終ぞ許せぬ己へのその2
捉えた。放った瞬間にそう感じたのは、何時ぶりだったろうか。彼女の一矢は、異形ハンクの、唯一人間の形を残した胸部を見事に貫いた。
偶然振り向いたタイミングで、その瞬間を間近に見届けたマテウスは、ヴィヴィアナと異形ハンクとの距離を確認して、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。舵を取りながら脇目に確認していたシドニーなどは、本当に矢があたっているのかと、目を疑ってしまった程の出来事だ。
だが、当のヴィヴィアナ本人は既に次の動作に移っている。
(怯まないっ。心臓が逆位置なの?)
命中。風雨が再び強くなってヴィヴィアナの視界を曇らせるが、ヴィヴィアナから放たれた次の一矢が、胸部の逆位置を正確に貫いた。
(これも駄目っ。付け根はどう?)
命中。河川が突然跳ねてボートが揺れるが、柔軟な足腰を使って上半身を支えながら、一呼吸の間に次の一矢が放たれて、異形ハンクの下腹部を貫いた。
(違うっ。それなら、せめてこっちに意識を向けさせてやるっ)
命中。ヴィヴィアナから放たれた次なる一矢が、マテウスを捕らえようとした触手を次々と消し飛ばす。弓矢一本分すら外れる事が許されない精密機械のような正確さが求められる状況で、彼女は眉一つ動かさない。
命中、命中、命中、命中、命中命中命中命中命中命中命中命中命中命中……
「ははっ、これがもう弓を引かないとか言っていた奴の腕かよっ」
薄皮一枚程度の至近距離で次々と突き抜けていくヴィヴィアナの弓射に、驚嘆を通り越して笑いがこみ上げてくるマテウス。遂に異形ハンクがその足を止めた事もあって、彼にその猶予が許されたのだ。
勿論、それはヴィヴィアナの功績であった。次々と放たれる矢の正確さもさる事ながら、彼女の矢の驚愕すべき点は、卓越した連射技術。指先から離れた矢が異形ハンクを捕らえた瞬間には、次の矢を顕在させて引き絞り、狙いを定める間もなく次の弓射を終えているのだ。
高速で矢を番え終えた後に、動いているボート上にも拘わらず、狙いを定めるという工程を省いて弓射を終えているのだから、たった1人の弓で、銃撃以上の弾幕を実現していた。
ヴィヴィアナの執拗な攻撃に完全に足を止めてしまった異形ハンクが、下腹部の大口を広げながら身体を膨らませる程に酸素を取り込んでいく。マテウスとヴィヴィアナがその光景を見るのは2度目。背筋にゾッとした寒気が走った。
「やっば。耳を塞いでっ」「はっ? どうしてっ」「耳を塞いでっつってんのっ。はやくっ!」
ヴィヴィアナの言葉が最初から正確に届いていたとしても、シドニーには耳を塞ぐなんて事は出来なかったであろう。初見の相手に事態の深刻さが伝わる筈もなく、そもそも唯一使える片腕を舵に取られている彼には、物理的に不可能だ。
危険を察知していたマテウスが歯を食いしばりながら両耳を抑え、ヴィヴィアナも真紅の一閃から両手を離し、両耳を抑え終えたその時……
「コォォォオオオォォオオォォォォーッ!!」
再び解き放たれた長い長い咆哮。その衝撃故なのか、前回の咆哮と同じく、雨が止み、風が掻き消え、木々が騒めき、大地にまで亀裂が走る。
距離が離れていたヴィヴィアナはともかく、間近で受け止める事になったマテウスと、耳を抑える事が出来なかったシドニーは、脳髄を駆け抜け、身体の芯までをも揺すられる衝撃に、崩れ落ちて動きを止めてしまった。
「あぁっ、うるせぇっ。黙ってろっ!」
我慢の限界に達したマテウスが、崩れ落ちた姿勢のまま右手でショックエイクを掴み直して、理力解放させながら地面を叩き付ける。その理力は地を這い、異形ハンクの真下を破裂させて衝撃となって突き抜ける。
それによりマテウスの目論見通り、異形ハンクの口は閉ざされて、ひとまず咆哮が中断された。
ボートの縁で身体を支えながら腰を上げたヴィヴィアナは、這いずるようにして舵へと手を伸ばして船体を支える。そうしながら、蹲ったまま動こうとしないシドニーの背中を叩いて声を掛けた。
「ねぇっ、聞こえてるっ? ねぇっ! 大丈夫なのっ!?」
「そんなに耳元で叫ばなくても聞こえています。少しは気を遣うぐらいしてはどうですかっ?」
「それだけ反論できるなら、気を遣うまでもないんじゃん? ほら、こっちよろしく。私はオジサン助けないとだからっ」
操舵をシドニーに預けて、再び真紅の一閃を拾い直しながら顔を上げるヴィヴィアナ。彼女の視線の先では、マテウスが異形ハンク下腹部の大口。そこに顎があるとするならば、下顎と上顎の繋ぎ目である顎関節部分を、ショックエイクで直接殴打している瞬間であった。
更にショックエイクを理力解放。衝撃に仰け反って、悲鳴のように弱々しい声を漏らす異形ハンクの様子に、ヴィヴィアナはそこに狙う価値を見出した。しかし……
(えっ? さっきまでと感覚が……)
再び矢を番えようとした瞬間に指先に走る違和感。今まで陥っていたスランプとは別種の、身体が不具合を起こしているかのような感覚に、ヴィヴィアナは大きく戸惑う。
矢の1本どころか、弦の1本を張り直す事すら出来なくなっていて、彼女は理力倉の残量を疑った。
「理力倉は……まだ残っている。なんでよ、こんな時に。せっかく上手く回りかけてたのにっ!」
苛立ちながらも最後の理力倉を取り出して、手早く交換を終えるヴィヴィアナ。そうした後でさえも、指先に己の理力が集まっていく感覚を捕らえる事が出来ず……その現象はまるで、別種の理力が干渉して理力解放を起こせない時の状態によく似ていた。
戸惑いの最中、ずっと視線を落としながら試行錯誤を繰り返していたヴィヴィアナに、突然衝撃が襲い掛かる。ボートが急に方向を転換しながら急発進したのだ。
縁に頭をぶつけた痛みを堪えながら、顔を上げるヴィヴィアナ。マテウスの様子を確認すると、異形ハンクと対峙している彼との距離が、急速に離れて行っている事に気付く。
「ねぇ、なんでボート動かしてんのっ? オジサンから離れちゃってるじゃんっ」
「分かっていますっ。ただ理力解放が上手く発動しなくて、自走機能が死んでしまっているんです!」
「それって……」
シドニーが陥っている状態が、今の自分と同じである事に気付いて、ヴィヴィアナは胸にざわつきを覚える。1度目の時もそうだったではないか。あの時はスランプの方に意識を割かれていて気付いていなかったが、狙いはともかく威力が落ちたのはこれが原因にあったのではないか? と。
特殊部隊シェラーズの隊員達にしてもそうだ。1度目の咆哮の直後、彼等は直前まで使っていたアクアフレッチャーが、突然理力解放が出来なくなって一気に隊列が崩れ始めたというではないか。
これらの全てを偶然として片づけられるものなのだろうか?
だがそんな事を落ち着いて考える間もなく、ボートは流され続けて、事態は深刻の一途を辿っていく。そんな中、ただ1人マテウスだけは……
「そらよっ。まだ喰い足りねぇんだろ?」
ショックエイク……理力解放。
彼がショックエイクを叩き付けると同時に地面が爆ぜて、無数の石礫が、大口を開いたままの異形ハンクの口内を突き破る。異形ハンクは明らかにそれを嫌がるように、大口を閉じて身体を反らした。
「なんでアイツだけ平然と……ていうか、嫌がらせの才能でもあるの?」
絶望的な状況で、満身創痍だというのに、むしろ活き活きとした様子のマテウスに、少しだけ気が抜けてしまうヴィヴィアナであった。