満ち溢れし賊心その4
―――ほぼ同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、上級市民街、アレッサンドロ劇場
フィオナとアイリーンが貴賓席で話し込む少し以前の事。マテウスは舞台をジッと眺めながら、時間を持て余していた。
隣に座るシンディーが目を輝かせながら、舞台を夢中になっているのを見習って、何度か話の内容へ興味を向けようとするのだが、どうにも彼は護衛という職務中に、娯楽に興じるという行為が苦手なようで、話の内容よりも、会場の気配や、舞台上の人間の立ち振る舞いに、意識が割かれてしまうのだ。
(この会場内の警備で、滅多な事が起こる筈はないんだがな)
人間である以上、気を張り詰めたままでいるのにも、限界がある。今はもう少し気を抜いていい場面だと身体を切り替えさせる為に、マテウスが深く息を吸い込もうとした時、会場中に役者とは別の怒号が響き渡る。
「ハムがいいって言ったんだよっ! 僕はチーズが嫌いなんだっ。なんでそんな事も知らないんだっ!」
何処からともなく聞こえた少年と思わしき甲高い金切り声に、会場が一瞬静まり返った後、その反動とばかりにざわつき始める。舞台に上る役者達も、余り経験のない出来事に、戸惑いながら声のした貴賓席の方向を見上げていた。
「折角良い所だったのに……台無しじゃないですかっ」
本来ならシンディーのこの発言も、舞台中でのマナー違反になるのだろうが、現状は会場全体がざわついたままなので、その限りではない。
「リチャード……おぉリチャード。森のざわめきに臆してどうする? この足を動かして進まなければ、姫の下に辿り着けはしないのだぞ?」
舞台上のマーティン・コールズが、自らの役名を鼓舞するように繰り返し……必要以上に声を張りながら、自らの胸を鷲掴む。恐らく即興であろう彼の演技に、他の役者達も淀みなく応じていった。
そんな姿に会場全体のざわつきが次第に収まっていき、再び物語に引き込まれていく光景を眺めながら、マテウスは感心していたのだが、急に自身の首元が振動し、更には明滅し始めて意表を突かれる。
振動の正体は、赤鳳騎士団の制服に常備するようにしている、通信石に代表される、カフスボタン状の理力付与道具だ。それが振動と明滅を繰り返しているという事は、誰かからの通信を意味するのだが、その内容が想像出来ない。
こんな時に一体誰が……そんな想いを抱き、なるべく体を小さくしながら退席するマテウス。シンディーの疑問に満ちた眼差しや、後ろの席に座る妙齢の貴婦人が向ける、非難交じりの視線を掻い潜るようにしながら会場を後にして、ホール付近まで戻ってから理力解放をして、通信を開始する。
「遅いっ。壊れてるのかと思って心配したじゃん」
「その声、ヴィヴィアナか? こっちは今が舞台の最中だと伝えていただろう? このタイミングで、通信は使って欲しくなかったんだがな」
「あぁ、そうだったね。でも、どうしても伝えないといけない事が出来てさ……」
ヴィヴィアナにしては随分殊勝な態度と歯切れの悪い切り出しから、その内容がろくでもない物であろう事が容易に予想が着いたマテウスは、自然と声が重くなっていく。
「いい知らせ……では、なさそうだな。なにがあったんだ?」
「それがさ、昼間に私達3人で異端者隔離居住区に行ってみようって事になってさ、それで今、来てるんだけど……」
「異端者隔離居住区? まさか、跳ね橋が上がっていて、帰れなくなったのか?」
「えっ? まぁ……そういう事になるんだけど、良く分かったね」
「良く分かったねって……街中に響くぐらいの警鐘が鳴らされていたのを、君も聞いたんだろう? どうしてそのタイミングでそこを離れなかったんだ? 大体、なんだってこの時期に異端者隔離居住区になんか……」
「いや、その時は真下にいたから、それには気づいていたんだけどさ。急に鳴らされても、なんの鐘の音かなんてわかる訳ないじゃんっ。一緒にいたエステルやレスリーだって……」
そこまで口にしかけて、レスリーの様子が変だった事をヴィヴィアナは思い出す。彼女が跳ね橋付近まで増水した川の光景や、激しく往来する人々……そして、行商目的の者の多くが、異端者隔離居住区の外へと向かって慌ただしく移動していた様を、観察していた事を。
(もしかして、あの娘。こうなるって分かっていた?)
レスリーが自身になにかを告げようとしていた事を思い出し、場合が場合だったとはいえ、どうして最後まで聞こうとしてやれなかったと、ヴィヴィアナは激しく悔やむ。
「どうした? なにかあったのか?」
「……なんでもない」
「確かに、君の言い分も一理ある。実際、俺もこの街に詳しい者に聞かなければ、鐘の意味を知らなかったからな。そこは今更言っても仕方がない。それよりも、そこから出るのには、どれくらいかかりそうなんだ?」
「それを警備担当者に聞いたんだけど、今日中は無理だって。それこそ、この雨が止まなくて増水したままだったら、明日も明後日も無理って言われて……」
「それは厄介だな。だが、こういうのは他にも連絡用の手段が用意されているもんじゃないのか?」
「ある事にはあるらしいんだけど、それには教会の許可証か、領主特権(女王特権の領主版。女王特権はエウレシア王国全土での権限を保証するものだが、エウレシア領以外の場所では、領主特権の方が優先される場合が多い。ただし、当然別の領内ではなんの権限も持ち得ない)が必要だって言われて……もうこっちじゃ八方塞がりって感じ」
読んで字の如く、異端者を隔離しておく地域である為に、異端者隔離居住区の管理には教会が大きく関与している。そしてまた、バルアーノ領内で管理している事もあって、異端者隔離居住区に関しては領主にも教会同等の管理権限が許諾されているのだ。
マテウスは今後の方針を頭の中に思い描き、その億劫さに頭痛を覚えて、額に手を当てながら重苦しい溜め息を落とす。
「はぁ……事情は分かった。教会か、シスモンド伯か……どちらにも当てがあるから、こちらでなんとかしてみよう」
「んっ、お願い」
「ただし、今回の件。君達全員にしっかり反省してもらうからな」
「うっ……でもそれは、こんな事になるなんて思ってもなくて……」
「君達の役目はなんだ? もし、これが原因で、アイリーンの身に取り返しが着かない事が起こったとしても、そう口にするつもりなのか? 俺が待機を重要な任務だとエステルに伝えたのは、君も聞いていたよな?」
王族の血を引く者の護衛……自由時間を与えた事が原因で、この最優先事項が疎かになるのであれば、全ての自由時間を剥奪し、その身を捧げろと宣言すればいい。
だがマテウスは、失敗の弱味に付け込むかのような脅迫めいた対策を、先を見通す気もない思考停止した解答を、愚かだと考えていた。そしてそれ以上に……
「それに、もし君達の不在が原因でアイリーンになにかが起こった時、その責任を一番重く受け止めてしまうのも、恐らく君達だ。だから、なにも起こらなかった今回にこそ、今後どうするかを君たち自身で、心に決めておくといい」
「……分かった。それじゃ、もう切るから」
「あぁ、待て。もう1つ伝えておく事があった」
「まだ、なんかあるの?」
ヴィヴィアナの少しうんざりとした声を、会話の内容が内容なだけに、仕方がない事だと聞き流すマテウス。
「この街にハンク・パーソンズが潜んでいるらしいという情報を得た。信用していい情報筋だ。なるべく、単独行動は控えるように……」
「待って。ハンクって誰よ?」
「覚えてないか? 俺達を襲撃してきた首謀者とされた男だよ。君達には一応似顔絵を見せた筈だが……」
「あぁ、あのアンタが描いたっていう異様に上手い似顔絵ね。ちょっと驚いたから覚えてる……あっ、そうかっ。それでレスリーがあんな事を……待って。これ、囲まれてる」
ヴィヴィアナの声に緊張感が増す。暗がりから、彼女の周囲を囲うようにして近づいてくる人影の数を見定めるように、彼女の眼光に力がこもった。
「とりあえず切るから」
「おい、大丈夫なのか?」
「そんなのやってみなきゃ分からないでしょ? えぇっと、それより……その……」
「なんだ?」
「……こんな事になって、迷惑かけてるよね。だから、その……本当にごめんなさい……それだけっ、それじゃあねっ」
「おいっ、ヴィヴィアナッ……糞っ」
一方的に通信が切られて、思わず悪態を零すマテウス。再び自身から通信を試みても良かったが、あの様子ではヴィヴィアナに受信しようという気はないだろう。
そしてそれ以上に、彼女が口にした、囲まれてる、という物騒な単語の方が、マテウスにとっては気掛かりだった。まさかこのタイミングでハンク・パーソンズの手下が現れて……なんて筋書きは流石に出来過ぎだが、当然、楽観視出来るほど悠長な状況でもない。
(急がないとな。なんにせよ、アイリに一言告げてからか……)
誰一人として姿の見えない静かな通路に、マテウスの重く、早い足音が刻まれていった。




