響き渡る鐘の音その1
―――同時刻。バルアーノ領、ヴェネット、中級市民街、船着き場
ヴェネット……テルム川から引いた水を市街の中央に縦断させ、それを支流として街中に運河を張り巡らせた、水を中心とした街並みは、その通称、水の都と呼ぶに相応しい景観であった。
平常時なれば、運搬用のボートや、観光用のゴンドラなどが運河を所狭しと、しかし厳格なルールの下で行き交い、その賑やかな雰囲気がまた別の人間の興味をそそる……そうして、いつも人で賑わっている場所なのだが、何事にも例外はある。
「見りゃ分かるやろっ? こんな雨ん中、ゴンドラなんか出せるかっつーのっ。こちとら、連日の雨の所為で喰いっぱぐれてんだよっ。折角、技術交流会で観光客が増えようるっつーのによ。冷やかしでこれ以上イライラさせんなやっ」
「だから、私達が乗って上げるって言ってんじゃん? 話の通じないオジサンだね。お金だってちゃんとあるんだから、お客よ? 私達」
「アホッ。こんな時に目先の客に目がくらんで、商売道具台無しにしてまう方が間抜けやろうがっ。分かったら、とっととイネやっ。こっちも忙しいんじゃ、ボケェッ」
「はっ、バルアーノの商人根性も大した事ないねっ。そんなんじゃ、どうせ遠からず喰ってけなくなるんじゃない? とっとと潰れてろっ。バーカッ」
船着き場のゴンドラの固定を確認しに来た男と、そこに声を掛けたヴィヴィアナとの口論。最初はお互いに穏やかな口調だったのだが、どちらが先だったか、元より初対面でありながら、互いの事を疎ましく思っている心の内が透けたのか……最終的に2人は、売り言葉に買い言葉の応酬を終えた後に、互いに向けて中指を突き立て、親指を突き下して、背を向け合う。
「あっ、あのっ……その……ヴィヴィ様っ……」
「あぁ、ごめん。怖がらせちゃった? ああして偉そうにしてる男を見ると、どうもね……」
いけない事と分かっていながらも、抑制出来ない事柄がある人間は多いが、ヴィヴィアナのそれはこういう場面で発露してしまうようだ。レスリーと揃いの雨合羽のフードの位置を直しながら、反省するように自身が言い争っていた場所を振り返る。そこに、男の姿がないのを確認すると、ホッとしたような、まだなにか言い足りなかったかのような……そんな難しい表情を浮かべた。
「いえ、れっ、レスリーは気にしませんので……その、それより、こ、この後ですが……どうなさるおつもりでしょうか?」
「これだけ回って空振りだと、船は諦めた方が良さそうだよね。ほんと、どうしようかな?」
それはレスリーに代案を求めた訳ではなく、ヴィヴィアナが途方に暮れている為に自然と口から零れた言葉で、彼女は閃きを求めるように視線を彷徨わせる。そうしていると、小さな影がなにかを両手に持ちながら近づいてくるのを見つけて……それが知っている相手だと分かると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「エステル。アンタまた、なにか買ってきたの?」
「ふっふっふっ、見てくれっ、ヴィヴィ殿っ。魚肉を使ったソーセージサンドだそうだ。歯応えのある分厚い魚肉もさることながら、店主こだわりのパンらしくてなっ? モチモチとしていて、旅の間に食べていたライ麦パンとは比べ物にならない位、柔らかいぞっ!」
「なによ? グルメ評論家気取り? なんか随分、具体的な食レポ出来るようになっちゃってさ」
「これで3度目ともなればなっ。私も成長するのだっ!」
「嫌味で言ってるのに気づきなさいよっ。私、買う前に相談してって言ったよねぇ? なんでそっちに学習しちゃうかな、アンタはぁーっ!!」
「いふゃいっ。いひゃいほっ、うぃうぃろのーっ!」
店主こだわりのパンよりも、モチモチとしたエステルの頬を、力一杯上下左右へ伸ばし放題するヴィヴィアナ。その背後で、止めに入るかべきかどうか、オロオロとタイミングを伺うレスリーの存在に気付いて、ヴィヴィアナは両手を手離した。
「まぁいいんだけどさ。確かにお腹はまだ空いてたし。どうせ、私達の分も勝手に買って来ちゃったんでしょ?」
「勿論だっ。やはり、食べるのは皆と一緒の方が美味しいからなっ!」
「もう……レスリー。そこのベンチなら庇があって雨除けにもなってるし、少し休憩してこうよ」
「は、はいっ」
そうして3人が、湿気の為か、それとも他にも濡れた誰かが座った為なのか……少し湿ったベンチへ、雨合羽を着たまま腰掛けて、エステルが買って来た魚肉ソーセージサンドを頬張っていく。
「なんで雨の日に、わざわざ外で買い食いしちゃうかなぁ」
そうボヤいてしまいながらも、サンドイッチを口に運ぶ事を止められないヴィヴィアナ。その原因は、旅行中の無味乾燥とした食生活にあるのだろうと、彼女は自己分析を済ませる。
こんな雨の日には、本来ならば有名店に足を運び、一所でゆっくりと食事を楽しみたかったのに、普段は節制を心掛けているから大丈夫だろうと、エステルに財布を預けたばっかりに、雨の中でこんな買い食いを繰り返す羽目になってしまっている。
ただ、あの人当たりの良さで、買う前に試食させて貰っているのだろう。エステルが選んでくる品の全てが、ハズレなく美味しかったりするし、その上……
(レスリーはきっと、こっちの方が気楽だったりするんだろうしね)
ヴィヴィアナの左隣りに座る、フードを極端に目深に被りながら、モソモソと草食動物のような食事の進め方をするレスリーの様子を伺いながら、そんな感想を抱く。
ヴェネットは異端者隔離居住区を抱える街だ。アンバルシアよりもベルモスク人の比率が多くなっているから、それを疎ましく思う者も多い。必然的に、ベルモスク人の入店を断る店と、ベルモスク人向けの店の二極化が進むから、ヴィヴィアナ達の3人が穏やかな時間を過ごせる店というのも、限られてくるのである。
そういう意味では、雨の中での買い食いは、この異色が混じり合った3人が、他人の視線を気にしないでいい絶好のロケーションといえた。
また、気の抜けている時のレスリーの食事の仕方は、正直見せられない程に下手だ。それは幼い頃に、倉庫のように薄暗く狭い寝座に押し込められたまま、そこで毎日1食の僅かな食料を、誰の視線も感じないで、貪るような生活を続けていたからである。
マテウスが出会った当初のレスリーは、それこそフォークやナイフは勿論、スプーンの掴み方すらマトモではなかった。彼やロザリアの指導と、模倣する事が得意な彼女自身の努力もあって、すぐに見せられる程度には装う事が出来るようになったが、仲間内だけだとこうして時々ボロが出るのだ。
(でもそれって……少しは私達に気を許してくれてるって事だよね?)
ヴィヴィアナがそんな想いを抱きながらレスリーを見詰めていると、視線に気づいた彼女が、食事を中断して、急にオドオドとし始める。
「結構美味しいよね、これ」
ヴィヴィアナは笑い掛けながら、レスリーの口の端に着いていた食べカスを親指で拭い、それをそのまま自身の口の中に運んだ。レスリーはキョロキョロと視線を泳がせながら、控えめに首を縦に2、3度振ると、再びヴィヴィアナの視線から逃れるように体を小さくしながら、食事を再開した。
「そうであろう? 私がこの味を2人に伝えたくなってしまうのも、無理からぬ話だっ」
そう口にしながら、物足りなそうに自分の指先を舐める仕草を繰り返すのは、右隣りに座るエステル。その姿は、到底考えて行動しているようには見えないが、彼女には直感的に3人にとっての最良……こうすれば楽しいという方法が、分かっているのかもしれない。
「調子に乗らないの。少しは反省しなさいよ、バーカッ」
しかし、そう感じていたとしても、褒めるとすぐに増長して、暴走を始めるエステルを想ってか、それともヴィヴィアナがただ単純に素直でないだけか……彼女は笑い声混じりで、エステルを突き放すのだった。




