狩人達の夜その3
―――数十分前。バルアーノ領、ヴェネット、異端者隔離居住区重犯罪者収容所付近
「いい加減にしてよねっ。まだ足りないっての?」
今日何度目かの悪態を零しながら、ヴィヴィアナはまた駆け出した。合羽を脱ぎ捨てた彼女の身体を、容赦なく打ち付ける雨がその全身を濡らし、体温を奪っていくが、動き回って火照った彼女にとっては、むしろ心地良く感じた。
ただし、浸水によって足首程度まで浸かっている脚に関しては別だ。脚を動かす度に纏わりつくように重くのしかかる水の抵抗に、ヴィヴィアナの体力は過剰に奪われ続けていく。しかし、それでも動き続けなくてはならない理由が、彼女にはあった。
ヴィヴィアナが走り出すと同時に、家屋の屋根を同じ速度で並走し始める大きな影。闇夜にあって発光するかのように怪しく光る瞳が、彼女の頭上を残光を残しながら横切る。それを視線で追いながら、いつでも打ち抜けるように矢を番えた状態の、真紅の一閃を持つ両手に力を込めた。
「もうその誘いには、乗ってやんないっつってんでしょっ!」
大きな影……フレダリオンの恐怖を煽るかのような挑発に乗らず、肩の力を抜いて、腰を低く落としたまま走行を続けるヴィヴィアナ。だが、フレダリオンが屋根の上を並走する姿を見せた次の瞬間、両足裏に力を込めて急停止する。
ヴィヴィアナの身体に打ち上げられて、一際大きな水飛沫が舞い上がり、地を這うような低姿勢を取る彼女の頭上を抜けていくが、彼女の見開かれた瞳は、その先へと伸びる白線しか映していなかった。
その瞬間の集中力は、ヴィヴィアナだけの領域。煩わしいだけの雨音は勿論、水飛沫が体を打つ音、自らの心音すらも耳に入らぬ一瞬の静寂の中で、標的へと続くその白線をなぞるように、闇夜の曇天を仰いだ彼女の指先から、真紅の一閃が放たれる。
しかし、音速に迫る勢いで解き放たれた紅の矢は、標的を捉える事なくそのまま夜空へと消えていった。矢が当たる寸前に、フレダリオンが屋根の傾斜の影に隠れたのである。
「チッ……やっぱ角度が浅いっ」
フレダリオン……高所から獲物を狙う事に長けた異形だけあって、その駆け引きをよく心得ていた。遮蔽構造を利用した飛び道具への対処、視界の広さを保つ事によってヴィヴィアナを自身に有利な場所へと誘導するような立ち回り。それ等は、ヴィヴィアナに狩人としての知性や脅威を肌で感じさせるのに、十分な動きだった。
そして、そんな狩人側であるフレダリオンが、この好機を逃す筈もない。
屋根の傾斜の向こう側から再び姿を現したフレダリオンは、既に飛び掛かる為の体勢に移行していた。ヴィヴィアナが携える武器が弓であるのに対して、フレダリオンは自身の肉体こそが弩であり、重量級の矢なのだ。
もう何度目かになるその体勢を目にした瞬間、ヴィヴィアナの背筋には凍り付いたかのような悪寒が走る。再び駆け出すのでは間に合わないと感じた彼女は、真紅の一閃を放った低姿勢のまま横っ飛びを敢行する。
その直後、解き放たれた矢のような鋭さで真っ直ぐ突進してくるフレダリオンの前脚が、ヴィヴィアナがいた筈の場所を捉えていた。その一掻きに舗装された道が敢えなく抉れ、粉々に砕かれた石が飛散する。
まるで噴水のように屋根の上まで打ち上げられた水飛沫が、次の瞬間には滝のようになって周囲に降り注ぐが、その中にあってフレダリオンの眼光は取り逃した獲物の姿を正確に追い掛けていた。そして、その異変に気付くのだが、時は既に遅い。
横っ飛びになって回避したヴィヴィアナは、再び矢を番え直すと、空中で上半身だけを捻ってその狙いをフレダリオンに向けていたのである。まともな威力や狙いになろう筈もない曲芸染みた体勢ながら、その距離は僅か……今の瞬間ならそのどちらも必要とされない。
「避けてみなさいっ!」
挑戦的なヴィヴィアナの発言と共に放たれたのは、無数の紅い矢だ。光の線が扇状に広がり、フレダリオンを包囲するようにして一斉に襲い掛かる。回避し切れないと判断したフレダリオンは、大きな巨体を縮こまらせて、急所を守り、当たる数を減らす選択をした。
着弾。無数の矢がフレダリオンを捉えたのを確認すると同時に、ヴィヴィアナも水の流れる大地へと沈んでいく。狙いを定める事に集中していた為、受け身にまで余裕を割けなかったのだ。
腹部を水で打ちつけ、膝や肘を舗装した道路に打ち付け……身悶えするような痛みを堪えながらも、左手に握りしめる真紅の一閃や、意識は手放さずにいた自身を褒めてやり、続けて鞭打つように両手を使って身体を起こす。
「ゲェッ! ゲェァアァッ!」
全身を矢で射抜かれた痛みで、フレダリオンはまるで狂ったかの如く、体を家屋に打ち付け、打ち上げられた魚のように激しく翻筋斗打つ。その姿を見て、むしろ相手の生命力にまだ余裕があると捉えたヴィヴィアナは、痛みを堪えながら再び矢を番えた。
だがその殺気に気付いたフレダリオンは、皮膜の着いた右腕を使って、水を救い上げるように横薙ぎに振るう。水のカーテンを張って、ヴィヴィアナの視界を遮ったのだ。
「こっのっ……」
右に避けるか、左に避けるか……直感で彼女は左に飛んでそれを回避しながら矢を引き絞るが、既にその先のフレダリオンは掻き消えていた。ヴィヴィアナが左に飛ぶと同時に、フレダリオンも彼女の右側を抜けるように、猛然と移動していたのだ。
「……野郎っ!」
しかし、常人離れしたヴィヴィアナの視力はそれを捉えていた。再び体を捻りながら引き絞っていた矢を解き放つが、相手も常人どころか異形そのものである。放たれた矢は、スピードに乗ったフレダリオンの身体を捉える事なく、家屋の壁に突き刺さって消失する。
ヴィヴィアナが着地をして再び顔を上げた時には、フレダリオンは壁を蹴って飛翔し、路地へと消えていく。訪れるのは先程まで激戦が嘘のような静寂。雨が流水を打ち付ける音や、自らの荒くなった吐息ですら騒々しく感じてしまう。
1つ、大きな深呼吸を落として、完全に息を整えたヴィヴィアナは、再び駆け出していた。勿論彼女には、このままこの場所を離れるプランも浮かんでいたが、それを選ぶと同時に、あの異形が別の人を襲い掛かる光景が脳裏に浮かぶので、それが彼女には耐えられなかった。
まずはフレダリオンが姿を消した路地の入り口へ、警戒しつつ真紅の一閃を構えながら立つ。それが当然であるかのようにフレダリオンの姿はなく、光の一切を許さないそこは、まるで地獄への入り口であるかのように、静かに口を開いている。
そんな暗闇を、稲光が閃いて一瞬の間だけ照らし出し、直後に大気を震わせる轟音を周囲に響き渡らせる。緊張に強張った顔をしたヴィヴィアナは、空気を大きく吐き捨てて、緊張を無理矢理に解きほぐすと、家屋のくぼみに足を掛けて、三角飛びの要領で一気に屋根の上まで駆け上る。
フレダリオンに頭を抑え続けられていた為、初めて得た高所。所々踏み抜いてしまいそうな古びた箇所があるものの、水に纏わりつかれるよりは、足場としてはマシな部類だろう。夜をも見通すヴィヴィアナの目が、周囲を観察して、人気の少ない、見通しのいい場所を探し当てる。
(あそこら辺にアイツを誘導出来れば……)
相手に地の利を活かされ、翻弄されてばかりの戦いは終わり、ようやく反撃の機会が訪れた。濡れた髪が間違っても肝心な時に目に入らないよう、しっかりと掻き上げて、まずはフレダリオンの痕跡を追う為に、真剣な面持ちで屋根の上を駆け出していく。