灰色をした蝶番その2
オーウェン公ことヘルムートが声の届く距離まで近づいてくると、マテウスは彼に向かって片膝を着いて頭を垂れた。
「聞いているぞ。ゼノヴィアの計らいにより、再び騎士の称号を得たそうだな」
「はい。罪深いこの身に、今1度、国への忠義を示す機会を与えてくださった女王陛下には、感謝しております」
「なに? 国への忠義と口にしたのか? 王宮付きの騎士にでもなったつもりか? 卿に許されたのは、王女殿下の戯れで集められた騎士の育成であろう? 勘違いをするな」
「はっ、申し訳ありません」
「それに、罪深いだけか? 薄汚い下民の血でありながら騎士などと……身に余る称号だという自覚が、まだ足りていない様子。その上、守るべき家もない身でルーベウスなどと大層な家名まで受け取るとは、恥を知らぬ性格はそのままのようだな」
「大変、失礼致しました。オーウェン公の御言葉、胸に刻ませて頂きます」
彼の家名はルーベンスだが、当然それを指摘するような無駄な時間を割いたりはしない。
「そもそも、卿の忠義がどれほどの信頼に値するか……いざとなれば、ブラオヴァルトの時のように、我が身の可愛さ余って逃げ出すのであろう? 人を見極めるも才。やはり、感情に流されやすい女に玉座は務まらないという事か……」
返答を聞く前に、勝手に結論を述べて、国の先を憂い、瞳を伏せながら左右に首を揺らすヘルムートの姿を見上げようともせずに、ただ静かに頭を垂れ続けるマテウス。その内容の半分以上は聞き流しているので、感情は小波程度の揺らぎすらなかった。
「まぁよい、それも後5年。フィリップの戴冠が終われば、我が王佐の才でもって強いエウレシア王国を取り戻す。その時は、卿にも一部隊程度なら預けてやらないでもない」
「身に余る光栄に存じます。その折りは必ずや……」
「もうよい、もうよい。私も多忙でな。務めに戻るがよい」
「はっ」
返事を返すと共に勢いよく立ち上がったマテウスは、そのまま速足でその場を離れて行く。
(思いの外、短かったな。時間を取られずに済んで助かった)
一刻も早く異端者隔離居住区へ駆け付けたいマテウスにとって、身を隠してやり過ごした時と同程度の時間の損失でヘルムートから解放された事は幸運であった。
ヘルムートには、過去にゼノヴィアの父、セドリック・オーウェン公から騎士の称号を与えられた時以来、事あるごとにこういった細かな嫌がらせから、下手をすれば命を落としかねない妨害工作に至るまで、様々な権謀術数で苦しめられ続けていた。
そんなマテウスにとってこの程度の悪態は、最早欠伸交じりに聞き流していい些事であった。
対してヘルムート側からすれば、マテウスの待遇を巡って、彼と冷戦状態にあった腹違いの兄セドリックに認められていた事も、馬丁上がりの癖に騎士を名乗っていた事も、密かに下心を抱いていたゼノヴィアと親しくしている姿も、彼女と結婚して、オーウェンの家名を預けられようとしていた事も……マテウスという存在全てが嫌悪の理由であり、視界に映るだけで憎悪の煮え立つ対象であった。
その為、最後にヘルムートが多忙だと口にした事に引っ掛かりを覚えた以外には、罵詈雑言の全てをすっぱり忘却の彼方に投げ捨てて、軽い足取りのマテウスとは対照的に、あれだけの嫌味を並べておきながら、未だに言葉が足りず、生産性のない悪態を並べ続けながら歩くヘルムートという図式が出来あがる。
「死んでおけば良かったものを……しぶといムシケラめっ」
そうして肩を怒らせながら歩いていたヘルムートであったが、目的の部屋の前に立つ護衛が視界に映った瞬間から、その怒りを鎮めてみせた。そして、護衛に案内されて入室する時には、外交用の表情へと切り替えてみせる辺り、武勇ではなく政治でこの地位まで駆け上がった者の片鱗を伺わせる。
「お待たせした、ヨーゼフ猊下」
「……そこに掛けるといい。オーウェン公」
右手に持った用紙に視線を落としたまま、ヘルムートを見ようともせずに、無作法に自身の向かいの椅子を勧めるヨーゼフ・クラウゼン枢機卿の姿に不満を抱くものの、権威的には対等ともいえる彼を相手取って、小さな事で関係を悪化させるワケにもいかず、言葉を飲み込みながら腰を下ろすヘルムート。
「それで? そちらでは確認出来たのか?」
「……突然、なんの事だ?」
「ニュートン博士の件だ。異端者隔離居住区、重犯罪者収容所からの定時連絡が途絶えた事を聞いているのだろう?」
「異端者隔離居住区の警備管理はそちらの領分の筈だ。施設管理をしている商会が集める情報を、ゾフ伯を通してしか得られん私が、どうして知っていると?」
「そういう駆け引きは好かん。ここの異端者隔離居住区でなにが行われているかぐらい、私も理解している。貴方の事だ。念の為に草(スパイの事)の1つや2つ、潜ませているのだろう?」
「……ニュートンの収容施設に、襲撃の痕が残っていたそうだ。遺体の中にそれらしい死体も見つけたそうだが、確認し終える前にテルム川が氾濫を起こしたらしい」
「…………」
質問するだけしておいて、左手の指先を動かしながら虚空を見詰めるヨーゼフ。沈黙にヘルムートが痺れを切らす前に、彼の方から口を開く。
「技術交流会で、講演の予定だったな」
「確かに2日目に彼の講演が予定されていたが、殺されてしまっては、どうしようもない。予定の変更を……」
「予定の変更は進めてくれれば良いが、他にもやって欲しい事がある。私の方で治安局に呼び掛けて検問を敷かせるとして、貴方はこの街全ての商会自警団を使って、捜索を行うよう指示を出してくれたまえ」
「待て……ヨーゼフ猊下、まさか貴殿はまだニュートンが死んでいないとお考えか?」
「その通りだ、オーウェン公。それも、これは以前から練られていたものだよ」
自身が右手に持つ用紙の束の中から2枚を選び、テーブルの上を滑らせてヘルムートの前へと寄こす。それは一見、なんの変哲もないやり取りの手紙であった。
「これは?」
「ニュートン博士宛ての手紙の1通目。貴方が読んでいるのは、我々がニュートン博士を捕らえたばかりの……丁度、N&P社が献金不正が発覚した頃の物だ」
「……開発業務に関する後処理や、連絡をしているだけの手紙に見えるが、そもそもこれを書いた相手は誰なのだ?」
「オイゲンという名の男だ。製図などの作成で、ニュートン博士のアウトプットをサポートしていたようだ」
「オイゲン……では、こちらの手紙は?」
「直近、3日前にオイゲンより、ニュートン博士宛てに送られた最後の手紙だ」
「……他愛のない、日常の雑談に見えるが、これがどうかしたのか?」
「それらは書記官が原文を書き写した物でな……これが、押収しておいたその原文になる」
ヨーゼフから追加で渡された手紙に視線を落とすヘルムート。勿論、書き記された手紙の内容は全く同じだったが、2枚の手紙の筆跡に大きな違いがある事が分かる。1通目の手紙が角ばった文字なのに対して、最後の手紙の文字は線が細く、やや輪郭の小さな文字になっているのである。
「手紙を送った者が違う、という事か」
「先程、他愛のない日常の雑談と貴方は口にしたが、ここ最近……先月前後からの手紙のやり取りの全てが、そのオイゲンと名乗る別の男との、中身のないやり取りにすり替わっている」
「先月……」
「理力付与技術研究所アンバルシア支部」
「あの事件……そうかっ、オイゲン。確か、あのテロの首謀者の名前っ。行方不明だと聞いていたが、まさか本当に本人なのか?」
「その正誤よりも、この手紙だ。おかしいと思わないか? 検閲する書記官はいい。毎回同じ書記官が検閲する訳でもないから、凡人なら気付かない事もあろう。だがな……ずっと、やり取りを続けていたニュートン博士が、この変化に気付かぬ訳があるまい?」
相手が自分の知るオイゲンでないと知りながら、ニュートンはやり取りを続けていた。その意味を考えた時、遅ればせながら1つの可能性に気付き、ヘルムートはもう1度最後の手紙の内容へと、注意深く視線を落とす。




