赤ワインに染められてその2
その場にいる全員が、声を失って息を呑み込んだ。少し離れた場所での変わらぬ喧騒が、まるで時が止まったかのようなこの静寂を逆に引き立てる。互いが互いに、誰から声を掛けるべきか、牽制するように視線を運ぶ。声の掛け方1つ間違えれば、リンデルマン侯の怒りが自身にまで及ぶ……皆がそういう飛び火を恐れているのだ。
「お召し物を汚してしまい、大変申し訳ございませんでした」
しかし、皆が顔を青ざめるようなこの事態に、ワインを零した当の本人である給仕の女は、冷静であった。声を震わせた様子もなく、淡々と落としたグラスを拾い上げてトレイに立て直し、エプロンポケットの中からハンカチを取り出して水で湿らせると、それを使ってリンデルマン侯の服を拭き始める。
「な……なんと無礼なっ! ワインを零すだけに飽き足らず、そんな汚い布で許可も頂かずに拭うなど……この方をどなたと心得ているっ」
リンデルマン侯の取り巻きの1人が、ようやく口を開く。そう口にするお前は一体誰なんだ? と、問い詰めたくなるような、取り巻きの代表格的な台詞だったが、周囲の賛同は十分に得られたようで、それに釣られるように、給仕の女への糾弾を始める。
それが当然であるかのように、一個人へと向けて数々の罵倒が投げ掛けられる様子に、アイリーンは無性に腹が立って、キッと眉根を上げながら声を張り上げる。
「赤っ!」
その声に、糾弾が止んだ。
「初めてリンデルマン侯とお目見えさせて頂いた当時……候がそのワインのように赤い礼装をお召しになっていたのを思い出しましたわ」
一体なにを言い出すんだ? と、そんな視線が今度はアイリーンへと移った。
「バルド卿のよき友人として1つ進言させて頂きますと、今夜のような白い礼装も落ち着きがあって素敵だとは思いますが、我がエウレシア王国の主賓たる獅子には、ワインよりも……いいえ。薔薇にも勝る赤の方が映えるのではないでしょうか?」
リンデルマン侯の胸元に刺繍された、彼の家紋である雄々しく立ち上がった獅子に指を触れさせながら、静謐な笑みを湛えるアイリーンに、リンデルマン候は鼻を小さく鳴らした。
アイリーンは、エウレシアの国花である薔薇を背負うべき主賓は、自らではなくリンデルマン侯であると告げる事で、自らの格を落とした上で、それを理由にバルドとは友人止まりの関係である事を印象付け、更には赤い礼装への衣装替えを薦める事によって、給仕の失態を軽いものにしようと狙っているのである。
(この小娘……)
勿論、その企みの全てを見通しているリンデルマン侯は、むしろ不遜と捕える事も出来るこの態度に、思うところがないわけではなかったが、彼にとってもこの敷かれたレールは進み心地の良いものなので、波風を立てる理由がなかったようだ。
「会場もまだ宵の口の様子。私も丁度、衣装替えをするには頃合いかと考えておりました。これもなにかの切っ掛けだったと致しましょう」
「では、貴女。リンデルマン侯を別室へご案内さしあげて貰えますか?」
「……はい、お任せください。リンデルマン侯爵閣下。ご案内致しますので、どうぞこちらへ」
給仕がこの行為をどう感じたかは分からないが、これもこの失態の処分をリンデルマン侯へ預けるという形を取る事で、他の貴族達からの余計な口出しを防ぐ為の差し出口だ。
勿論、リンデルマン候にはこの給仕を許さず、処罰を与える選択肢もあったが、ここで端の命を無慈悲に切り捨てるよりは、寛大な態度を示す姿を見せた方が、彼自身を大きく印象付けるという利がある筈……そんな目論見がアイリーンにはあった。
果たしてこの目論見も、リンデルマン侯にとって都合のいい展開だったようで、彼は鷹揚に頷くことによって、給仕に案内を許す。
「まさかリンデルマン侯がお許しになるとは」「リンデルマン候ほどにもなると、あの程度は処分するに値しないという事か……」
その場の空気、印象、それらに応じた好き勝手な憶測を飛び交わせる取り巻き達。その中にあってアイリーンは、ふぅっと大きな吐息と両肩を同時に落として、そういった雑音から距離を置く。
「アイリちゃん、ちょっとこっち向いて?」「ひゃっうっ!?」
そんなアイリーンの背後から近づいて、ひっそりとした声を掛けながら彼女の背中に手を置くフィオナ。気の抜いていた所に、剥き出しの背中を直接触れられて、会場に入ってからは必死に抑えていた情けない悲鳴を漏らしてしまうアイリーン。
「突然触らないでよ……もうっ。びっくりしたじゃないっ」
「びっくりしたんはこっちや。リンデルマン候相手に、あんな突っかかるような事言うて……汗びっしょりやん。ほらっ、こっち向いて?」
アイリーンの手を引いて、会場の人気のない場所まで移動すると、ハンドタオルを取り出して顔を何度か抑えるように触れさせて、優しく汗を拭きとる。それに対しても擽ったそうに首を竦めて見せるアイリーンは、仕方のない妹の面倒を見る姉の眼差しを向けた。
「あの給仕の娘、知り合いやったん? そうでもないんなら、大人しくしとった方が良かったと思うけど」
「知らない。知り合いではなかったけれども……その、ああやって皆で寄ってたかってってしてるのを見せられるの、なんか嫌だったのっ」
周囲からの罵声を浴びせられていた給仕の姿をしたあの娘が、アイリーンの目にとって誰に映ったのか……その存在に思い至ったフィオナは、苦笑を浮かべるよりない。まだ彼女とは気まずい喧嘩の最中だったと思うが、アイリーンにとって大切な1人の友人である事に違いないのだろう。
「それでも、あんまり無茶せんといてよ? それと、やっぱりもう1度化粧直しに席を外した方がええと思う。ついでに衣装も変えとく? 汗びっしょりやもん」
フィオナに指摘されて、自らの掌に視線を落とすアイリーン。まるで結露のように掌に滲む手汗の量に気付いて、自分がどれほどの緊張に晒されていたのかを知る。
(お母様は、いつもこんな想いで議会に参加されているのかしら)
リンデルマン候に続くような名のある学匠達を相手に、たった1人で己の意思を貫くために言葉を交わす事に、どれだけの精神力を要するのだろうか? それこそ、リンデルマン候1人を前にしてこの体たらくの彼女には、想像にも及ばなかった。ただ……
「私が席を外している間に、なにかありましたか?」
間近から覗き込むようにして、静かにアイリーンの体調を伺うフィオナ。そして、まるでアイリーンの心が弱っていたのを感じ取ったかのようなタイミングで、駆け付けてくれるパメラ。
母が得る事の出来なかった信頼出来る味方を、既に2人も有している自分がどんなに恵まれているか、それを思うと次第に胸の内に温かさが戻り、花咲くような笑顔が零れてしまうアイリーン。
「なんでもないよ、パメラ。おかえり。それより、フィオナと話してて、化粧直しに行こうって事になったの。一緒に行かない?」
「それはこちらとしても好都合です。実は折り入って席を外して頂きたい事情がございましたので……」
パメラがこういった婉曲とした告げ方をする事が意外で、その内容に心当たりのないフィオナは首を軽く傾げるが、パメラが席を外していた事情を知るアイリーンは、顔を綻ばせながらパメラの手を両手で掴む。
「もしかして、マテウスから連絡があったのっ?」
「そうですが……アイリ様。ひとまず、その手を離して頂けますか? 貴女の手汗で私の手まで濡れてしまいますので」
淡々と冷めきった声色で、事実だけを語るように告げるパメラに対して、羞恥と怒りで顔を真っ赤に染めたアイリーンの両拳が、雨のように降り注いだのは語るまでもない。




