濁った才能その3
―――2日後、朝。バルアーノ領、ヴェネット、治安局ヴェネット本部横、治安局病院
瞳を見開いたマテウスがまず確認したのは、自身の胸の傷の具合であった。息苦しいまでにキツく、厚く撒かれた包帯に手を触れさせると、小さな痛みが走り、むしろその事実が彼に生きている事を実感させた。
小さな雨音に気付いて外へと視線を運べば、小雨模様の中にも雲間から幾筋もの斜光が降り注ぐ光景が望めた。迫り来るような雲海が流れていく様子は、本格的な夏を感じさせる。
暫くの間、身体を起こす事も出来ずにずーっと横になっていたマテウスであったが、脳が活性化していくにつれて、こんな事をしている場合ではなかった事を思い出していく。
重たい身体を無理矢理起こすと、想像以上の痛みが全身を駆け抜ける。常人なら再び倒れ込みそうな程の激痛を、彼は平然と無視ししながら部屋内にあるドレッサーに辿り着き、着替えを始めた。
「えっ? もう起きれるのっ? ていうか、オジサンッ! 勝手に動いて、なにやってんのっ? まだ寝てなって!」
着替えも終わろうというタイミングで入室して来たのは、ヴィヴィアナであった。彼女は両手に花の刺さった花瓶を抱えていたが、マテウスが起き上がっているのを確認すると、すぐさま花瓶を脇に置いて、彼へと近寄っていく。
「ヴィヴィアナか。あれから何日たったんだ? 技術交流会はどうなっている? レスリーは見つかったのか?」
さっきまで心の内で抱いていた疑問が一気に溢れ出て、それが矢継ぎ早の質問に変換される。
「はぁ……大人しくするんだったら、答えてもいいけど?」
「……それは質問の答え次第だな。まだ問題を抱えたまま……っ?」
振り返り、ヴィヴィアナの制止を振り切って退室しようとした所で、マテウスは酷い立ち眩みに見舞われて、膝を落としてしまう。
「アンタ、3日も寝たきりだったんだよ? 治癒限界体質だから、ろくな治療も受けられずに、栄養補給すらままならない。そんな状態で3日も寝たきりだった奴が、すぐに動ける訳ないじゃん」
「俺は3日も眠っていたのか?」
「……そう言ってるのっ。いいから寝ててよ。それか座ってて」
ヴィヴィアナは両手を使って無理矢理にマテウスを立ち上がらせると、強引にベットへと彼の背中を押し込んでいく。その間、マテウスはどうにか踏み止まろうと足に力を込めるのだが、ヴィヴィアナの力にすら押し負けている事に気付かされる。
「確かに、思った以上に弱っているようだな、俺は」
「そんな大怪我しといて、もう動いてる方が奇跡でしょ。それで……食べられそう? 先生を呼ぶついでに、食べられそうなら、なんか貰ってくるけど」
「そうだな、頼む。それと、身体を洗わないとな。随分、臭いそうだ」
そう言って自身の上着をもう1度脱ぐと、マテウスから声を掛ける前に甲斐甲斐しくもその上着を受け取ろうとしてくれるヴィヴィアナ。マテウスが戸惑っていると、んっ……と物も言わずに、手を動かして催促してくるので、彼は素直に手渡す。
「身体を洗うってお風呂にでも入るつもり? その傷で入れる訳ないじゃん、馬ー鹿っ。後でお湯とタオル借りてくるから、怪我人はこれに着替えて、大人しく待ってて」
服をドレッサーに収め直すと、マテウスへと代えの寝間着を手渡し、次に花瓶を窓際へ飾って、汚れたタオルや衣服を集めて腕に掛けていく。まるで自分の部屋であるかのような慣れた動きを、彼女が出ていくその時まで、マテウスは声を挟むまでもなく見守っていた。
ヴィヴィアナが部屋を出て行ってから、制服に皺がよるのもまずいので、大人しく彼女の用意してくれた寝間着に着替える。それだけで、身体を動かす事の億劫さを覚えるので、自身の体力がいかに落ちているかを思い知らされた。
また着替えが終わるとマテウスは、自身の身体の臭いをそれとなく嗅いでみた。想像したほどの悪臭はなく、寝汗の痕も酷くはない。嗅覚が壊れている可能性があるな……と、何度も嗅ぎ直してみる。
「なにしてるの? 連れて来たよ」
帰って来たヴィヴィアナは、 首元や身体に手を這わせるマテウスを、不審なモノを見るような目で睨みつめるが、直ぐに引き連れて来た医者へマテウスの事を任せる。
その医者は経験豊富が過ぎて、年老いた男の医者だったが、腕は確かなようで、テキパキと診断を進めていく。傷口はまだ塞がっていないとか、安静にしておくようにとか……都合の悪い小言を幾つか並べられたが、マテウスは胡乱な返事を繰り返して、聞き流した。
医者が病室から離れると、ヴィヴィアナはすぐに御膳に乗せられた食事をベット横の小さなテーブルへ置いて、テキパキと食事の準備を始める。
「これなら食べられるでしょ?」
彼女が用意したのは、野菜や溶き卵を小さく刻んで流動食だ。食い出はなさそうだが、弱ったマテウスの身体には丁度いい加減ではありそうだ。
マテウス自身はもっと体力の回復するものを無理矢理にでも詰め込みたかったのだが、ヴィヴィアナに口答えするのも憚られたので、大人しく食事を進めようと手を伸ばした。
すると、何故かヴィヴィアナが皿を横から取り上げ、スプーンを使って流動食を掬い上げて、母親が子供にするように、マテウスの口元までそれを運ぶ。
「いや……自分で食べれるが?」
「えっ? あっ……あぁ~、そっか。そうだよねっ。つかアンタの所為だからねっ? アンタがモタモタするからさぁ……変な勘違いさせないでよっ」
マテウスに指摘されて、初めて自分がなにをしでかしたのかを理解したようで、ヴィヴィアナは慌ててスプーンを御膳へと置きなおした。苛立たし気に顔を背けるが、僅かに赤く染まった横顔では、なんの誤魔化しにもなっていない。
「もしかして、俺が寝たきりの間、ずっと君が食事や身体の世話をしてくれていたのか?」
「…………」
マテウスの質問が聞こえなかった訳ではない。不機嫌そうに背けられた横顔が、更に深い朱色に染まっていくのがなによりもの証拠だ。そして、長い沈黙の後、ヴィヴィアナの方から口を開く。
「……だって仕方ないじゃん。レスリーはどっか行ったままだし、フィオナは家の事で忙しいし、パメラがやる筈ないし、まさかエステルやアイリにこんな事任せる訳にはいかないし……なに? なんか不満なのっ?」
「いや、不満はないんだが……ほら。シモの世話だって、あっただろう?」
「シッッ!? そういうのは、看護師がやるに決まってんでしょっ! 余計な事喋ってないで、早く食べ
なさいよっ! 馬鹿っ!!」
「すまない」
マテウスはツルツルと流動食を食べていく。食べ始めるとやはりというべきか、空腹を感じていたようで、幾らでも入っていく。あっという間に完食したマテウスは、スプーンと皿を置いて改めてヴィヴィアナに視線を向けた。
「君には随分な迷惑をかけた。すまない、ヴィヴィアナ」
「別にっ、別に私は大した事……そりゃ少しは大変だったけど、アンタには借りがあるし。これぐらいの事でイチイチ謝んなくていいよ。それに……アンタが本当に謝んないといけない相手は、他にいるでしょ?」
「……だが、もうレスリーは……」
ヴィヴィアナは片付ける為に持ち上げたお膳を片手で持ち直して、空いた片手の指先をマテウスの額を押し付ける。
「あのさ……勝手に諦めないでよね。私は……ううん。多分貴方以外は皆、レスリーの事を諦めてないんだからさ。でもまぁ……謝りたいとは一応思ってるって事か。はぁ~、それより、その様子だとまだ足りてないんでしょ? お代わり頼んでくる。後、お湯とタオルも」
まだなにか言い足りない事があるのか、重い溜め息を挟み、悲しそうな笑みを浮かべながら、退室していくヴィヴィアナに、マテウスはなに1つ言い返す事が出来なかった。




