望むべくもない場所へその5
―――ほぼ同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、下級市民街、緊急連絡通路
地下独特の淀んだ空気。聞こえてくる物音は、漣のように静かな水音と、漕ぐたびにギィギィと軋んだ声を上げるオールの音。船首に吊るされた理力式カンテラの光だけを頼りに、真っ直ぐと小舟は進んでいく。
「そろそろ説明してくれよ。俺達は一体どこに向かっているんだ?」
そんなジメジメとした空気に耐えかねたように質問を零したのは、ルイスであった。彼は小舟の中央に腰掛けて、船首付近でオールを漕ぎ続ける細身の男スパイクと、船尾付近で得体の知れない物を撒いている大柄な男マックスとをそれぞれ見やる。
「んぁ? 言ってなかったか? 親父に会わせてやるってよ」
「聞いてない」
「えっ、そうだっけ? なぁ、スパイク。俺言ってなかったっけ?」
「俺も聞いてねぇなぁ。まぁ許してやってくれよ。ソイツ、頭の容量少ないんだわ」
「はぁ? 頭の品質が低すぎると、目にまで影響が出るのかな?」
「日記1ページ分も記録出来てるか怪しい奴に言われてもなぁ。毎日が新鮮で羨ましい限りだ」
「鮮度を羨ましがるって事は、もしかして気づいてたのか? てめぇの頭の中身が既に腐っちまってる事に。それが証拠に、口から3年物ミルクに浮かんだ魚の死骸みたいな臭いが漏れてるんだが? くっさいんでこっち向いて喋らないで貰えます?」
これで何度目の脱線か。ルイスが話を勧めようと問い質す度に、こうして2人だけで言い争いを始めるマックスとスパイクに嫌気がさして、彼は重い溜め息を零す。しかし、この言い争いの終わりを待っていたら、それこそキリがないので、声を一回り大きくして会話に割り込んだ。
「そもそもっ、お前達の親父に会ってなんになるんだよ。そんな事より、このままこの舟で異端者隔離居住区に行けないのかっ? 俺はっ……」
「ごちゃごちゃうるせぇなぁ。黙ってろよ。舟を漕いでんのは俺だぞ。まったく……1人で漕がせやがって。それに見てみろ。あっちが異端者隔離居住区に続く方角だが、この状態で行けると思ってんのか?」
そう促されてルイスが視線を運ぶ先、異端者隔離居住区へと繋がる道があった場所は、完全に水没していて最早それが道である事すら、分からない状態であった。ルイス達が船を使って移動しているメイン通路よりも、天井の高さが下がっているからである。
「異端者隔離居住区の出口のが低いかんなぁ。因みに、あの先に水が逃げてるからここが水没しきらないんだってよ。ここから泳ごうにも、どう頑張ったって息が続かねぇし……まぁ諦めろってっこった」
「諦めきれるわけないだろうっ? ここの水が逃げてるって事は、つまり異端者隔離居住区が浸水してるって事じゃないかっ。あそこにはまだ、マルコとアーシアが……」
絶望に暮れた表情を両手で覆い隠して座り込んでしまうルイス。それに対して2人は同情するわけでもなく、面倒くさそうな表情を浮かべて、暫くそっとしておこうとアイコンタクトを送り合う。
しかし、その短い沈黙も再びルイスに声によって終わりを迎える。
「ハンク……さんは、異端者隔離居住区に異形を解き放ったと言っていた。それについても、アンタ達はなんか知ってるのか?」
「あいつ……そんな事をお前に言ったのか?」
「そうだ。俺が引き受けたのは、重犯罪者収容所からよく分かんねぇ爺さんを救い出す事だけだった筈だ。なのに後から、異形だとかなんだとか……待てよ、もしかしてこの浸水もお前達が原因なのか? こんな小舟を使った移動だって、前から準備していないと出来ないんじゃないのか?」
鼻を小さく鳴らしたような苦笑が漏れ聞こえる。静寂故の反響も相俟って、それがマックスとスパイクのどちらが発したのかまでは、ルイスには分からなかった。ただ、両者の視線が彼を見聞するように、鋭く細められているのに気づいて、背筋が少し凍り付くのを感じた。
「ハンク君、口が軽いのでは? 軽さ詰め合わせギフトかよ」
「じっくりコトコト煮込んだ軽さ。まぁハンク君の事は置いておいてよ。異形は別に俺達だけが原因って訳じゃないんだぜ?」
「そうそう、詳しく話すのは親父に会ってからでもいいだろう?」
「俺には、お前達のように悠長にしてられる時間なんてないんだよ」
弛緩した空気に疲れ切った声を漏らすルイス。その態度から、軽口を叩く空気でもない事に気付いた2人まで、顔を見合わせてげんなりとした表情を浮かべる。
「そう落ち込むなよ。いざとなりゃあ、俺達からも親父に頼んで手を貸してやるって。同じベルモスクじゃねぇか」
「そうそうっ。そもそも俺達はあんな危ない目にあってまで、お前を助けてやった恩人だぞ? 俺達が助けなきゃあ、お前はほら……なんだっけ? スパイクッ、なんだっけっ!?」
「……神威執行官?」
「そうそれっ! 絶対にそいつらに捕まっていたね。そうなりゃ、当然お前の家族も皆仲良く火炙りだ。アイツ等、頭可笑しいかんなぁ」
「まぁ、お前にそう言われんのは、先方も不本意だろうがな」
「それには……感謝している」
「なら、大人しく着いて来いって。糞ったれなエウレシア人ならともかく、ベルモスクの同胞相手に悪いようにはしねぇよ」
「これマジな。マルコとアーシアだっけ? 異端者隔離居住区には俺達の仲間が他にも残ってる。親父が連絡すれば、なんとかしてくれるさ」
2人がそれぞれ右手を差し伸べてくるので、気だるそうにしながらもスパイク、マックスの順で握手を交わしていくルイス。ただ、マックスと手を握った瞬間、ヌメっとした感触と共に、得体の知れない粘液性のなにかが付着したので、勢いよく手を引っ込めた。
「あっ、悪ぃ悪ぃ。悪気はなかったんだけどな。今、ちょうどコイツを触ってたの忘れてたわ」
「一体なにを……」
そう言いながら、マックスが抱えている小さな袋の中身を覗いて、ルイスは絶句した。身体中を自らが分泌した粘液に覆われた、赤く腫れたような皮膚をした、人差し指サイズの芋虫。総合した見た目はヒルに近い。そんな気持ちの悪い物体が、折り重なるようにして蠢いていたのである。
「そいつは、トラッシュワームか? 浄化施設から持ち出したのか?」
「へへっ。まぁそういうこった。なんか触ってると愛着湧いてくるよなぁ。お前もヤッとくか?」
汚い笑顔を浮かべながら、袋を差し出すマックス。ルイスはそれと同じ距離だけ身を竦ませて、離れていく。
「そんなに嫌がるこたぁねぇだろ。コイツ等だって、俺達と一緒に頑張ってんだぜ。なぁ~? って、痛ぇっ。コイツ、噛みやがった。お前は死ね」
唇を尖らせながら、再びトラッシュワームを放流していく。ルイスには、彼が何気なく零した言葉が、その胸の内に強烈な皮肉として突き刺さった。橋1つを隔てた向こう側の世界からすれば、自身もこの小さな異形も、なんら変わらないのかもしれない。ゴミや糞を餌に、汚い場所でのた打ち回る醜い生き物でしかないのだ。
だからこそ彼は金を求めた。そして、婚約者と弟と3人で生きたいと……普通の人間としての生活を、細やかな願いとして、望んだだけなのである。
「着いたぜ。良かったな、ルイス。雨は上がってるみたいだぞ? これで浸水も収まっていくんじゃないのか?」
スパイクの声に促されて、ルイスは顔を上げる。重い鉄の扉で閉ざされている筈の入り口は既に開け放たれていて、そこからは雨の代わりに星明かりが静かに降り注いでいた。
「さぁ行こうぜ、兄弟。2人を助けたいんだろ?」
先行したスパイクが岸からルイスに向かって手を伸ばし、背後から彼の背中をマックスが滑った右手で後押ししてくる。ルイスは何処かに不安を抱えながらも、行き詰ったこの状況を打破する為には、彼等に頼らざるを得ないのだった。