改めざる咎その1
―――同日、エウレシア領、王都アンバルシア中央区、王宮内図書室
「ベッカー学匠とルーサー卿……が、ですか?」
栄えあるエウレシア王国の女王、ゼノヴィアが口にした聞き覚えのある名前に、書籍へと落としていた視線を上げる女、ロザリア・カラヴァーニ。ツンと鼻孔を擽る古い紙の匂いも、議会直後のゼノヴィアの憂鬱な気分を晴らすには力不足らしく、彼女の表情は硬かった。
「えぇ。王都へ運河を引くのに、貧民街の取り壊しを推し進めようと言い出し始めて……難航しています」
「……私の記憶が確かなら、ベッカー学匠は議会派でルーサー卿は女王派の筈。足並みを揃えて、女王陛下の意に逆らうような真似をするとは思えないのですが」
「新たに引く運河の最も現実的な計画案の1つが、エムズ川を支流にしたものなんです」
「あぁ……分かりました。今回に限り、利害が一致しているのですね」
アマーリア領はジアート王国との国境沿いに伸びるアーレズ山脈。その南部エムズ山の麓からラーグ領、メルトルイ領を渡って王都南部のローモンド湖へと伸びる大河川の事をエムズ川と呼ぶ。
この運河が引かれる事によって、ラーグ領にその所属を置くベッカー学匠と、オーウェン公が治めるメルトレイの一部を預かるルーサー卿は、王都直通の運河を手に入れる事となるので、大きな利益が望めるのである。
「女王陛下が治める王都の開発計画にも関わらず、なぜあの2人が口を出すのか疑問に思っていましたが、ようやく腑に落ちました」
思わず悩みを打ち明けたくなる雰囲気づくり。そして、与えた情報1つから、今回描かれた絵の凡そを理解する察しの良さ。このようにして、本来は口外すべきではない議会の内容を、ロザリアに愚痴のような形で漏らしてしまうのが最近の恒例になりつつあった。
あまり褒められた事ではないのは確かなのだが、王都において孤立しがちな彼女にとって、大きな心の支えにもなっているのも事実だ。
「当然、交易は盛んになるでしょうから経済の活性化に繋がりますし、貧民街を取り壊しは街の衛生環境を引き上げてくれるでしょう。ただし、何事にも危険は伴うもの……女王陛下は、貧民街に住まう人々の事を慮っているのですね?」
また、ゼノヴィアがまだ口にしていない悩みの種までをも、先んじて詳らかにしてくれるので、僅かな自己嫌悪を覚えながらも、ロザリアに対して口が滑らかになるのを止められなかった。
「慮るだなんて……そんな大層なものではありません。貧民街が犯罪や流行病の温床になっている事は私も理解しています。いずれ向き合わなければならない問題ですので、お若いルーサー卿などは、これを機にと考えているのやもしれません。ただ、こちらの都合で一方的に彼等を追い払うような真似をすれば、必ず歪な形になって、なんらかの報いを受ける事になります。現状ではその危険の方が、利益を上回ると感じているだけなんです」
「ここだけの話、私がこの地に流れて初めてお世話になったのがあの地でした。あの地では違法な仕事を請け負っている者の他にも、あそこで開かれる闇市を生活の糧にしている下級市民も多くいます。必要悪……とまでは言いませんが……」
ゼノヴィアは大きく頷いた。
「議会はその現状を、軽視しすぎている帰来があります。運河を引く事に反対する理由は私もないのですが、態々危険を冒してまで、王都内にまでそれを伸ばす必要はないと思いませんか? そして更に重ねるなら、治水工事を進めるにしても、わが領土にはまだまだそのノウハウが不足しています」
「ノウハウですか……しかし、市街を流れる運河の開発であれば、それこそヴェネットを参考にすれば良いのではないでしょうか? その在り様が、モデルケースに指定されていると記憶していましたが」
「勿論そうなんですが、一言に運河の開発と言ってもヴェネットほど完全に水路を管理するためには、乗り越えないとならないハードルが山ほどあります。まず……」
公衆衛生上、運河に汚水が混入しないように、まずは人が使用するための用水路と、汚水が流れる排水路を隔離して管理する必要があるのだが、アンバルシアではこの段階で不十分な状態だ。
その上で汚水は浄化施設を通して、再び下流の運河や河川、場合によっては用水路へと合流させる必要が生じるのだが、この水路もアンバルシアには未設置。合流の際に、流調の管理が必要なので実現出来ていないである。
また流調管理は、地域によって変化が生じるものなので、ヴェネットをそのまま参考に出来るようなものではなく、アンバルシアの下流に控えるのが、ヴェネットのように海ではなくローモンド湖な事もあって、困難な流調管理(湖から水が溢れてしまうので)を強いられるのだ。
「テルム川は街の上流に、人工の分水路もあると聞きますが、エムズ川にはまだ設置されてませんでしたね。それに水質、水位管理もそうですが、貿易口が増えるという事は、人の出入りも盛んになるという事です……カナーンの件もありましたし、慎重になるお気持ちは痛いほど分かりますよ」
「勿論、交易の活性化は王都の繁栄に大切な事です。ですがその繁栄は、王都の1人1人に……あぁ……私ったら、またこんな愚痴を無関係な貴女に……その、いつもありがとうございます」
利益を貪れるだけのメルトレイ領やラーグ領とは対照的に、巨額の開発費用の他にこれだけの大きな危険を背負うことになるエウレシア領の領主としては、保守的な舵取りを選択するのは当然であった。
だが、いつまでもこのまま件の2人を放置するのは憚られるのも、また事実。特に女王派である筈のルーサー卿には、なんらかの釘を刺しておかなければ、この先も不穏な動きを見せないとは限らないのだ。
虐げられる者なく幸福を分かち合える……そんな理想を叶えようと深く考え込み始めるゼノヴィア。疲労が色濃く浮かぶ彼女の顔を見つめながら、こんな時にも関わらずロザリアは思わず笑みを零してしまった。
(本当にお人好しというか……)
公務を行っている時のゼノヴィアは、冷たい空気を纏った怜悧な雪の女王という印象を抱かせる女性なのだが(実際、ロザリアの第一印象もそうだった)、プライベートの彼女は、それとは対照的だった。
喜怒哀楽の分かりやすい表情、庶民的な抜けた言動、滲み出る深い優しさ……ロザリアにとってはそれ等がとても心地よく、彼女を穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。ゼノヴィアと向かい合って座っていた彼女は、足音を忍ばせながらゼノヴィアの背後へ回ると、両肩に手を乗せる。
「やっ……えっ? なんですか? ロザリアさん」
「2人きりの時ぐらい気を緩めてみてはいかがでしょうか、女王陛下? 確かに私は政治には無関係です。でも、だからこそ語れる事もありましょう。少しでも貴女の気が晴れるのならば、お話のお相手ぐらい、いつだって務めさせて頂きますよ」
両肩に乗せた手に力を込めて、肩を揉み始めるロザリア。初めは戸惑いの色を見せていたゼノヴィアも、次第に両目を閉じて天井を仰ぎながら、空気を漏らすように感嘆の声を上げた。
「はぁ~~……あのっ、とても気持ちいいのですが、そんな事までして頂く訳には……」
「ですが陛下、まだまだこっていますよ。サイズの違いはあれど、お互い共通の悩みは、こうして分かち合いませんと」
ふと、ゼノヴィアは視線を後ろへと運ぶ。ロザリアが力を込める度に、頭の真後ろで嫋やかに揺れる膨らみを視線で追って、なにを言わんとしているのかに気づいた。
「分かち合う……しかし私には、ロザリアさんのように、こんな技術はないのですが」
「……フフッ、アハハッ! なにを仰るかと思えば……女王陛下に肩揉みなんてさせませんよっ。クックックッ……」
余りにも無垢な不安を露呈するゼノヴィアに、堪え切れずに笑い声を上げるロザリア。自身の立場が女王陛下であるという事を忘れているかの発言が、ロザリアのツボに刺さってしまったようだ。
それに対して、狐に抓まれたような表情になっていたゼノヴィアは、次第に両頬を薄っすらと赤く染めて口の端をムッと吊り上げる。
「またそうして人を揶揄って……もう、勝手になさってくださいっ」
「申し訳ありませんっ……だって……フフフッ。あぁ可笑しいっ。そうですね……でしたら、お言葉に甘えて……肩揉みの代わりに、1つ私に愚痴ではなく、楽しいお話をお聞かせ願えませんか?」




