汚濁塗れの理想郷その1
―――ほぼ同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、異端者隔離居住区、地下排水路
「エステルッ! お前のこれっ。なんか光ってないか?」
「ソーン殿か? なんの事だっ? ちょっと待っていてくれっ。今、そちらに向かうっ」
呼びかけに反応したエステルは、手にしていた大きなシャベルを近場に立てかけると、声の方へ向かって歩き始める。ただし、黄土色に濁った水を両足で掻き分けながら移動なので、その歩みは遅い。足を上げようとする度に、土砂が絡みついてくるからだ。
「ほれっ、手を貸すぜ」「すまないっ」
男……ソーンの手を借りて水路から歩道へと這い上がったエステル。彼女の肌を隠すのは、チューブトップ丈の半袖シャツと、膝上丈のズボンのみ。どちらも、幾度もの洗濯で衣が痛んでいて、ボロ雑巾を纏っているかのような出で立ちであった。
「おまっ……手を洗ってから掴めよなっ」
「むっ、気付かなくてすまん」
泥塗れになっていた手でそのままソーンの手を掴んでしまった事を素直に謝罪して、両手を自身の腹部に擦り付けて、泥を拭う。そんな動作を繰り返してきたのであろう。彼女の身体や顔のいたる所に泥の痕跡が残っていた。
「それと、足に着いているぜ」
「またか。身体を動かしていると、全く気付かんな」
ソーンの指差す先、自身の右足の脹脛付近に視線を落とすエステル。そこにヒルのような姿をした異形、トラッシュワームが張り付いていた。彼女がトラッシュワームを力を込めて握りしめると、簡単に絶命する。
続けて剥ぎ落しながら喰いついていた場所を注視するが、彼等の顎には固い物を噛み砕くような力はないので、皮膚が少し赤く腫れる程度の変化しかしていなかった。それを確認したエステルは満足気に鼻を鳴らすと、それを死骸置き場になっているバケツの中に投げ捨てて、歩道の隅へと畳んでおいた赤鳳騎士団の制服を調べ始める。
「しかし、あれだけ駆除してんのに、まだ生きてるのが残ってるんだな」
「水路の底を攫っていると、土砂と共に幾らでも湧いてくるぞ。本当に普段はこんな状態じゃないのか?」
「当たり前だろ。コイツを一匹でも放っておいてみろ、マジでビビるぐらいデカくなるらしいぜ」
「少々デカくなった所で、このモロさなら問題ないと思うんだが……」
トラッシュワームの生態に詳しくないエステルからすれば、吸血してこない分、ヒルよりも害のない少し大きめのミミズ程度の脅威しか感じないので、ソーンがなにを思ってそんなに怯えているのか、理解出来ないのだ。
「ところで、光っていたというのはまさかコレの事か?」
「いや……分かんねぇよ。偶々通りかかった時に気付いただけだからな」
赤鳳騎士団の制服のカフスボタンをソーンに見せて確認を取ろうとするが、彼の曖昧な返事に対して、エステルは眉間に皺を寄せた。
(オフの私に通信石を使って連絡してくるなど……アイリ殿になにかあったのだろうか?)
エステルの小さな脳みそで考えても仕方がないので、確認を取ろうとマテウスに通信を送るが、暫く待っても反応がない。今はまだ技術交流会の会場でアイリーンの警備中の筈だったな……と、振り返ると、何らかの取り込み中なのかもしれないと気を使って、通信を切断する。
「ソーン殿の勘違いだったのか?」
「おーしっ、お前らぁ。そろそろ休憩だーっ」「「うーっすっ」」
「おいっ、エステル。ああ言ってるし、休憩するぞ」
誰か他の者に通信しようかと考えていたエステルであったが、ソーンに声を掛けられる事によって、もう少し時間を置いて連絡してみるかと切り替えて、制服を小脇に抱えると休憩に向かう作業員達の群れに混ざっていく。
「お疲れ、エステル。すまねぇなぁ、色々手伝ってもらってよー」
「ケホッ……なにをっ!? って親方殿か。なに、この程度の手伝いなれば造作もない事よ」
歩いている最中に急に背中を力強く叩かれるものだから、咳き込みながら何事かと顔を上げるエステル。相手が知った顔である事を確認すると、自らを誇るように平たい胸を反らして鷹揚に頷いてみせた。
「でも、いい働きっぷりって聞いてるぜ?」
「いや……そいつはどうかなぁ」「頭のネジが狂っているっていうか……」「それに細かい作業は未だに全く出来ねぇぜ? コイツ」
「なんだとぅーっ!? もうちょっと褒めてくれても良いではないかっ」
「……やっぱり褒めて欲しかったのかよ」「恥ずかしい奴め」「もっと素直になれよぉ~」
「ええいっ、騎士の頭を軽々しく撫でるなっ! 子供扱いするなぁ~!!」
一斉にもみくしゃにされるのを嫌って、両腕を振り回して暴れるエステルであったが、そんなもの関係なしに次々に、作業で汚れた手を彼女の頭に押し付けてくる屈強な男達。
「ほら、そこら辺にしとけ。それと、お前ら全員汚ねぇから、先に身体と手ぇ洗っとけよ。他の奴等の迷惑になっちまうからな」
「「うぃーっす」」
蜘蛛の子を散らしたように男達が散開した後に残されたのは、泥人形のような装いになってエステルだ。彼女は鼻息を荒げて、ブツブツと不平不満を零しながら親方の横を抜けて、男達の後を着いて行く。
ただ、そうしたエステルの怒りも束の間であった。地下排水路から這い出た彼女は、土砂と汚水が混ざり合った水が放つ淀んだ空気とは別物の外気を肺一杯に吸い込む。
厚い雲間から零れる、ジリジリと肌を刺すような陽光に手を翳しながら周囲を見渡せば、各所に廃材が積み上げられていたり、土砂や土嚢が無造作に放置されていたりと、水害の傷跡が深く刻まれた光景が広がっていた。
そんな景色を横切って彼女達が向かった先は、総合給水場だ。1m前後の深さと、10㎡程度の広さを兼ね備えた溜め池状の掘りがあって、理力を使った技術により、一定間隔で滾滾と水が溢れ出す給水施設になっている。
その上、周囲が排水路に繋がる側溝に覆われているので、下級市民達はこの場で炊事洗濯を済ませたり、この場で身体を洗ったり、飲料水用に持ち帰ったりと、各々の使い方をするという、下級市民向けに解放された公的施設である。
勿論、現代からすれば余り衛生的にも公序良俗的にも褒められた施設ではないのだが、自宅に水を引いたり、作り出す資金がない下級市民にとっては、その在り方に疑問すら抱かない、必要不可欠な場所であった。
身体を洗う男達の間を縫って、備え付けの手桶を掴むエステル。水を救い上げて頭から豪快に被ると、プルプルと犬がそうするように体に纏わりついた水滴を振り払う。
そうして頭を冷やした後に彼女はもう1度周囲を見渡した。先程と変わらずの景色の向こう側に、配給に並ぶ者達や、集まって飯を食う者。未だに汗水垂らしながら作業に勤しむ者達や、エステルと同じように水を被って汚れを落とす者……それぞれの顔が悲嘆にくれず、活力に満ちているのが見て取れる。
(この水害で何人か命を落としたと聞いたが……本当に街なのだな、ここは)
そうして立ち呆けになっていたエステルの頭に、再び大きな手が乗せられる。彼女はそれを反射的に打ち払った。
「ええいっ、なにをするっ!」
「お前こそ、こんな所でそんな恰好でボーっとすんなっ。邪魔になんだろうがっ。そもそも一応、女なん……おんな……?」
水を弾く柔肌に、張り付く乱れた金髪。濡れた衣服がピッタリと体に張り付き、粗末な素材故に薄っすらと透けていて、露にするよりも秘所が妖艶に浮き立つかのよう……なのだが、肝心の中身が少し育った少年と見紛うエステルのツルペタボディ。しかも、堂々と胸を反らして見上げる態度などは、野良犬の方が上品とくれば、色気なぞ月よりも遥か遠くの存在に思える。
「なんか悪かったな。強く生きろよ?」
「?? ……言われるまでもなく、私は強いぞ? 騎士だからなっ」
突然の男からの励ましに、エステルは不遜な笑顔を浮かべて、強く腕を掲げるのであった。




