狩人達の夜その1
―――数十分前。バルアーノ領、ヴェネット、異端者隔離居住区大衆酒場内
「「ガハハハッ!!」」
テルム川が溢れた。酒場内に入るなり、息を切らしながら鬼気迫る表情で叫びながら報告した少年に対して、その場で飲んでいた客達が一斉に笑い飛ばす。
「お前は確か、ルイスん所の……」
「マルコだったな。てめーらは出禁になった筈だろうが? それを、そんな適当なデマを言いに来る為だけに破ったってのか? あぁ?」
マルコと呼ばれた少年に対して、彼の一番近くに座っていた男が詰め寄っていく。エステルよりも僅かに小さい体格の少年は、雨の中を走って来たのであろう……纏った襤褸が彼の褐色の肌に張り付いていて、その標準より痩せこけたボディーラインをくっきりと浮き立たせていた。
そんな小さな体を思いっ切り伸ばして、真上から睨みつけてくる男を臆する事なく真っ直ぐと睨み上げる。
「はんっ。信用しないなら俺は全然いーんだぜっ。俺はアーシア義姉ちゃんに伝えに来ただけなんだからっ!」
「マルコッ! お店には来ないようにってあれ程言ったのに……」
騒ぎに気付いて駆けつけてきたのは、先程までキッチンへお皿を下げている最中だったアーシアである。彼女は男とマルコの間に割って入るように近づき、屈みながらマルコを抱きしめて男へと平謝りをした。
「すみません、お客様。私からちゃんと言いきかせておくので、今回は許してください」
「……ふんっ。仕方ねぇなぁ」
興が削がれたのか、それとも今更、子供相手にムキになっても仕方ないと思ったのか。どちらにせよ、男はそれを最後の言葉に席に戻って、再び酒を舐めるようにチビチビと飲み始める。
「アーシア義姉ちゃん、逃げようっ。こんな所にいると、あんな奴等と一緒に溺れる事になっちゃうよっ?」
「マルコ……貴方、テルム川が溢れただなんて、本気で言ってるの? 異端者隔離居住区の外周の高さは知っているでしょう?」
「外からじゃなくて、下から溢れてきてるんだよ。大体、俺がそんな嘘吐く為に、この店に来るわけないじゃんっ」
「確かにそうだけれど……」
マルコの言葉は、アーシアにとっては考えを改めるに値する内容だったらしく、次第に彼女の顔は不安に揺れた青ざめた表情へと変わっていく。しかし、弟であるマルコは、一刻も早く姉とこの場から離れたいが為、悩まし気な彼女の両肩を掴んで、力強く揺らして更に急かし始めた。
「早く逃げようっ、アーシア義姉ちゃん。もう水が来てる所の奴等は、東門と西門に向かうって言ってた。きっと外周の上に逃がしてもらうつもりなんだっ。だから俺達も……」
次第に落ち着きを取り戻したのか、2人は声を潜めた密談めいた会話に形を変えていく。2人のやり取りにずっと視線を奪われていたラウロが、再び視線をテーブルの方向へと戻すと、エステルもカードで大負けをして激昂した男ソーンも、間を外された事で、もう1度改めて怒鳴り合いから再開する気にもなれずに、困った顔で睨み合っていた。
「勝負は勝負……一先ず今回は、この結果で締めようぜ。悔しかったら、また真っ当に稼いでからリベンジすればいいじゃねぇか。なっ?」
「……つってもよ。このチビ、またこの店に来るのかよ?」
「私ならば決闘の名の着くものから、逃げも隠れもしたりはしないっ。それが騎士というものなのだっ。覚えておくがいい、ソーン殿っ……後、私がチビではないって事も付け加えてなっ!」
「へっ……お前こそ忘れてんなよ。俺ぁ、別にお前に負けた訳じゃねーからな」
大きく踏ん反り返りながら啖呵を切るエステルを、鼻で笑いながら背を向けて、スゴスゴと離れて行くソーン。それを見送るレスリーの横顔は、普段通りに視線に対してオドオドとするものの、なんの悪びれた様子もなかった。
(やっぱり、いい性格してるっぽいねぇ、レスリーちゃん。へっ、ますます惹かれるよっ)
「まっ、それは置いといて……」
話に一区切り着いたのを見計らったラウロは、未だに店の入り口付近で、声を潜めながらのやり取りを続けているアーシアとマルコの2人へと、近づいていく。
「なぁ、そんなに上手く行くのか? 東門も西門も、下級仕官様が警備してるんだろう? ベルモスクである俺達を、わざわざ外周の上にまでエスコートしてくれんのかよ? そのまま逃げ出したりするかもなのに?」
「……アンタ、誰だよ?」
「マルコッ。お願いだから、そんな乱暴な言葉を使わないで? 申し訳ありません。ラウロさん」
「いや、アーシアちゃんが気にする事はないよ。子供の頃は、皆こんなもんさ。それより、話の先を聞かせてくれないか?」
マルコの頭に手を乗せて謝らせながら、自らはもっと深く頭を下げるアーシアを制止するラウロ。そんなやり取りが納得いかないのか、姉の手を払い除けて、彼女より一歩前へとラウロに近づいて、堂々と見上げるマルコ。
それに合わせて、ラウロの後ろからエステルとレスリーも話を聞ける距離まで近づいていく。エステルはなにか厄介事の臭いを嗅ぎつけて、レスリーはその場に残る事に居たたまれなさを感じて……と、2人の理由はそれぞれ違ったが、マルコからすれば3人の対応は他の男達とは違って映った。
「アンタ達は信じてくれるの? 俺の言う事を」
「それは話の先を聴いてからだな。さっき下から水が溢れてるとか言ってたよな? 下ってのは一体どこの事だよ?」
「それは……知らない。でも、アーシア義姉ちゃんが近づくなって言ってた所の周りはもう水に浸かってるから、皆、東門や西門に向かって逃げ始めてて、だから俺も……」
「近づくなって言ってた所ってのは?」
「重犯罪者収容所の事だと思います」
「あそこがここより先に浸かるのか?」
ラウロは自らの刈り揃えられた顎髭を撫でながら、その周辺の地形を思い出す。あの場所は、この酒場より内側に面しているが、周辺に用水路が走っていたりと、地形が低く設定されている。
確かに、内側から水が溢れているというのなら、上から下へ流れるという理を守る限り、先に浸水が始まるのは重犯罪者収容所周辺だろう。
「つってもなぁ……あそこの用水路が下水に繋がって、そこから排水されてる筈だから、あそこら辺が浸かる筈ないんだけど」
「よ、用水路から水が溢れる、という事は……ないのですか? あっ、その……すいません」
急に会話に入って来たのはレスリーだ。彼女が発言した事で皆の視線が集まるが、彼女にとってそれが気まずく、逃げるように頭を下げて視線を落とす。
「いや、勿論大丈夫だぜ、レスリーちゃん。確かに俺もその辺は詳しくないから、ちょっと聞いてみるか……ソーンッ! ちょっと来てくれないか?」
「あぁっ!? なんだよ、一体……」
当然のように虫の居所が悪いソーンは、ラウロに声を掛けられても席を立とうとしなかったが、ラウロが両手を合わせるジェスチャーをすると、仕方なしに腰を上げて彼の方へと近づいていく。
「お前、普段は浄化施設で働いているんだろ? それで、ちょっと教えて欲しい事があるんだけどよぉ……」
稼ぎをギャンブルで擦り減らした上に、酒が入った体で職場の話などしたくないソーンは、表情に逃げ出したくなる程の嫌悪を滲ませたが、その場のエステルとレスリーの視線まで集めているのに気づいて、妙な対抗心に駆られてその場に踏み止まる。
「それで、なにが聞きたいんだよ? そん代わり、後でなんか奢れよな?」