!!
石造りの橋脚にボートと樹木が激突。樹木と橋脚に圧し潰されたボートから、絶叫のような衝撃音が鳴り響く。それと同時にヴィヴィアナが吹き飛ばされて転落。橋の下へと姿を消した。
「あの馬鹿っ。ヴィヴィアナ、ヴィヴィアナッ!」
程なくしてマテウスは橋に辿り着き、ヴィヴィアナが姿を消した直上付近の安全柵から、身を乗り出して河川を覗き込む。もう最後の手段として自らも飛び込むしかないと、安全柵に足を掛けたその時、河川からヴィヴィアナが顔を出した。
「プハァッ、ケホッコホッ……オジサン!? 何処っ?」
「ここだっ! ヴィヴィアナッ!」
「はぁっはぁっ、そう……無事で良かった」
天を仰ぐように頭上を見上げたヴィヴィアナは、マテウスの姿を確認すると、顔を綻ばせて満面の笑顔を浮かべる。マテウスは、思わず釣られて笑いそうになる自身を堪えて、苛立たし気な声をあげた。
「この状況で、お前がそれを言うかっ。すぐに助けるから待っていろっ」
そう吐き捨てるとマテウスは、柵の外側に回り込んで、左手で柵の底部を掴みながら、橋脚に足を掛けてヴィヴィアナへと手を伸ばす。
「ヴィヴィアナッ、手を伸ばせっ」
「私っ、両手塞がってるんだけどっ」
「早くそのロープを放んだよっ。シドニーなら自分でなんとかするっ」
「でもアイツ、片腕怪我してんじゃんっ。だからせめてっ、アイツが岸にたどり着くまでっ」
マテウスは視線を再びシドニーへと戻す。ヴィヴィアナの言葉通り、シドニーはロープを掴んでる事によって急流の中でも顔を水面から上げる事が出来ているし、ゆっくりとだが、下流に流される事なく岸へと近づいていっていた。
「あぁっ、面倒臭ぇ。シドニーッ! とっとと泳ぎ切っちまえっ!!」
思わず心の声が漏れ出してしまうマテウス。八つ当たり気味に、シドニーに向かって吠える。その後、ロープを無理矢理外してやろうかとも考えるのだが、ヴィヴィアナは間違っても外れないようにと、自らの右腕にロープを何重にも巻き付けていた。
いつからそうしていたのかマテウスには分からなかったが、強く引っ張られる事によってロープは彼女の身体に深く喰い込み、肌を変色させ、血の跡すら滲ませていて、その様子から、彼女の覚悟の具合が手に取るように分かった。
「ハハッ。これぐらいっ……アンタがいっつもやってる事と変わらないでしょ?」
「俺は泳げもしないのに、こんな無謀な事はせん」
仕方ないのでヴィヴィアナの左手に視線を配るが、橋脚の裏に隠れていて、この場所からでは届かない。そう判断したマテウスは素早く登って、橋の反対……上流側に向かって柵の外側へと回ると、ベルトを外して柵へと括りつけ、それを使って更に距離を稼いで手を伸ばした。
「同じよっ。相談もせず、勝手に身体張って怪我をして、気にするなの一点張りっ。こっちの心配には取り合ってもくれやしないっ」
「そういう手合いの説教なら、もう沢山だっ。ヴィヴィアナッ、こっちに手を伸ばせっ」
マテウスに促されてヴィヴィアナが左手を動かそうとするが、シドニーと繋がったロープに強く引っ張られるうえに、橋脚が濡れて滑りやすく、思うように左手の位置を変えられない。
「でも、それは前までのアンタで……今のアンタは違うもんね? 楽したいって、助けたいって、皆で助かる為に力を貸してくれって、そういうのが全部、私と同じだって分かったの、正直ホッとしたっ」
バリッ、バリッ……聞き慣れない音がマテウスの耳朶を撫でる。彼がチラリと視線を音の方に配ると、樹木と橋脚に挟まれて圧し潰され続けていたボートの亀裂がジワジワと広がって、今にも粉々に砕けようとしている所であった。
「時間がないぞっ。シドニーなら後はなんとかするから、はやくロープを放せっ」
「今は皆っ、アンタに比べれば全然弱くて、足引っ張ってばっかかもだけどさ。絶対、私達……強くなってみせるから。アンタの事だって助けてみせるからっ。だからもうっ、勝手に諦めたりしないでよっ!」
シドニーが岸に辿り着き、ロープの力が緩む。そして、ヴィヴィアナがマテウスの手を掴んだ瞬間、ここまで耐えていたボートの命運が尽きた。雷が落ちたかのような轟音と共に船体が真っ二つに砕けて、水の流れが急変した衝撃で、樹木までもがボートの残骸と共に襲い掛かって来る。
この一瞬の間に、マテウスは選択を強いられていた。
ここからヴィヴィアナを引き上げようとすれば、彼女共々マテウスまでもが残骸に巻き込まれて、極めて高い確率で、2人は死を迎える。だがもし、この手を放す事が出来れば、ヴィヴィアナを犠牲にして、マテウスだけは確実に生き残る事が出来る。
(1か0か……迷うまでもない選択だ)
こんな時にも関わらず、マテウスは思わず笑みを浮かべてしまった。それはくだらない悪戯を思いついた時のような、苦笑いにも似た笑顔だ。
そして、笑顔を浮かべたまま彼は橋脚を勢いよく蹴りつけて、ヴィヴィアナと共に河川の中へと身を投げた。