改めざる咎その2
「幼い頃、私は体が弱かったんです。いえ、今でも決して強い方ではないんですが、当時は病気を患っていまして。その療養の為に、家族とは別の場所……メルトレイ領西部の農村にある、別荘に住んでいたんです」
ゼノヴィアにロザリアが持ち掛けた話題は、マテウスと彼女との馴れ初めであった。これに対しゼノヴィアは、そんないい話ではないので話したくないとか、そもそも馴れ初めなんて言葉は適切ではないなどと反論して、話題を反らそうとするのだが、結局はロザリアに言い包められて、語り始める事となる。
「別荘からの外出を制限されていたので、大抵の時間は1人で本を読んで過ごしていました。まだ幼かったので、難しい文字がある度に周囲の大人に尋ねてはよく困らせて……そうして文字が読めるようになれば、また本の中の世界に浸っていたんです。改めて振り返ると、根暗な少女時代ですね」
「いえ。そんな幼い頃より文字を理解されていたなんて……優れた向学心をお持ちだったんですね」
そうロザリアが讃えると、ゼノヴィアは少しはにかんだ表情で首を左右に振り、他になにもする事がなかっただけだと否定した。
「別荘の書庫は、1階の隅に追いやられたような場所にありました。そこには、大きな窓もあって風通しは良かったんですけど、他の建物との兼ね合いで、日差しが入らない造りだったので、昼間でも薄暗いし、綺麗な中庭を望む事も敵わなかったんです。だから、大抵は勝手に本を持ち出して、自分の部屋や中庭のテラスに移動して、読書を楽しんでいました」
ロザリアが退屈していないだろうか? と、彼女の顔を伺うゼノヴィア。ロザリアの瞳は、真っすぐとゼノヴィアに注がれていた。彼女は薄っすらと笑みを湛えながら、頷きを繰り返し、聞き入っている様子であった。
「そんなある日のお昼過ぎ。いつものように書庫に本を取りにいった時、何処からかすすり泣くような鳴き声が聞こえて来たんです」
マテウスが出て来ないまま、話が様変わりしていく事に、小首を傾げる。
「初めてそれを聞いた時、私は怖くなってすぐに逃げ出したんですが、お昼過ぎのその時間帯だけに限って、時折泣き声が聞こえてくる事に気づいて……子供特有の好奇心から、それの正体を突き止めようと、私は書庫の奥へと進んで行きました。こう……なるべく大きな本を両手で構えながらね」
「まぁ……恐ろしいっ」
両手で本を振り下ろす真似をしながら、冗談めかした笑顔を零すゼノヴィア。隣に腰掛けるロザリアは、大げさに驚いた後に、クスクスと声を上げて笑い返す。
「声は書庫の外から聞こえて来ました。正確には、窓のすぐ下ですね。私は足音を忍ばせながら窓に近づいて、外を覗きこんだんです。そこには、体の大きな少年がいました」
「……まさかその子が、マテウスさん?」
ゼノヴィアは首肯して見せた後、語りを続ける。
「壁に背中を預けて、足を縦にして……そうして泣き声を漏らしていた彼はその間ずっと、右手に持つ枝を使って、なにかを地面に描いていました。幽霊の正体を見破った私は、その瞬間は興味を失って場所を移したんですが、午後……書庫に本を戻しに行った際に、彼がなにを描いていたのかが少し気になって、確認する事にしたんです」
「彼はなにを描いていたんですか?」
「猫でした。地面に描いた絵だというのに、とても上手くて……驚いた事をよく覚えています」
その話を聞いて、マテウスの描いた人相書きが上手かった事を思い出すロザリア。器用な人だな……程度に流していたのだが、幼い頃からの趣味だったと知って意外な一面を見せられた気になった。
「その日から私の日課は、お昼過ぎの同じ時間に書庫に本を取りに行って、彼の泣き声が聞こえた日の午後は、絵を鑑賞しにいく……というものになりました。絵の内容は様々で、動物だったり、風景だったり、何処かの誰かだったり……そういう日々を重ねていく事で、次第に1つの願望を抱くようになりました。彼に絵をリクエストしてみたくなったんです」
「どんなリクエストをなさったんですか?」
「海です。当時の私は海を見た事がなかったのですが、知識だけは備わっていて……彼の絵でも構わないから、一目見てみたいと思って、リクエストを残しました。そして翌日のお昼過ぎ……彼が所定の場所で絵を描いている事を確認してから、本を読んで十分に時間を潰した後、いつものように絵を鑑賞しに行ったのですが、描き残されていた絵は海ではありませんでした」
ロザリアの視線を間近に感じるゼノヴィア。興味深そうな視線が、話の先を促している。
「彼も海を知らなかったのかもしれない。そう考えた私は、今度は山をリクエストしました。山なら屋敷の高い場所から望む事が出来ましたから、絶対に知っている筈だっ……とね。しかし、結果は同じ。それから私は、様々なリクエストを残していくんですが、彼は一切の反応を示さないので、次第に腹が立ってきて……だってそうでしょう? 無視する事はないじゃないですか」
「まさか、マテウスさんに直接問い質したんですか? でも、無視された原因はおそらく……」
「そう。ロザリアさんのお察しの通り、彼は無視するつもりもなくて……ただ、リクエストの文字が読めなかっただけなんです。そうだというのに、一方的に怒ってしまった事が恥ずかしくなった私は、字も読めない貴方が悪いのよっ! って酷い責任転嫁をして、その日は彼の前から逃げてしまったんです」
「ふふっ。子供らしいエピソードですね」
「それでも、当時の私は必死だったんですよ? 知らない同世代の異性に話しかけるなんて初めての事で……でも、フフッ……翌日の気分は最悪。すでに彼の絵を鑑賞する事がライフワークになっていた私は、数少ない楽しみの1つを失ってしまった事を後悔していました。でももしかしたら……そう考えた私は、いつもの時間に、いつものように書庫へ足を運んで、半ば諦めながら窓の下を覗いてみて……そうしたら彼は、変わらずにそこへ座っていました」
『今日は珍しく泣いてないのね』『……うん』
『…………それ、なにを描いてるの?』『ツバメ』
当時の会話を思い起こす際のゼノヴィアは、とても優しい顔をしていた。議会の話をしていた時と比べると嘘のように穏やかな雰囲気で、それが誰によって齎されているかを知るロザリアは、ホッとすると同時に、少し複雑な心境でもあった。
「私達が出会いは、それが最初です。彼が屋敷のすぐ外にある厩舎に住み込むで働く、馬丁の息子だと知ったのはその後の事。出会ったばかりの彼は、体は今と変わらずに大きかったのですが、気弱で、泣き虫で……幼い頃の私は、その事をよく馬鹿にしていました。彼が、父親からの虐待に耐えていた事情も知らずにね」
話を聞いてもロザリアには、気弱に涙を流すマテウスの姿が想像出来なかったのだが、今の彼を支える臆病で慎重な性格はそこに由来しているのかもしれないと、1人で納得した。
「初めて得た、年齢の近しい話し相手に舞い上がっていた私は、希望の絵を描いてもらう代わりに、彼の泣き虫を治してあげるなんて口にして、色んな騎士や戦士が出てくる物語を、読み聞かせてみたり……今、思うと迷惑な話ですよね? それでも、彼は空いている時間の大半を私と費やしてくれて、泣いている時間より、笑っている時間が増えていって……思えば、それは2人だけの、とても楽しい一時でした」
その日々を振り返っていたのだろう……穏やかな表情を浮かべていたゼノヴィアの顔に、暗い影が差していく。
「あの出来事が起こるまでは……」




