然るべき棲家へその6
治安局ヴェネット本部から逃げ出すようにして飛び出したレスリーは、そのまま街道を駆け抜けた。走って、走って、走って……息が切れて足が上がらなくなるまで走り続けて、それでもマテウスに裏切られたという義憤と、マテウスを傷つけてしまったという悔恨から逃れるように、重くなった両足で引き摺り続けた。
「うぐっ……ひっ、ふっ……ゔうっ……」
冷たい雨がレスリーへと降り注ぐ。ただ、とめどなく流れる涙、口から溢れ出る嗚咽、そのどちらをも一緒に洗い流してくれる雨は、彼女にとっては小さな救いであった。
レスリーにも、きっと今の自分が酷い顔をしているのだろう事ぐらい、鏡を見るまでもなく分かっていた。だが、どうせベルモスクである自分の顔がどんなに酷くったって、誰も気に止めたりしないだろう。鼻で笑われるだけだ……と、投げやりに考えながら、ゴシゴシと顔面を両手で拭う。
本来ならマテウスへアイリーンに頼まれた決闘の条件の伝達をしたり、逆にアイリーンへマテウスの様子や彼の発言を伝達するのがレスリーの役目であったのだが……
『あぁ……聞いてくれ、レスリー。例えばの話だ。俺は明日の決闘で敗北するかもしれない』
あんな嘘を伝えた所でどうなるというのだろうか……レスリーが想像を膨らませて行き着いた答え。それはマテウスが、レスリーを見限ったのではないか? というものだった。貴重な時間を割いて教えを説いたいうのに、ドイル家に仕えていた時から一切の成長もなく、ジーンにいいように嬲られて、マテウスにとって大切なアイリーン王女殿下を守る事も出来ず、無様な身投げをしたレスリーを。
だから他にも……十分に強くなっている等、教官から降ろされる等と……あんな嘘までついて、レスリーを他の道へと追い立てようとしたのだ。
勿論そんな想像は妄想で、事実無根ではあるのだが……そう考えると、今のレスリーにはとても腑に落ちたのだ。それを踏まえた上でレスリーは、マテウスから三下り半を叩きつけられた自身を、アイリーンが傍に置いておくとは思えなかった。つまり彼女は、帰る場所を失ってしまったのだ。
それを理解した瞬間、レスリーは体の震えが止まらなくなった。覚束ない足取りで、自身を抱きしめるように両腕を回しながら、ヨロヨロと当て所もなく歩く……まるで浮浪者のようなその姿に、帰る場所を無くした彼女の心情が、ありありと映し出されていた。
(他の才能なんて要らなかった。その分、騎士としての才能が少しでもあったのなら……きっとマテウス様だってお優しいままで、レスリーの事を捨てたりはしなかったかもしれないのに)
己の肌の色、髪の色、血、家名、弱さ、そしてマテウス……呪わずにいられないそれらが、頭の奥底にこびり付いて離れない。前を向いて進んでいるようで、その実、同じ場所から抜け出せずに藻掻き苦しんでいるかのような息苦しさに、遂にレスリーは足を動かす事の意味を見出せずに倒れてしまった。
「レスリー……ちゃん?」
倒れこんだレスリーに声が投げ掛けられる。聞き覚えのある声(そもそもレスリーの名を呼ぶ相手など限られている)に、ノロノロと顔を上げようとすると、その頭に乾いた布が投げ掛けられる。
「オイオイ、こんな所でなにしてたんだよ? ずぶ濡れじゃねぇか。体も冷え切ってるし……とにかくっ、こっち来なって」
声の主はマテウスの旧知である元傭兵のラウロであった。雨ざらしは体に毒だろうと、レスリーの手を掴んで強引に引き起こすと、馬車の中へとレスリーを誘導する。
「悪ぃ、親父。待たせたっ。出してくれっ」
「はいよ」
ラウロの声に、落ち着いた声が返ってきて、馬車がゆっくりと動き出す。その間にラウロはレスリーの頭をゴシゴシと乾いた布で拭きながら、続けて彼女に問いかけた。
「あぁ……やべっ。この布使っちゃダメな奴じゃ……いやいや、良いんだ。大丈夫だからっ。それより、なにかあったのか? レスリーちゃん。マテウスさんと一緒じゃないのかよ?」
「マテウス様……マテウズざまっ。マテ……ウッ……うぅ~」
だが、マテウスの名前を他人から出された事によって、また改めて捨てられた事を認識させられたのが辛かったのか、メソメソと涙を流し、うわ言のようにマテウスの名前を繰り返すだけのレスリーに、ラウロは慌てふためく。
「辛かったんだよな? 大丈夫、もう大丈夫だから……なっ? 泣いてスッキリしとこうぜ」
なにが起こったかなんてラウロは一切知る由もなかったが、突然告白してしまうぐらいにはレスリーに好意を抱いていたので、泣いている女に対してはとりあえず同調しとけば悪い事にはならないだろうと、慣れた仕草で慰める。
それ以降もレスリーが吐露する悪態に相槌を返し、懺悔に許しを与え、繰り返し頭を撫でてやる事で、ようやく彼女も落ち着きを取り戻し、会話が成せる程度の状態を得た。だが、レスリーの一方的な思い込みの事情を聴いて、ラウロは疑心を抱いてしまう。
「マテウスさんに捨てられたって……あの人がそんな事するなんて、ちょっと信じられねぇけど」
「きっと、れっ、レスリーが本当、にっ、ダメな子だから……わっ悪い子、だからっ……マテっ……うぅ……マテウスッ様っ……にもっ、みっ、見捨てられて……」
「あぁ~っ! レスリーちゃんは悪くないよっ。悪かったの俺っ。俺が悪かったから、もう泣かないでくれよっ。レスリーちゃんが泣いてるのを見てると、俺まで胸が痛くなっちまう」
「?」
「いや、そんなどうして? って顔されても。好きな娘が泣いてたら、誰だって同じ気持ちになるだろ」
「うぅ……すいませんっ、すいませんっ……」
「うーん……謝って欲しかった訳じゃないんだけどなぁ」
ラウロは後頭部を掻きながら塞ぎこんでしまっているレスリーをどう励まそうかと考え込む。前へ進むたびに馬車が揺れ、頭上の幌に溜まった雨水が跳ねて、大粒の涙となって舗装された道路に流れていくのを見つめながら、ラウロにしては珍しく、重そうに口を開いた。
「マテウスさんはさ……きっとレスリーちゃんの事を考えて、そんな事を言ったのさ。あの人、肝心な所で言葉が足りないっつーかさぁ……キツイ言葉かもしんねぇけど、騎士に向いてないって言えばさ? レスリーちゃんがもっと安全で、幸せな道を歩んでくれると思ったんじゃねぇかな?」
「幸せな道……」
「例えば、俺との結婚とかどうよ? 幸せにするぜ?」
「……マテヴス様ぁ……マテッ、ウッ。マテ……ウッ……うぅ~、ヴゥゥ~」
「いや、その反応はこっちも泣きたくなるからね?」
胸の内に淀んでいたものを吐き出し、涙が枯れるまで泣き続ければ、どんな悲しみも多少は癒されていくものだ。レスリーの悲しみも、その類を外れていなかったようで、彼女に外の景色が様変わりしている事に気づく程度の余裕を与えた。
「ほれ、着いたぞ」
ラウロに親父と呼ばれていた御者が馬車を止める。着いた場所は異端者隔離居住区内部。いつの間にか入場審査も済ませていたようだ。
「助かったぜ、親父。ほらっ、レスリーも降りろよ。あれだけ泣いてりゃ、腹も減っただろう? 美味しいもんでも食べりゃ、少しは元気になるぜ」
ラウロにそう言われても、とてもそんな気にはなれないレスリーだったが、冷たい雨に打たれた体は空腹と休息を欲していたので、彼に従う事にする。だが、馬車から降りた所で……お嬢さん。こっちへおいで、と、御者の男に声を掛けれた。
「1つだけ確認したい」
「……ど、どうぞ」
「お嬢さんが慕うマテウスさんとやらは、本当に決闘で負けると言ったのかい?」
同じベルモスク人。穏やかな笑顔を浮かべる、好々爺という言葉が似合いそうな年配の男。だというのに、レスリーは男の視線に背筋に寒いものを覚えて、声も出さずにコクコクと首を縦に振った。
「そうかい。盗み聞きするような真似をしてすまないね……これは、お詫びだ」
そう告げながら、御者の男がレスリーに握らせたのは1枚のセグナム銀貨だ。
「そこの酒場で食事をするだけなら、十分な額だ。今は体を休めるといい。そしてゆっくり考えなさい。我らベルモスクの同胞は決して裏切らないし、決闘なんて危ない真似もしない。いつでも君と共にあるからね」
御者の男はポンポンとレスリーの頭を撫でると、笑顔で手を振りながら馬車を歩かせてこの場から離れていった。