賽の行方のみぞ知るその3
結果は伝えるまでもないかもしれないが、その数十分後にはエステルの暴食の前に、ラウロの財布は完全敗北を喫していた。その上で、積み上げられた皿の数を数えろと言わんばかりに犇めく、食器の巨塔の合間から除くエステルの顔は、まだ物足りないといった具合であった。
「こんなものかな。余り食べ過ぎて動けなくなっても困るからな……」
「いいね、エステル。その台詞を俺、ずっと待ってたかんね? まぁ待ちすぎて、今となっちゃあ全てが手遅れなんだけどよ」
空になった財布をパタパタと振るラウロの顔色は悪い。明日からどうすんだよこれ……と、小さく漏らす彼を見て、ヴィヴィアナはいい気味だと鼻で笑い飛ばし、そういったやり取りが面白かったのか、レスリーまでも口元を片手で隠しながら小さく笑った。
「素敵な笑い方をするね。財布を空にした甲斐が少しはあって、良かったぜ。君も遠慮しなくて良かったのに」
レスリーの些細な表情の変化を見逃さず、彼自身も微笑みを返しながらそう告げるが、そんな言葉を投げ掛けられるのが初めてのレスリーにとっては、どう返していいか分からず、気まずそうに視線を逸らす。
「いいのよ。私達、午前中に結構買い食いしてるから別にお腹は減ってないしね。ちょっと休みたかっただけ」
「いや、だって……えぇ?」
ヴィヴィアナの淡白な発言に、エステルの積み上げた食器とヴィヴィアナとを何度も見比べて、困惑した表情を浮かべるラウロ。
「という訳で、もういいでしょ? ろくに会話なんて出来てないけど、もう食べ終わったし帰ってもいいよね?」
「えっ? そりゃあねぇーって。こんだけ食ったんだから、俺ばっかりじゃなく、もう少しレスリーちゃんの話を聞かせて欲しいんだけどっ」
ラウロの口にした通り、レスリーが重く口を閉ざしたまま自身の事を語ろうとしないので、口を開いていたのは主に彼だけであった。
彼女達が、食事を進める際のBGM程度に聞き流していた情報をまとめると、彼の名前はラウロで、ここ異端者隔離居住区に居を構える、今年で28の男らしい。若作りの顔立ちと、落ち着きのない様子から、とても28は見えないので、それだけは印象に残ったのだが、後の情報は右から左……少なくともヴィヴィアナは、記憶に留めてもいない。
「アンタが勝手にくっだらない自分語り始めたからでしょ? レスリーももう十分だよね? そろそろ帰ろうよ。オジサンだって心配してるかもだし」
レスリーはまだ少しなにかを言いたげだったのだが、ヴィヴィアナの最後の一言により、意識はマテウスの事へと移り変わったようだった。勿論、ヴィヴィアナ本人はマテウスなど知った事ではないのだが、レスリーを誘導するには彼の名前を出すのが1番だと、よく知っていたのである。
そして、ヴィヴィアナはもとより、エステルとレスリーまでも同時に腰を上げるのを見て、焦ったのはラウロだ。
「ならせめて、俺も一緒に見送りさせてくれよ。ほら、ここら辺って昼夜問わずに治安良くないじゃん? もう泊まるところとか決めちゃってんだろうし、そこまででもいいから俺に守らせてくれないかっ?」
「アンタなんかに守ってもらう必要ないっての……でもまぁ、宿泊先まではお断りだけど、異端者隔離居住区の出口までなら、好きにすればいいんじゃない?」
「なんだ? ヴィヴィちゃん達……」「はぁっ? ヴィ・ヴィ・ア・ナさんでしょ?」
「あぁー……その、ヴィヴィアナさん達の宿泊先は異端者隔離居住区の外にあるのか?」
「そうだけど……それがなに?」
「今、跳ね橋が使えねぇから、ここから出るのは無理じゃねぇかな?」
「……それ、本当?」
「本当だってっ。この店に入る前に、ヴィヴィアナさん達だって鐘の音が聞こえてたろ? あの鳴らし方は緊急時の跳ね橋が通行不可になる前の警鐘だった筈だから、今頃橋は上がってる筈だよ」
ヴィヴィアナはラウロに向けていた疑いの眼差しそのまま、意見を求めるように食後の一服にホットミルクをチビチビと舐めていたエステルへと向ける。
「嘘を吐いているようには見えないが……確認した方が早そうだ」
「そうね。私、ちょっと行ってくる」
「皆で行けば良いではないか。少し待ってくれないか?」
「そうだって。雨が強くなってきてるし、ここの中は治安が悪いって言っただろ? 俺もついて行くからさ」
「アンタの力なんか借りないから、少し黙ってて。1人で走って確認してきた方が早いだろうし、そんなに距離があるわけじゃないから、平気よ。レスリーの事、よろしく。レスリーも、コイツに変な事されないように気を付けてね?」
「えっ……その、はいっ。ヴィヴィ様もっ、お……お気をつけて」
「はいって……いやいや、そんな事しねーから」
ヴィヴィアナは慌ただしく合羽に着替えると、足早に店を出ていった。それと入れ違いにアーシアと呼ばれていた女店員が、エステルが積み上げた食器類を下げに来る。
「お連れさんはどうしたの?」
ベルモスク人特有の褐色と、ベッタリとした色合いの黒髪。背中まで伸びた長髪を後ろ背で一つで結び、その女性らしい身体つきを、長袖の襤褸とロングスカートで極力隠している、優し気でおっとりとした雰囲気の女店員だ。
「それがよ、アーシアさん。聞いてくれるか? 俺が跳ね橋が上がってるって教えたのに、全然信用してくんなくてさ。1人で確認してくるっつって、出てっちゃったのよ」
「まぁ。こんな時間に雨の中を女性1人だなんて……本当に大丈夫なの?」
「俺が着いて行っても良かったんだけど、ヴィヴィアナさんは絶対断るだろうしなぁ」
「そう心配されずとも、ヴィヴィ殿は強い。生半可な野盗程度なら容易く退ける。ただ少し、焦っている様子ではあったな。異端者隔離居住区に来ようと言い出したのはヴィヴィ殿だから、恐らく責任を感じているのであろう……そんな事、気にする必要ないのだが」
見た目は幼女そのもののようなエステルが、妙に落ち着き払ってそう語る姿は、子供が精一杯背伸びをしているようにしか見えず、アーシアやラウロは少し微笑ましくなってしまう。
「余りにも時間がかかるようなら、私も探しに行こう。その時は入れ違いにならぬように、レスリー殿はここで待機してもらわなければならん。アーシア殿。その時は、よろしく頼む」
「いやいや、俺っ。レスリーちゃんの事なら、俺に任せてくれていいからっ」
「ふふっ。店主にそう伝えておきますね」
笑顔のまま食器を両手に乗せて歩き去っていくアーシア。そんな彼女の背中を、レスリーは視線でずっと追っていた。優し気な雰囲気と、黒髪の長髪から、母の面影を彼女に見たからだ。
「レスリーちゃんって、まさか女の子の方が好きな感じ? 」
「えっ? その……いや……そんな事は、ない……ですっ」
「良かった。俺の事、本当に興味ないのかとも思ったよ」
そうしてレスリーがラウロに視線を移した瞬間の事であった。アーシアがなにかに躓き、両手に持っていた皿の大半を落としたのだ。幸い、全ての食器が木製だったので惨事には至らなかったが、派手な音を立てて床にぶちまける。
「おいおい、しっかり運べよ」「どこに目をつけて歩いてんだ?」
浴びせられる冷たい言葉の数々。しかもそれを行っているのは、彼女と同じベルモスク人の男達だ。その光景にラウロも眉根を潜めて、なにか口を出そうとしていたが、それよりも先にエステルが彼女の元へと歩み寄り、食器を拾い集める。
「大丈夫か? アーシア殿。手を貸そう」
「ありがとう。でも、お気遣いないく」
「そして、貴様だっ。なぜこのような事を行う。あんな足の出し方をすれば、躓くのは道理。彼女のような、か弱き女性に対してなんたる仕打ちだ。恥を知れっ」
アーシアと同様に床に膝を着いて食器を拾い集め終わると同時に、すぐ傍らで酒を飲んでいた男へと突っかかるエステル。彼女は見ていたのだ。食器を両手に乗せて不安定になった彼女の足元に、目の前の男が足を延ばして躓かせた、その瞬間を。