満ち溢れし賊心その3
「フィオナは……私の騎士をやめちゃうの?」
「そりゃあ、いつまでもこのままっていうのは、流石に難しいんちゃうんかな? ウチ、エステルちゃんみたく騎士に思い入れがある訳でもないし、パメラちゃんみたく強いわけでもあらへんし……って、そんな顔せんといてよ」
フィオナは指を折りながら、自らが騎士に向かない理由を上げていき、その最中にアイリーンの顔へ、ふと視線を上げた。彼女は悲しみと寂しさを均等に混ぜ合わせたような表情を浮かべて、縋るようにフィオナのドレスの裾を摘まむ。
まるで幼子が親に対してするような弱々しい仕草に、フィオナは彼女の事を子供だと評したマテウスの正しさを、改めて確認させられているようだった。
「安心しとき。いつか……の話やからね? お母様は当然早ければ早いほどええみたいな事いうけど、そもそもウチはいつか結婚するんにしても、お見合いやのーて、運命の出会いから~とか、燃えるような恋をしてから~とかしてからにしたいねんっ」
「ふふっ……なんかフィオナらしいね、そういうの」
「アイリちゃんはないん? そういうの」
「私? 私は、マテウスとの出会いが運命かな。本当はね? すっごく失礼で、乱暴で、今まで見た事もない酷い人だなっていうのが、最初の印象だったんだけど……でも、少しの間だけど一緒に闘って、それまで生きてきた中で一番ドキドキして……もしかしたら、この人が一緒にいてくれれば、今を変える事が出来るかもって思えたの。そこから騎士団の皆とも出会えて、本当に良かったって思ってる」
「あぁ~……そういえばその話、詳しく聞いたことなかったし、ちょっと聞きたいかも。でも確かに……ウチもマテウスはんの最初は、そんな感じやったなぁ」
「でも、最近のマテウスってなんか優しいよねっ?」
「えぇ~? それは、アイリちゃんだけにちゃうんかな? アイリちゃんがおらん時の訓練内容とか、正直えげつないで? この間なんか60kg近い人形担がされて、半日ぐらいずっと走りっぱなしとかあってん」
「そうなの? 毎回、いつもと一緒の訓練がしたいってマテウスには言ってるのに……もうっ。今度、怒っとかないとだね?」
2人で顔を見合わせて小さく笑いあった後、舞台に視線を向けながら、再びフィオナの話に耳を傾けるアイリーン。それは、彼女が母ダリアに連れられて挨拶を終えた、婚約者候補達の話だ。
といっても舞台の最中である為、ゾフ商会主力商品の1つであるバルアーノ領産のヴィンテージ赤ワイン。そして、甘口で豊潤なコクと香りが特徴のバルアーノ産赤ワインに合わせた、新鮮なチーズのスライスを給仕するついでに、フィオナの顔と名前を覚えて貰えれば……程度の顔見せである。
ただの独身男性達を自らの婚約者候補と口にするのに抵抗があるのか、フィオナは両頬の熱を気にして、少し恥ずかし気に首後ろに手を回していたが、その男達の名前の中に、アイリーンは自身とも因縁深い名前を耳にして、思わず口を挟む。
「フィリップ……この会場に来ているんだね」
「せやで。オーウェン公と一緒にいらしてん。そういえば、アイリちゃんからすれば、血の繋がった弟やもんね……もしかして、仲悪いん?」
「いいえ。フィリップとは会ったことないの。それこそ、私が覚えていないほど以前、彼がオーウェン公に引き取られる以前であれば、顔を合わせた事ぐらいならあったのかもしれないけれど……」
「そんな昔の事、覚えとる訳ないか。成程なぁ……姉弟で全く似てないんは、そういう理由があったんかなぁ」
そんな語り口から、フィリップが控える貴賓席へ入室した時の話を始めるフィオナ。彼女が見たフィリップは、今年で11歳を迎えるという割には、平均的なその年齢の男より遥かに身長が低く、痩躯な少年であった。日焼けなどとは無縁な白い肌だけは、アイリーンと似ていると言えなくもないが、それは彼女のような肌の美しさというよりも、彼の不健康さを想起させるような、病的な青白さであった。
オーウェン公に倣ったように綺麗に左右に分けた薄暗い茶髪。更にその両端を撫でつけている為、やや薄い印象を与える髪型や、それと同色の瞳の色をした濁った細目。その目で警戒心むき出しにしながら、フィオナとダリアを交互に睨みつける間、ずっと左手の爪を噛みしめる様子は、臆病で神経質な小動物のようで、とてもアイリーンと同じ、王家の血を引いた者の姿には見えなかった。
そんな動揺はひた隠しにして、オーウェン公と挨拶を交わしている最中、それまでずっと爪を噛みしめるばかりで、なにも喋らなかったフィリップが、目の前にチーズが運ばれてきた瞬間に、急に口を開いた。
「ハムがいい」
「……えっ?」
フィリップの声を上手く聞き取れなかった給仕係が、思わず聞き返したその態度が気に入らなかったのか、彼は急に鼻息を荒くし始める。
「ハムがいいって言ったんだよっ! 僕はチーズが嫌いなんだっ。なんでそんな事も知らないんだっ!」
周囲の迷惑など顧みない大声に、舞台の進行が止まり、会場が凍り付く。その上で彼はチーズを乗せた皿を掴んで、給仕の顔面目掛けて加減なく投げつける暴挙にまで及んだ。
「そこまでにしておきなさい、フィリップ。お前の言う通り、ハムを用意させよう……出来るな? ゾフ夫人」
「はい、すぐにご用意させます」
ダリアの答えにも、それが当たり前だとばかりに、鼻を鳴らすだけの不遜な態度で応じるフィリップ。彼の思い通りに事が運んだというのに、まだ怒りが収まらないのか、自らの足置きを思いっきり蹴り上げる。
「ごぉ……ぉおぇっ……」
フィオナが足置きだと思っていた物から声が漏れる。驚きで後ずさりした彼女が、もう1度足置きだと思っていた物を注意深く見つめると、それが半裸のベルモスクの少女だと分かった。酷くしゃがれた呻き声は、喉を潰されているからだろう。体中が深い傷や痣だらけで、普段からどんな扱いを受けているか、容易に想像が出来た。
「叔父様。僕、舞台飽きたから、別の部屋で遊んでくるよ」
「いいだろう。好きにしなさい」
「それでさ……これ、貰っていいでしょう? 古い方はそろそろ限界だしさ」
左手の爪を噛みながら、嗜虐的な色合いに光らせた瞳が映すのは、顔に皿を投げつけられた痛みから、未だに立ち上がれずにいる給仕だ。
それに対してオーウェン公は、またか……と少し呆れた顔を見せただけで、困った奴だと、静かに答えた。
「ほら、来いよ。お前は今日から僕の物だ」
「そ……そんなっ。お、奥様っ……どうか、奥様っ!」
心から懇願するかのような給仕の声は、ダリアには届かなかった。目を合わせようともしない態度は、それなりの罪悪感があるからだろうか。フィオナも給仕の視線を避けるようにして、体を縮こまらせる。
「モタモタするなよ。まずは無駄な口答えをしないように、喉からだ。ひひっ……」
フィリップを先頭に、給仕を抱えた衛士達、そして彼に足置きに使われたベルモスクの女が、覚束ない足取りで立ち上がり、生気のない眼差しのまま、その後に続いていく。
「代わりの給仕は私の方から送らせよう、話の続きは今日の晩餐の時にでも、また改めて」
話はそれで終わり……そんな表情で赤ワインを流し込みながら、視線を舞台へと向けるオーウェン公に、2人は引き下がる事しか出来なかった。
「余り良い噂は聞いていなかったけど……本当に評判通り、なのね」
フィオナの話が一区切り着いたのを見計らって、アイリーンが感想を漏らす。会った事もない人物とはいえ、実の弟の人格が酷くねじ曲がっている事を聞いて、心穏やかとはいかなかった。
「あの様子だと、ウチの事なんか全然気にしてなかったみたいやから、ホンマの所、少しホッとしてんねん。それに……」
それに? と、首を傾げるアイリーンを見て、心が洗われたような想いに浸るフィオナ。自然と彼女に笑みが零れる。
「アイリちゃんが、あの子に似てなくてホンマ良かったぁ~って、思ってん」
「そう……だね」
彼女の笑顔を受け止めながら、アイリーンは逆に表情を曇らせた。もし、育った環境が違えば、自らもそうなっていたのかもしれない……そんな不安を紛らわせるように、自らの左手首をギュッと力強く握りしめて、体の内を流れていく血液に視線を落とすのだった。