赤指の小鬼その4
目的の繁華街へと辿り着いたマテウスは、下の様子を確認もしないで2階建て家屋の屋根から飛び降りる。着地と同時に膝で衝撃を逃がしながら、片手を使って姿勢を制御。全身のバネを使って反転すると、水溜まりに自らの片足を突っ込むのも顧みずに、元にいた場所を仰ぎ見た。
「いけるかっ? ヴィヴィアナ」
「ちょっと黙っててっ!」
屋根の上では、ヴィヴィアナが縁際に足を掛けながら、地面との距離を測っていた。陽の光が射しこまない曇天のうえ、長い雨でそこら中に水溜まりを形成した石造りの道の上に飛び込もうとすれば、失われた距離感に躊躇をしてしまうのは当然だ。
「ヴィヴィアナ、早くっ。来てるぞっ!」
「分かって、るっ!」
少しだけ助走を付け直したヴィヴィアナが、覚悟を決めて飛び立つ。着地に両手と両足を使ってなお勢いを殺しきれず、顔や頭を地面に叩き付けられるのを避ける為に、水溜まりを巻き散らしながら地面の上を数度横転して停止するヴィヴィアナ。
2人の思惑通り、雨の上に一時封鎖された繁華街に人気はなく、大きな道幅が真っ直ぐと続いてく通りは、これ以上の被害拡大を防ぐのには適していた。
「はぁ……最悪」
ただ、ヴィヴィアナにとっては、いい事だけではなかったようで、雨に濡れた赤鳳騎士団の制服どころか、濡れて身体に張り付いた長髪や、口の中にまで泥が跳ねたようで、悪態と共に泥を吐き捨てながら、緩慢な動作で立ち上がろうとするが……
「来いっ」
マテウスは、そんな彼女の手を掴んで無理矢理に立ち上がらせると、自らの背後にまで引き寄せて、前に向き直る。それと同時に家屋を突き破って異形ハンクが姿を現した。飛び散った破片から顔を守る為に翳したマテウスの腕に、小さな木片が突き刺さって傷をつける。
「またっ……そんなっ」
マテウスに文句を投げ掛けながら後退していくヴィヴィアナ。しかし、彼女の文句は言い終わる前に、喉の奥に仕舞われる。
「ピギィィィイイィィッ!!」
マテウス目掛けて襲い掛からんとしていた異形ハンクの横腹を大きな水塊が捕らえる。第三者から齎された壮絶な痛みに、聞いた事もない苦悶の咆哮をあげる異形ハンク。
長い首を鞭を振るったような機敏な動きで身体を起こした異形ハンクに、次々と水塊が襲い掛かり、その度に大きく怯んで、抑えつけられるように地面の上へと転倒する。
「そこの2人っ。こちらへ来なさいっ!」
声のする方に視線を向けると、そこには10数人前後の物々しい武装をした男達が、横隊を組んで長銃型下位装具を構えていた。厚手の制服の上をプレートメイルで防護し、頭部を強固なヘッドギアでしっかりと覆った武装集団。そんな彼等の下へと、言われるがままに2人は退避していく。
「助かった。アンタ達は、治安局の人間か?」
「治安局ヴェネット支部特殊部隊シェラーズ隊長ロベルトだ。それで、あれは一体なんなんだ? お前達があの異形をこの街に持ち込んだのか?」
「馬鹿言わないでよ。そんな訳ないじゃんっ」
「やめろヴィヴィアナ……まぁ彼女の言う通り、俺達も詳しい事はなにも知らないのは確かだ。それに、アンタ達だって、附属病院の有り様を見てからコッチに来たんじゃないのか? 目撃者の1人ぐらい残ってただろう?」
ヴィヴィアナを一言だけ窘めると、彼女は不満気な様子を見せながらも押し黙る。ロベルトは、2人それぞれの顔色を伺った後に、もう1度異形ハンクを注視した。
「あんな状態では、マトモな証言なんて期待出来ん。後で、知ってる事の全て吐いてもらうからな。第2射構えっ。殺してしまっていい、外すなよっ」
ロベルトの短い号令に従って、訓練された隊員達により一斉射撃が絶え間なく継続される。
彼等が扱うのは、ベルトーラ社製下位装具アクアフレッチャー。圧縮した水をぶつける方式という点では、リキッドシュトロームと似たような性質を持つ下位装具ではあるが、アクアフレッチャーは漁師達が海洋漁業中に異形から身を守る目的が開発経緯なだけあって、その威力を対異形兵器として十分通用するまでに引き上げる事が出来る。
普段、対人用にまで落としこんだ威力が、特殊部隊仕様という事で最大にまで引き上げられているうえに、雨の影響で周囲が水場になっているのも相俟って、弾速こそリキッドシュトロームと変わり映えしないものの、その破壊力には天地の差が生まれていた。
「効いている、みたいね」
「そうだな」
助けは必要なさそうだな……と、判断したヴィヴィアナは、真紅の一閃を下げて隊員達の後方に下がっていく。
マテウスもそれに倣って後ろに下がろうとするが、隊員が自身達の退路を塞ごうと動いたので、(証言前の逃亡を防ぐ為)逃げる気はないと、両手を上げるジェスチャーで応えた。
そうして、次々と水塊が異形ハンクの身体を撃ち抜き、のた打ち回る姿を眺めながら、疲れた身体に一時的な休息を与えていた2名であったが、異形ハンクが顔を上げて、また体内から小型異形を吐き出した辺りから、形成が変わっていく。
「なんだ、あれは?」「あれも異形か?」「撃ち方を止めるなっ。1番、3番は小型異形を。他の者達は目標変わらずだっ」
戦況の変化にも冷静に対応していく隊員達であったが、どうしても火力が薄くなった事の影響からか、異形ハンクの変体があったのか……再生スピードが特殊部隊の火力をジワジワと上回っていくのである。
地面に這いつくばる事しか出来なかった異形ハンクが、ワームのような下半身を水塊に貫かれながらも身体を起こし、腹の位置にある口の形を削られながらも、全てを飲み込むように大口を開いて……
「コォォォオオオォォオオォォォォーッ!!」
咆哮が響く。その瞬間、時が止まったかのように風雨が止み、空気が震えるような大音響にその場にいる全員が耳を塞ぎなら、崩れ落ちた。肉体の細部まで衝撃が走り抜けていくような、かつて体験した事もない振動に、その場の人間全てが吐き気すら催して、意識を失う者すら出現した。
命を削るような長い咆哮が終わりを告げ、頭痛と吐き気を堪えながら顔を上げようとした者達を、バケツをひっくり返したかのような激しい豪雨が打ち付ける。その隙にとばかりに、異形ハンクは再び小型異形を吐き出した。
「……後退っ!」
ここでも隊長ロベルトの判断は早かった。強い精神力でもって、起き上がり顔を上げた瞬間の光景、黒い大きな塊が頭上から降り注いでくるのを見た直後には、そう判断して、まだ起き上がれずにいた隊員達に明確な指示を出した。
一斉に後退した隊員は、隊列を驚異的なスピードで持ち直し、隊長から発砲許可が発せられると、皆がその指示通りに引き金を引くのだが、数秒を争うこの場面にありながら、肝心要のアクアフレッチャーが反応しなかった為、さらに戦況が一変していく。
「隊長、理力解放出来ませんっ」
1人の隊員の報告に、同調する声が広がっていく。
「なんだ? なにが起こっているっ? 全てのアクアフレッチャーが故障したとでもいいたいのか? 各員装具を切り替えろっ、来るぞっ。散開っ!」
ハッと異形ハンクへと視線を運べば、隊員たちの混乱に乗じて、一気に間合いを詰めていた。大きな轍を作りながら突き進んでくる異形ハンクは、グングンと加速していき、身体を弾ませて隊列の中央目掛けて飛び掛かる。
隊長の号令が先に届いた隊員達は、半数以上がその襲撃から難を逃れたが、位置が悪かった数名が圧し潰される。その中には、重症になりながらも生き残った者もいたが、彼等を助けようという者は隊員の中にはいない。
むしろ、無駄な2次被害を防ぐ為に、それを囮に態勢を立て直そうと、冷静に距離を取りながら、反撃の期を伺う者達ばかりであった。
だが、そんな状況下でただ1人、一体なんの勝算があっての行動なのか……隊員達の間を割って、彼等が放棄した下位装具アクアフレッチャーを拾いながら、マテウスが異形ハンクへと駆け寄っていった。