威光の影にその2
「やめーや。勝手に開けたら、危ないやろが」
「あぁ、悪かった。この目で直接見てみたかったんだが……予想以上に、被害が出ているようだな」
「……せやな。この様子やと、通路使えるようになるのも、今日明日って事にはならんと思うで」
揃いの深い緑色の合羽姿をした自警団の男に、肩を掴まれながら注意を受けて、素直に引き下がるマテウス。扉をもう1度閉め直しながらマテウスとのやり取りを続ける彼の顔は、見通しの着かない状況に深刻な表情を浮かべていた。
「その様子だと、こうして浸水するのは珍しい事なのか? 川の下の通路だなんて、真っ先に浸水しそうなもんだが」
「アホ言いなや。この通路が作られてこの方、1度たりとも浸水した事なんてないわ。そんなしょっちゅう浸水しとったら、なんの為の緊急連絡やねんって話やろうが。そもそも、河川とは分離してるから、増水程度で浸水する筈はないんやけど……んっ? 一応、間接的には繋がってるって言うんか? まぁ、なんでこんな事になったんやら、訳分からんわ」
マテウスは顔を上げて、シンディーとシドニーの2人へと視線を向ける。男の言葉を聞いていたかどうかの確認だったのだが、彼女達は周囲に立ち込める異臭の方が気になっているようで、鼻を抑えながら辺りを見回していた。
「臭くて敵わんでしょ? えろう、すんませんね。オラッ、ベルモスク。そこの臭っせぇ馬車をどっかイなせやっ。ここに集まってる者、全員がええ迷惑しとるんやっ」
自警団の男の言葉に、少し離れた場所に置いてある馬車にもたれ掛って休んでいた男達が反応して、動き出す。男の荒い言動に気を悪くした為の反抗か、動きは緩慢で、臭いが届かない場所に到達するまでに、必要以上の時間を要していた。
「一体、なんなんですか? あれは」
「汚物の収集車ですわ。下水を引いてない地域の汚物やら、馬糞やらを拾い集めてる、汚ねぇ奴等ですよ」
人が生活をしていれば、排泄物を代表とする汚物が発生するのは当然の事だ。なので、それを処理する為の施設は、街の健全な発展にとって課題といえる。
特にこのヴェネットという街は、観光地化を推し進めている背景もあってか、処理施設が発展しており、まだエウレシア王国内では見られる事の少ない(排水に使う水の確保や、地中の配管工事など、技術的に困難な事が多い為)下水道の採用や、汚水の浄化施設の運用。
また、多くの人員を要して馬糞(馬を主な移動手段に使用している限りは、避けられない問題)や廃棄物の回収に当たらせる等、公衆衛生のモデルケースとして認定されている程であった。
「あの幌の中に、臭っせぇのがギッシリ詰まってるんですわ。緊急連絡通路から、異端者隔離居住区内の浄化施設に運びたかったんやろーけど、まぁこの状況で立ち往生って訳ですよ」
「ベルモスクという事は、彼等は異端者隔離居住区の者達か?」
「せやな。異端者隔離居住区ん中でも、罪が軽くて、危険性が低い奴等が選ばれるらしーで。知らんけど」
「もう結構です。マテウス卿、いい加減関係のない事でベラベラと無駄な時間を使わないで頂きたい。そこの貴方、他の緊急連絡通路も同じ状況なのですか?」
馬車が離れた場所に移動した後でも、その残り香で気分のが悪いのか、額を手で押さえながら話の間に割ってい入ってくるシドニー。それに対してマテウスは気分を害した風もなく、一歩身を引く。
「それが分からんのですわ。見ての通り、こっちがこの状況やから、まだ他ん所にまで手が回ってねぇ状態でして……」
「分かりました。協力に感謝します」
これ以上の収穫がないと知って、シドニーはあっさりと引き下がった。心にもない謝礼を述べてから、シンディーの元へと近づいていくので、マテウスはそれに着いて行く。
「……どうしますか? 他の場所にも行ってみますか?」
「そうですね。私としては、わざわざヨーゼフ猊下の手を煩わせておいて、その結果無理でしたと、オメオメと引き下がっただけの報告をするのは、なるべく避けたいですね」
「それは私も同意です」
ヨーゼフの不気味な雰囲気を思い出したのか、雨で濡れて体が冷えただけなのか……自らの両肩を抱きしめて、身震いさせるシンディー。
「なら、決まりだな。急ごう。後4箇所残っている内のどれか1つでも、使えるようになっていれば良いんだがな」
「貴方が仕切らないで頂きたい」
口では反発しながらも、2人で先を競うように馬に跨って、彼等を先頭に再び移動を始める一行。しかし、結果は芳しくなく、次の緊急連絡通路も同様の状況で使用できなかった。
それでも諦めきれずに、改めて3箇所目へと移動する一行であったが、到着すると同時に見て取れるこれまでとは違う周囲の雰囲気に、皆が首を傾げる。
「人がいませんね。どういう事でしょう?」
「自警団の姿も見えませんね……この状況下で見張りも立てないなんて、不用心な」
「案外、ひと騒動終えて、引き払った後かもしれんぞ。詰め所があるんだろう? 覗いてみるか」
「……チッ」
いがみ合いながらも、考えている事は一緒なので、馬を降りてから我先にと歩き始めるシドニーとマテウスの後ろ姿を、真剣さを装いきれていないニヤけ面という、複雑な笑みを浮かべながら、視線で追うシンディー。
ただ、自身がどれだけ場違いな表情を浮かべているのか、理解出来る程度の理性は残っているようで、一先ず顔を隠すために視線を外すが、外した先に存在していた緊急連絡通路の入り口に、鍵が掛かっていない事に気付く。
「マテウスさんっ、シドニー執行官っ。通路の入り口は開けれそうですよっ」
そう2人に声を掛けてから、馬を降りて詰め所とは反対側の緊急連絡通路入り口の方へと向かうシンディー。マテウスは彼女の声に気付いて足を止めるが、それより少し先を行くシドニー達は、雨音の所為で気付かなかったのか、立ち止まる様子がない。
呼び止める必要もないかと、マテウス1人が踵を返してシンディーの元へと近づいていく。その時シンディーは、顔を真っ赤にしながら歯を食いしばり、腰を低く落としながら、片方の扉の取っ手を両手を使って握りしめていた。
「……なにをしているんだ?」
「開けようとしてるにっ、決まってるじゃないですかっ。けどっ……これっ……重くてっ!」
マテウスはいとも簡単に開けて見せたが、扉は分厚い鉄板で作られている為に、安全を考えるならば、大の男2人掛かりで開けるような代物だ。特に鍛えてもいない女1人で開こうとするのは、無理というものがある。
「代わろう」
そう言ってシンディーと場所を入れ替わったマテウスは、彼女が両手で掴んで全体重を使って開くことが出来なかった扉を片腕で、もう1枚の扉も反対の腕でもって掴んで、やはりいとも簡単に開いてしまう。その光景に、シンディーの口まで開いてしまった。
「やはり、ここも浸水してしまっているな」
覗き込んだ先の光景が代わり映えのしない水質と水嵩をしている事から、緊急連絡通路への浸水が同じ経路であると可能性が高いと考えたマテウスは、これ以上の巡回は意味をなさないと感じた。
「はぁ、はぁ……原因は分かりませんが、前の場所と水嵩が同じって事は、ふぅ……もう他の場所でも同じでしょうね……ふぅー」
マテウスの横で、疲れてへたれ込んでしまっているシンディーも同じ答えに行き着いたようだ。力み過ぎた為の酸欠状態で、未だに呼吸が荒い。
「雨が続いているのに水嵩が増していないのは、何処かに水の逃げ道があるんだろうが……いずれにせよ、これ以上は不毛か。異端者隔離居住区に向かうとすれば、他の方法を考える必要がありそうだな」
シンディーに聴かせるでもなくそう告げて、さっさと詰め所の方へと歩き出すマテウス。
「ちょっ……待って、ください……まだっ、息がっ……」
へばった状態ながらも、よろよろと立ち上がろうと動き出すシンディー。マテウスはその声に面倒くさそうに振り返るが、その先の予想外の光景に目を見開く。
膝に両手を着きながら呼吸を整えるシンディーの背後、緊急連絡通路の下から伸びた、まるで黒い剛毛に覆われた、枝のような形をしたなにかが、彼女の両脚を掴もうとしているのである。




