狩人達の夜その2
「まだそんな事言ってんのかよ。テルム川が氾濫だなんて、ある訳ねーだろ。馬鹿」
ラウロからの質問を聞き終えたソーンは、答えるのも面倒くさそうな表情で、両肩を竦めさせる。
「そもそもそうならんように、ここにいる俺達がつい昨日、わざわざ川の上流に行って分水路を開いて来たんだぜ? ここは水の街。ちょっとやそっとの増水ぐらいで、あたふたするように出来ちゃいねーよ」
「でも、実際っ……」
「デモもクソもあるか。それから用水路から水が溢れるとかなんとか言ってたな。そいつもないだろうぜ。この街の用水路は下水に集められた後で、無駄にデカい浄化施設を通って、浄化してから川に放流されてるんだ。つぅー事はっ、用水路から水が溢れるってーと、その糞デカ浄化施設と、街を巡ってる下水全部が満水になった後って事だろ? 確かに、今は水浄化施設から川への放流先の何か所かは絞ってるだろうが、流石にそんなヘマをやらかしたりはしねーだろ」
その話を黙って聞いていたエステルは、難しい顔をしながら無言で外へと歩き出す。なにか意味がある行動なのかと、皆は彼女の言葉を待ったが、そのままの格好で外へと出てしまったので、無言の沈黙が続くだけになってしまった。
「んぅ? なんなんだ? あれは一体……」
「いや、俺も分かんねぇー……」
皆が困惑する中で、レスリーだけはエステルの行動の意味が、凡そで理解していた。恐らく彼女は、難しい話でよく分からないから、その間にちょっと外の様子を直接見てみようとしているだけだ。
「それよりもだ。もし、浄化施設に入る前に……例えばどっかが詰まるかなんかしたりしたら、下水に水が貯まるなんて事もあるんじゃないのか?」
「そりゃあ、あるかもしれねーけど……人が中に入って通れるような場所だぞ? なにが詰まるってんだよ。それに、あそこが満水になる前に誰かが気付きそうなもんだが」
結局、答えを得る事は出来なかったし、ソーンは最後まで浸水については懐疑的だった。そして、例え浸水が始まっていたとはいえ、この場所と重犯罪者収容所では高度が違うので、ここが水に浸かるのはまだ先だろうという事で、マルコもひとまずは落ち着いた。
そうこうやり取りをしている間に、外へ出ていたエステルが帰ってく来るのだが……
「エステルさん、アンタ……その恰好……」
ラウロの視線の先に立つエステルは、赤鳳騎士団の制服姿から、彼女馴染みの鎧姿に着替えていた。歩く度に音のなる白銀色をした脛当て付きの具足。上半身を守る肩当て着きの軽鎧に、前腕と手の甲を金属で守られた革製の小手、頭部だけを守る鍔の迫り出したバーゴネットタイプの兜、そして背負うのは家宝である所の大盾、殲滅の蒼盾。
レスリーには見慣れた彼女の元の姿だが、他の者達は物々しい雰囲気に少し気圧されたようだ。
「これは私にとっての正装だ。それより、難しい話は分からんが、避難が始まっているのは本当のようだぞ」
「まさか、この短い時間の間に見に行ったってのか?」
「いや、この装具を使って音を拾った」
自らの兜を拳で軽く叩くエステル。下位装具ズヘンシーク。元王女親衛隊兵舎襲撃の際にも使っていた、集音の感度を上げる事によって主に周辺の探知に使う装具だ。今回は、指向性を持たせたる等の応用を使って、街の様子を探っていたようだ。
「雨音で声の内容までは聞き取れなかったが、あちら側の門の方に人が集まりつつあるのは本当だ」
「マジで言ってんの?」
エステルの言葉を聞いても俄かに信じ難い事実であったが、じんわりと不安が広がっていくような胸騒ぎを覚えたラウロは、衣文掛けに掛けていた自らの合羽に手を伸ばす。
「おいっ、なんか東門の方で騒ぎになってるらしいし、誰かちょっと確認しに行かねーかっ?」
「この糞雨の中とか、面倒くせーから1人で行って来いよっ」「酒が入ってるから無理だー」「なんや面白げになってたら、また呼んでやー」
案の定、危機感のない素気ない返事が重なって、肩を落とすラウロ。その肩に小さくも重い手が添えられる。
「私が行こう」
「エステルさんならそう言ってくれると思ったぜ」
「後、こうなってしまったからには、レスリー殿も一緒に行動した方がいいだろう。ヴィヴィ殿と入れ違いになってしまうかもしれないが、浸水が始まっているとするならば、避難先はここより高い所の方が良い」
エステルの提案に先に声を上げたのは、レスリーの横で聞き耳を立てていたマルコであった。
「そんなっ、自分達だけずるいよっ! 俺とアーシア姉ちゃんも連れて行ってよっ」
「しかし、ソーン殿の説明では、暫くの間はこの場所の方が安全なのだろう? だからこそ今の内に、私達が避難先が本当に安全であるかどうかを確認するんだ。後に避難が必要であってもなくても、私は必ずここに帰ってくる。それまでは、子供は大人しく待っていなさい」
マルコを宥めるように彼の頭にポンポンと軽く手を乗せるエステル。しかしマルコは、同程度の身長のエステルにそんな扱いをされるのが気に入らないのか、彼女の手を払い除けてそっぽを向いてしまう。
「……自分だって子供の癖に」
「子供じゃないもんっ! マルコ殿よりずっとお姉さんだし、騎士なんだぞっ、私はっ!!」
「うーん……色々と台無しなんだよなぁ」
ともかく、エステルが口にした方針に異論があるものは他にはいないようで、レスリーもいそいそと外へ出る準備を始める。
「アーシアちゃん、マルコの事。大丈夫か? その……ここだと、またああいう事があるかもしれないし」
「店主に頼んで、厨房で待たせておこうと思っています。お気遣い、ありがとうございます」
深々と頭を下げるアーシアの姿に、特になにか出来たわけでもないラウロは、気まずそうに後ろ頭を掻きながら、気にしないでくれと声を重ねて掛けて、その場から離れていく。
出入口では、既にエステルとレスリーが身支度を終えて待っていた。
「行こう。まずは東門からっつー事で」
その言葉を合図に3人は肩を並べて酒場から飛び出す。外は、強い雨に風まで加わって最悪のコンディションであった。舗装のされていない土の道は、そこら中に水溜まりが出来て、まるで泥濘のようになっていたが、3人はそれを苦にする事もなく目的地に向けて直走っていたのだが……
「待てっ、あれを見ろっ!」
エステルの雨音をも貫く張り上げた声と共に、皆が足を止まる。急に止まった事で体勢を崩したラウロとレスリーの2人が顔を上げた先では、エステルが彼方の夜空を指し示しているのだが、指先の方角には星の光一つ届かないない暗い夜空が広がるだけであった。
「なにかあったのかっ?」
「今、確かに光ったんだっ」
「光ったって一体……雷かなにかの事かっ?」
ラウロが問い質すが、エステルは首を左右に振って否定する。ラウロの顔は一切見ずに、彼女自身が指し示す方角を睨むように目を凝らして見詰めていた。
彼女の真剣な眼差しに釣られて、ラウロはもう一度夜空を見上げるが、やはり激しい風雨に顔を打たれるばかりで、景色にはなんの変哲もない。いい加減、先を急ごうと彼が声を掛けようとしたその時、まるで地上から空へと流星が上っていくかのように、一筋の紅い光が夜空を貫いた。
「やはり、あの先にヴィヴィ殿がいるぞっ!」




