満ち溢れし賊心その1
―――同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、上級市民街、アレッサンドロ劇場
「おぉっ、友よっ! 私が背中を預ける事が出来るのは、君の他いない。この言葉だけは、疑わないでくれっ」
友よ、私が背中を預けるべくは君の他なし。この言葉だけが真実なり……そんな原文の一説を、壇上の中央から劇場中に響き渡る声で……その上に、主人公騎士の心情を形にするかのように、シットリとした演技を披露するマーティン・コールズ。
王の謀略によって、信頼していた友人達との仲を切り離された主人公が、友人達の中でも最も頼りにしていた親友に対して、竜討伐に赴く前に告げた言葉だ。
竜は、この世界に置いても今では幻獣に近い存在だが、こちらの世界とは違い、実際に存在している生物であり、種族を分類するなら竜型の異形となる。
まだ、ベルモスクの国が存在していた当時には、彼等によって現神として崇拝され、共存もしていたのだが、戦争の際に討伐され続けて数を減らし、今日の大衆には地震や津波のような、稀に訪れる災害として認識されている。
突然、空から黒い雪と共に姿を現し、口から全てを燃やす獄炎をまき散らしながら、その巨体であるゆるものを踏み潰し、硬い鱗で覆われた表皮は理力解放による攻撃の悉くを弾き返し、咆哮は全ての理力付与を無効化する……まさに人類の天敵であり、災害級の被害をもたらす異形だ。
つまり、竜討伐とはそのまま死地に赴くのと同義であり、マーティン・コールズが演じる主人公騎士は、それに1人で挑む覚悟を決めながら、親友に別れの言葉として、先の言葉を贈ったのである。
この後、主人公騎士は、あらゆる邪を打ち払い、竜の業火にも耐えうる体を持つ、竜人の魔女と呼ばれる者の導きの下、竜と対峙するのだが、当然1人では太刀打ち出来ずにいた。彼が1人で苦境に立たされたその時、彼の言葉に動かされた親友が、友人達と共に一斉に駆けつけるのである。
主人公騎士の言葉にハッと立ち止まり、それでも振り返らずに彼を残して舞台裾に姿を消していく親友。そしてそれを見送った後、反対側の裾へと消えていく主人公騎士。
アイリーンはこのシーンがお気に入りだった。友人達が一斉に姿を現すクライマックスのシーンも当然好きだったが、それ以上に去り行く友人の背中を黙って見送るこのシーンの方が、見返りを求めない友情を表現しているようで、彼女は好きだった。
エイブラム劇場でも、何度か見てきたマーティン・コールズの後ろ姿に、いつものように大丈夫だよ、きっと貴方の気持ちは伝わっているよ、と、心の内で励ましの言葉をかける。
そんな舞台に夢中になっているアイリーンの隣に、静かに腰掛ける人影。舞台に集中していた為、その気配に直前まで気づかなかったアイリーンは、少し飛び跳ねるようにして振り返り、隣に腰掛けた者の顔を覗き込む。
「ただいま」
「……おかえり、フィオナ。急に座るからびっくりしちゃった」
アイリーンの言葉に、小さくごめんな、と答えて薄い微笑みを湛えるフィオナ。アイリーンはその微笑みの中に、若干の疲れが混じっているのに気づいて首を傾げる。
「なにかあったの?」
「あぁ~……なんでもないんよ、気にせんといて」
アイリーンの問いかけに、再び同じような微笑みを作って誤魔化そうとするフィオナ。これ以上問い詰めるのは少し憚られたが、それで少しの勇気を出して、アイリーンはフィオナの膝の上に乗る彼女の手に自身の手を重ねて、身を寄せながらもう一度小さく耳打ちする。
「私はフィオナの味方、だからね?」
顔を間近まで寄せながら、囁くような声でそんな事を告げて来るので、フィオナは気恥ずかしくなって少し離れようとするが、強く繋がれたアイリーンの手がそれを許さない。
フィオナを見つめるアイリーンは真剣そのもので、それに気づいたフィオナは疲れよりも気恥ずかしさが勝った苦笑いを浮かべた。
「アイリちゃん、もしかしてマテウスはんにも同じような事してないやろうね?」
「えっ? ……どうかな。あんまり意識した事ないわ。それに、私達のお喋りで舞台の邪魔はしたくないし」
「それは、マテウスはんも大変そうやね」
「もうっ、なんでマテウスの話になっちゃうのよっ」
話を誤魔化されたように感じたアイリーンは、顔を膨らまして怒りを表す。それがちっとも怒っているように見えないので、フィオナは小さく声を漏らしながら笑った。
「せやね。隠してていても仕方ないし、アイリちゃんに聞いてもらおうかな」
そう前置きしてフィオナが語り始めたのは、アイリーンに少しだけ席を外すと告げて、別れていた間での出来事だ。アイリーンと別れた直後、フィオナは個室へと場所を移し、彼女の父親であるシスモンド・ゾフ伯爵との久しぶりの再会を喜び合っていた。
「フィオナ、よう帰ってきてくれたなぁ。少し見ん間に、えろう可愛らしなってからに。父さん、嬉しいでぇ」
「あ、ありがとうな。お父さん……でも、そんなきつく抱きしめられると、苦しいわっ」
シスモンドの丸い体を使った、相手を圧し潰してしまいそうな力強い抱擁に、息苦しさのあまり両手を使って押し退けて、なんとか空気を吸い込んで落ち着きを取り戻すフィオナ。
「それに、レディーの髪に気軽に触れたらアカンよっ。ウチがどれだけ時間かけて、セットしたと思っとん?」
「おぉ、すまんね。久しぶりにフィオナに会えて、父さん嬉しゅうなってしもうてなぁ。堪忍してぇな」
「しゃあないなぁ。許したる代わりに、マーティン・コールズのサイン貰うて来てや。それで許したるよ?」
「そんなんでええんか? 貰うて来たる、貰うて来たる。父さんに任せときっ」
父親の反応に、これはまだまだ引き出せそうだなと気づいたフィオナは、更になにか吹っ掛けようとするが、それを遮るように告げられた冷たい声に、反射的に身を竦める。
「おやめなさいっ、はしたないっ!」
金切り声に近い、高く耳障りな女の声にフィオナとシスモンドが振り返る。そこに立っていたのは、少し目の離れた魚顔の女で、キツメの性格を表すような鋭い釣り目を更に吊り上げた鬼のような形相を浮かべ、スカートを引きずりながらも、それに慣れた優雅な足取りで近づいてくる。
「王都に送り出して、王女殿下にお仕えすれば、少しはその田舎臭い言動が治るかと思いましたが……貴方も貴方です。まさか来賓の方々にそんな対応をされている訳ではないでしょうね? ゾフ家の名を辱めるような行為、私が目の黒い内は許しませんっ」
「……申し訳、ありません。お母様」
フィオナから父親の前で見せていた自然体の姿は掻き消えていた。そして完全に萎縮しきった声色のままで、自らの母親ダリア・ゾフへと、ドレスの両端を掲げながら、深々と一礼してみせた。