威光の影にその1
―――同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、上級市民街、アレッサンドロ劇場入り口周辺
(早く着き過ぎたか)
アレッサンドロ劇場の正門まで、馬の手綱を引きながら歩いているマテウスは、周囲を見渡してシンディー達の姿がないのを確認して、そう心の内で呟いた。
天候は回復する気配を見せず、日が沈んでしまった事も相俟って、劇場から離れてしまえば一寸先も確認出来ない程の暗闇が辺りを覆っていたが、何台もの足元を照らす為のカンテラを垂らした馬車が止まっているので、マテウスの周囲は比較的に明るかった。
この雨が原因で、馬車の出立が遅れているにも拘わらず、乗り込む彼等1人1人の顔色すらも明るいのは、それだけ演劇の内容が良かったからなのだが、その大半を見逃す事となったマテウスからすれば、そこは想像の域を出ない。
「マテウスッ」
交通の邪魔にならぬように壁際へ移動して、シンディー達が現れるのを待っていたマテウスだったが、自身の名を呼ぶ聞き覚えのある声に顔を上げた。それとほぼ同じくして、マテウスの目前で馬車が止まる。箱形の車体に備え付けられている小窓から、雨に濡れるのも構わず身を乗り出して声を掛けるアイリーンに、彼は眉間に皺を寄せた。
「王女殿下、お召し物が汚れますので、窓から顔を出すのはお辞めください」
「あっ……えっと……頭を上げなさい、マテウス卿。貴方の心配りに感謝します」
マテウスの堅苦しい言動で、ここが衆目に晒されている場所だと気づいたアイリーンは、緩んでいた気を引き締め直して、王女の顔へと変貌する。
「いつ、異端者隔離居住区へ向かうのですか?」
「事前にお話しした通り、異端審問局の方々と合流次第、向かおうと考えております。それまではここで、待機の予定です」
「そうですか……3人の事、よろしくお願いします」
「はい。この命に代えましても」
「マテウスが死んじゃったら嫌だよっ!」
再び窓から身を乗り出しながら叫ぶようにそう告げるアイリーン。幸いその声は雨が掻き消してくれたお陰で、御者にすら届かなかったようだったが、それでも彼女は気まずそうに居住まいを正しなおす。
「その……私は貴方の事も大切に思っております。皆で、無事に帰ってきてください」
「勿体ない御言葉、感謝します。それとフィオナ、突然任せる事になってすまない」
「こっちは、だいじょーぶやよっ。ウチに任せときっ。パメラちゃんもおるしねっ? それより、ウチの方こそ力になれなくてゴメンな? お父さんと連絡が取れとれば、教会の人の力を借りなくても緊急連絡通路を使えたのに……」
「いや、それは君が気にする事ではない。この悪天候だ。ホストである君の御父上がその席を外す……なにか余程のトラブルに見舞われているのだろう。そちらの方が心配だな」
「それはまぁ、そっちはそっちで心配なんやけどね……」
フィオナが歯切れの悪い言い方で話を区切るので、なにか先があるのかと問い質そうとするマテウスだったが、それ以上になにかを訴えたそうな膨れっ面を作りながら、ジッと眼差しを送ってくる存在に気付いて、こんな時にも関わらず、緊張感のない苦笑いを浮かべた。
「君を見ていると、救われるな」
「えっ?」
マテウスの独り言はアイリーンにも届かなかった。だが彼にとってはそれで良かった。誰かに聴かせる為に口にした言葉ではなかったからだ。しかし、アイリーンにはそれが分からず、聞き逃した言葉をもう1度聞き取ろうと、再び窓枠へと右手を伸ばすが、彼女の身を乗り出しかねない動きに対して、先手を取るようにマテウスから先に動いた。
「お互い、成すべきを成そう」
マテウスは、アイリーンにだけ届くようにそう告げ終えると、彼女の右手を取って、その甲へと唇を落とす。これからアイリーンが向かう先で行われる晩餐会……そこに王女殿下が参列するともなれば、幾人もの唇がそこへ落とされることになる。他人に触れられる事に敏感な彼女からすれば、試練の1つだ。
彼女に対する小さな励まし。そんな意味合いでマテウスはその行為に及んだのだが、今度はその想いが正しく伝わったようで、アイリーンは少し擽ったいような、面映ゆいような、そんな表情を浮かべて、力強く首を縦に振る。
「では、失礼します」
もう1度片膝を着きながら頭を垂れた後、馬に跨ってその場から離れて行くマテウス。その先に待つ、いつでも動けるように騎乗したまま待っていたシンディーとシドニーに合流する頃には、普段通りの殺伐とした表情へと戻っていた。
「すまない。待たせてしまった」
「いえ。では、急ぎましょう」
短いやり取りを済ませて、移動を開始する。いつもマテウスに突っかかっていくシドニーも、この時ばかりは、時間が惜しいようだった。シンディーとシドニーを乗せた馬が小走りに移動を始めると、その横と背後を守るような配置で、騎乗した彼の部下達が後に続き、それに少し遅れてマテウスが続いていく。
こんな雨の中でも1目でそれと分かるような、背中に大きくクレシオン十字と天秤が記された合羽の効果は絶大で、混雑の中にあっても、すぐに劇場から出立する事が出来る。強い雨脚に、滑りやすくなった悪路、視界の悪い夜の闇……悪条件の重なった道を、安全な速度でひた走る一行。
そうして辿り着いた目的地は、騒然とした状態になっていた。緊急連絡通路を前にして入るでもなく、かといって離れるでもなく、多くの職人達の姿が入り乱れているからだ。
しかし、先頭を進むシンディー達が馬の歩く速度を少しだけ遅らせながら真っ直ぐ進むだけで、その人垣が自然と割れていく。クレシオン教会の威光を示すかのようなその光景に、マテウスは後ろから着いていって、便乗させてもらうだけだ。
「ご苦労様です。なにかあったのですか?」
緊急連絡通路の入り口を警備しているのは、商会自警団の男達だ。彼等の事を少し説明すると、それぞれの商会に属した、商会内の施設管理や揉め事の対応を主にする者達というのが一般的な知識ではあるのだが、決まった制服を持たず、荒事に発展しやすい役目を担っているので、チンピラの延長のような輩が多い。
そんな彼等ですら、異端審問局の人間が続々と群れを成すように現れるという光景は、体験したことがないようで、シンディーの質問が耳に届いていながらも、暫くの間は口をあんぐりと開いたまま、その物々しい空気に飲まれていた。
「質問に答えなさい」
「あっ……あぁ……す、すまねぇ。じゃなかった、すいませんっ。その、通路が封鎖されてるっちゅーのに、コイツ等がけったいな言いがかりを着けて離れようとしねぇーんで、困っとったんですわ」
「通路が封鎖、されているんですか?」
「えっ? えぇ。そうです。浸水しちまってるんですよ。危なくて使えねぇーっつってるのに……」
男の台詞にシンディーとシドニーが無言で顔を見合わせる。マテウスは彼等の横を抜けて、自警団の男達の後ろにある、地面から少し張り出し、上向きに取り付けられている、観音開き式の扉に手をかけて、開け放った。
「ハッ……冗談キツイぜっ」
地下へと伸びていく階段の中腹辺り、光が僅かに届く先で、鼻が曲がりそうな臭いを放つ、くすんだ黄土色をした水面が静かに揺れる姿を見下ろしながら、マテウスは口の端を吊り上げて、悪態をこぼした。




