曇天をも射抜けよその5
「うるせぇなぁっ! こんな雨の日に騒いでんじゃ……」
昼も大きく過ぎたこの時間まで惰眠を貪っていた男が、家の裏手の騒音に気付いて、裏口から顔を出す。しかし、顔を出した途端、飛び込んで来た光景に度肝を抜かれて押し黙ってしまった。
「引っ込んでいろっ!」
目前に迫ってくるマテウスの怒号を聞くと同時に、弾かれたように家の中へと避難する男。そして彼には、ハンクの巨体が、無慈悲に家の壁を崩壊させる様を震えながら見守るしかなかった。
(このままじゃ、死人が出るな)
正面から相対出来ない以上、限られた選択肢の内から、なるべく被害が少なく、ヴィヴィアナを巻き込まないようにと選び抜いたつもりだったが、予想以上に人が姿を見せる事に、歯噛みするマテウス。
彼の思惑では、この路地を真っ直ぐ突き抜ければ、再び運河沿いへと抜けて、後はその運河を並走して、先日に黒騎士が出現して、今も現場保存の為に立ち入り禁止になったままの、歓楽街に向かう予定だった。
その場所に辿り着けさえすれば、闘いを引き伸ばすのに十分な時間とスペースを確保出来ると考えていたのだが、そう簡単には事が運ばないらしい
そもそもヴェネットの街並みを把握し切れていない自身に、被害ゼロは無理な芸当か……と、半ば諦める事によって平静を保っていたのだが、ズキズキと痛みを増していく胸部の傷と、冷たい雨が、彼の体力を容赦なく奪っていく。
そうして狭まった視界の外で、ハンクが動きを見せた。マテウスはその気配に気づいて背後を振り返るが、彼が走る先……広場からの悲鳴に気付いて、再び顔を前へと戻した。
「今、なにかっ? いや、待てっ……なんだってこんな所に広場が……」
これもマテウスにとっては大きな誤算であった。そこはこの付近の総合給水所で、雨天だというにも関わらず、数名の利用者が存在していたのだ。
彼は、先程と同じようにすぐにでも避難させようと声を上げたが、給水所に広がっていた予想外の光景に、逆に声を失ってしまう。そこには既に、人間と同サイズのワーム型の異形が存在していて、給水に来ていた親子に対して、今にも襲い掛からんと首を擡げていたからだ。
「クッソッ、さっきのはコイツを増やしてたのかっ? なんでもアリじゃねぇか」
マテウスが見逃していた時の出来事。ハンクのワーム型本体の口から、まるで迫撃砲のように空へと、自らの小さな分身を打ち上げたのである。
エアウォーカー……理力解放
マテウスは自らに体力の限界が迫り、ハンクに追い詰められた時の為に残していた切り札を切る。降り注いでくるはずの雨粒を、横から切り開く程の速度で広場を駆け抜けた彼は、身を屈めながら母娘と異形との間に入り込むと、再びエアウォーカーを理力解放。下顎辺りに狙いを定めて、思いっきり蹴り上げる。
異形はまるでそれ自体の体重がないかのように、高く宙を舞った。2階建て家屋の屋根を悠々と越えた付近でその勢いはとどまり、物理に従って蹴り上げられた時と同じ速度で地面へと叩き付けられる。
「なるべくここから離れるんだ」
「はっ、はいっ」
「行け、早くっ!」
マテウスの叱咤に急かされて、よろよろと歩くだけだった親子達が駆け出す。その間も彼は自らが蹴り上げた異形の様子を警戒し続けていのだが、ハンクが迫ってくる気配に視線を上げる。
「マテウスゥ……マテウスッ!」
「はいはい、聞こえてるぞ。お仲間を殺られてご立腹か? なかなか情が深いじゃないか」
いつでも走り出せるようにと身軽なステップを織り交ぜながら、ハンクとの間合いを調節するマテウス。だが、ハンクに警戒を割きすぎていた為に、他にも仲間が存在していた事に気付けなかった。
「うわぁあぁっ! たっ、助けてっ……」
マテウスが声のする方向に視線を運べば、彼が先程蹴り殺した異形と同種の別個体が、少年に襲い掛からんとしていた。子供らしい野次馬根性が先だって逃げ遅れたのだろう少年の顔には、深い後悔と恐怖が色濃く浮かんでいた。
助けに駆け付けたいマテウスだったが、親子を助けた時とは状況が違う。足を止め、ハンクの間合いで向かい合っているこの状況で、背を向けるというのは自殺行為に等しい。
せめてハンクが功を急いて、無駄に大振りをすればその隙に突く手もあったが、ジワジワと必殺の間合いで睨み合いを続けられては、マテウスには手の打ちようがない。
そうこうしている内に、少年に追い縋った異形が胴体の下腹部に生えた触手で子供の細足を絡め取り、絞めあげ、自らの口へと引き摺り込もうとする。マテウスがもう死んだ者だと少年の命を諦めたその時、紅く輝く矢が異形の横腹を貫いた。
「あぁ……しっかりしてよっ、もうっ!」
いつの間にか、異形とは広場を挟んで反対側に姿を現したヴィヴィアナが、真紅の一閃を使って、異形の横腹を射抜いたらしい。ただ、まだ本調子ではないらしく、頭を狙った筈の矢が、横腹に突き刺さった事に対して苛立っているようだ。
「ヴィヴィアナ、コイツの足止めをしてくれっ!」
「なんで勝手に1人で逃げてたアンタの頼みを、私が聞かなきゃいけないのよっ」
口答えしながらも、ヴィヴィアナの狙いはハンクへと移る。距離も近く、的が大きくなった事で余裕が出来たのか、その矢は容易にハンクの胴体を貫いた。
その怯んだ隙を突いて、マテウスが再びエアウォーカーを理力解放。猛然と異形に迫ったマテウスは、少年の足を絡め取る触手を掴みながら、上顎を狙って回し蹴りを放つ。その威力に上顎から上だけが弾け飛び、頭部を失った異形の身体は前のめりに崩れ落ちる。
「1人で歩けるな? なら、とっとと行けっ」
「う、うんっ。ありがとうっ。オジサン」
触手を力任せに引き千切ると、少年の足の具合を確認するマテウス。絞め上げられた部分は、痕が残る程で、痛みも残っていたのだろうが、少年は泣き言も残さず走り去っていった。
「はぁ? なに?」
一方、ハンクと交戦中のヴィヴィアナは、ハンクが始めた奇怪な行動を不審がっていた。真紅の一閃に次の矢を番えながら様子を伺っていると、腹下に備わっている大口から、大きな黒い塊を2つ、空を目掛けて打ち上げて来たのだ。
「もういいっ、ヴィヴィアナッ。下がってくれっ」
その黒い塊が、少年を襲っていた異形だと気づくやいなや、フォローに駆け付ける事が出来ない。そう判断したマテウスからの警告が響き渡る。
ただ、ヴィヴィアナの目はマテウスより早く、それがなにかを捕らえていた。真紅の一閃を理力解放させて、指先に2本の赤い矢を同時に顕現させると、一呼吸でそれを連射。
「なに? なんか言った?」
雨天の中、頭上に迫ってくる物体に対してだというのに、まるで白線をなぞるかの如く、2本の矢は異形の脳天を打ち抜いて、産み落とされたばかりの生命に、抗いようのない死を与える。
日々の鍛錬は続けていた。視界に人さえ映らなければ、ヴィヴィアナの弓射の精度は未だ、他の者を寄せ付けない。
ヴィヴィアナは、彼女の僅か後方、その重みから屋根を貫いて地上に落下していく異形の姿を確認せずに、次の矢を番える。それは確実に射殺したという確信の表れだ。
「構えてる時にゴチャゴチャ言われると、精度が落ちちゃうんだけど?」
自分の力が必要だろう? 雨で張り付いた長髪を掻き上げながら浮かべる、ヴィヴィアナの勝気な表情が、マテウスにそう語りかけていた。