そのまま触れずにいられるならその1
―――ほぼ同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、歓楽街付近
「落ち着きなさいっ!」
治安局ヴェネット特殊部隊シェラーズ。理力解放を想定した戦闘に重きを置いたヴェネット屈指の戦闘部隊は、当然、近接格闘にも秀でている。
「……邪魔っ!」
犯罪者の後ろ手をひとたび捕らえれば、文字通り一瞬で組み伏せて、無力化する。そういう技術も心得ていたのだが、ヴィヴィアナ相手にはそれが上手くいかなかった。何故なら、ヴィヴィアナにもその技術が備わっていたからである。
ヴィヴィアナがその技術を体得したのは、極々最近からだ。元々、体術の才能を持ち合わせていたので、誰に学ぶ事もなく水準を上回る力量が備わっていたのだが、マテウスに教えを請うようになったのを切っ掛けに、更なる力量を得ていった。
教えを請う……と言っても、ヴィヴィアナが正しくマテウスに教えを請うた瞬間など、実のところ一度もない。ヴィヴィアナの言い分に従うなら、弓を使えない状態の彼女が、人間を相手にして、安易にナイフに頼らないでもいいような護身を覚えさせようと、マテウスが勝手に始めた事であった。
男相手なら誰彼構わず喧嘩腰になってしまう彼女と、その喧嘩相手の事を想ってマテウスが気を回したというのが経緯なのだが、最初はマテウスの相手にならず、簡単に組み伏せられてしまうし、彼が妙に密着して、身体の至る所に触れてくるのが不愉快で、何度も本気で怒りを覚えていたりもしていた。(近接格闘の練習をしているのだから当たり前の事なのだが、それすら許せなかった)
だが、継続していく内に、身体の動かし方1つで拘束を解けるようになったり、筋力に頼らずマテウスのような大男までも抑えつける事が出来るのを体感して、その成長が、その時間が、彼女の内で次第に楽しみになっていった。
それからというものヴィヴィアナは、マテウスの時間が空いてそうな頃合いを狙っては、彼に声を掛けに行った。ただ、その誘い口というのが……『しばらくの間、弓の修練場で自主練してるから』とか『いつもの所で、ちょっと身体動かしてくる』とか『前に言ってたヤツ、多分出来るようになったんだよねぇ』とかとか……
近接格闘技術とは相反して、一向に成長の兆しを見せない、ひねくれた誘い方しか出来ないでいた。
ただ、そんな誘い方でも、マテウスは大抵『俺も後から様子を見に行く』とか『丁度、俺も身体を動かしたいと思っていたんだ』とか『後で本当に実践レベルかどうか、確かめに行こう』とかとか……
積極的に、ヴィヴィアナの為に時間を割いていた。ただ、余りにも回りくどい誘い方の時もあって、そういう場合は本当に気付かなかった……などという事態も発生する。
そうした日は、分かり易く不機嫌になってしまうので、マテウス側からすれば、なんとも迷惑な誘い方だな、というのが感想なのだが、ヴィヴィアナの事を気に掛けていているのは事実なので、文句一つ彼女に訴える事はなかった。
(やめてっ。やめてよっ……なんでそんな事を今、思い出すのよっ!)
シェラーズ隊員を完全に振り払ったヴィヴィアナは、マテウスが倒れた先へと駆け出す。身体に覚え込ませた技術は、簡単に消えるものではない。そして、その為の日々もまた、鮮明に思い起こせてしまうのだ。
爆発によって一時的に鼓膜が機能しなくなっていたヴィヴィアナは、無音の空間をヨタヨタと駆け抜ける。雨の勢いが少しだけ弱まっていくのを肌で感じていたが、何故か視界がより滲んでしまうのが止められずに、マトモにマテウスを探索する事が出来ない。
「マテウスッ、どこっ!? 返事ぐらいしてよっ!」
マテウスが倒れた付近にまで移動したヴィヴィアナは、大きな声で呼び掛ける。次第に聴覚を取り戻した彼女は、自らの声が震えている事にそこで初めて気づくのだが、その意識は全て、マテウスの姿を探す事に向けられていた。
そして、ヴィヴィアナが最後にマテウスを見た位置から少し離れた場所。崩れかけの建物の中で、人影が身動きしている気配を察する。彼女は真っ先にその方向へと走り出した。
「マテウスッ!」
そこにマテウスはいた。崩れかけの建物の中から自力で這い出て来た彼は、理力解放による爆発に1番間近で巻き込まれたようで、立ち上がる事も億劫そうに、壁に背を預けながら、その場に座り込む。ヴィヴィアナはそんな彼に飛び掛かるようにして、両肩を掴む。
「ねぇ、大丈夫? 平気? 本当に平気なんだよねっ? あぁ……もう無事でよかったっ。ごめん、私っ、とんでもない事をしてっ、なんて言ったらいいか……あぁ、それより、どうしよっか? どこか痛い所ある?」
「おい、落ち着け。落ち着け、ヴィヴィアナ。今は少し聞き取り辛くて、なにを言ってるのか……とりあえず、見た目ほど大した事はないから、心配するな。それより、あの異形はどうなったんだ?」
「異形なんて……あんなの、もう死んだに決まってんじゃん。それより、アンタ。その傷」
ヴィヴィアナはそう告げながら、恐る恐るマテウスの額に手を近づける。彼の額には、誰が見ても気付く程の大きな傷が斜めに走っており、決して浅いとは言えない痕から、今も血が滴り落ちていて、それがマテウスの目に掛かってしまっているようだ。
「見た目ほど大した事はないって言っているだろう? 気にするな。それより、血が目に掛かるからなにか止血出来るようなものを……」
「また、そうやってっ……待って。止血剤はないけど、包帯持って来てるから」
ヴィヴィアナは言い掛けた言葉を飲み込んで、頭を振るった。改めて彼女が懐から取り出した包帯は、雨の中で走り回った事によって少し湿っていたが、止血の用途を果たすのには十分で、マテウスの流血を喰い止めてくれた。
「なんで包帯なんて持ち歩いているんだ?」
「アンタが無茶するような事があった時、すぐに包帯を変える事が出来ればって……でもまさか、私がアンタの事を傷つけるだなんて。本当にごめんなさい」
「騎士鎧を扱う者は、痛みを感じるようには出来ていないからな。だから、こんなかすり傷を気にするな」
顔に浴びる小雨を使って血を洗い流したマテウスが瞳を開ける。そこには、かつて見た事がない程に落ち込だヴィヴィアナの顔があった。濡れた長髪は力ないくすんだ茶色。大きく迷いに揺れた瞳は、少しだけ赤く腫れていた。
「気にするな気にするな、気にするなっ! いっつもそうっ。アンタのそれは色々マヒしちゃってるだけでしょっ! 馬鹿にしないでっ……こんなに傷だらけになってるアンタが、痛くて苦しんでる事ぐらい、私にだって分かるっ。辛いなら辛いって、ハッキリ口にしてよっ。オジサンが手を差し伸べるように、オジサンの力になりたいって思う人はたくさんいる。そういう人達から、オジサンを思いやる機会を奪わないであげてよ」
喧嘩腰になりかけていたヴィヴィアナの声が、話を続けるごとにまるで萎んでいく風船のように、小さくなっていく。
「アイリだってレスリーだってゼヴィさんだって姉さんだって、皆マテウスの力になってあげたいって思ってる。それにっ……その……私だって。私だって、少しは力になれるんじゃないかって。でも、私に出来るのは弓ぐらいで……なのに、こうしてこんな、足引っ張っちゃって……」
包帯を巻き終えると、彼女はその手に真紅の一閃を掴んで、マテウスに差し出した。
「あげる。マテ……オジサンが使ってよ」
「は? いや、それは君が使った方が……」
マテウスは断ろうとして、真紅の一閃を押し返そうとするが、その手が震えている事に気付く。
「分かるでしょ? もう真紅の一閃に触ってるだけで、両手の震えが止まらないの。怖いのよ……この弓で、また人を……アンタを殺しちゃうかもしれないって考えただけで、怖くて、胸が苦しくなるのっ」
マテウスへ真紅の一閃を受け渡したヴィヴィアナは、なにかから解放されたような、一抹の寂しさを宿した悲痛な笑みを浮かべる。
そしてふと思い出すのは、ゼノヴィアに借りた本にあった、同じようにスランプに陥った狩人の話だ。森の中で獣と間違えて女性を誤射してしまった狩人が、弓に触れる事すら出来ない程のスランプに陥ってしまうという話だ。
この時のヴィヴィアナには、その狩人の気持ちが痛いほど理解出来た。触れる事だけですら恐怖を抱いてしまうという、その胸の内が。
「どうせまともに扱えやしないのに、しがみついてたって仕方ないからさ。だから今日で終わり。今日限り……もう2度と、私は弓を引かない」