聖明を壅蔽せしめる事をその3
―――数時間後、夜。バルアーノ領西部、テルム川の畔
「ほえぇ~……お月さんなんか、久しぶりにじっくり見た気ぃするけど、こんな綺麗やったかなぁ~」
フィオナは1人夜空を見上げながら、溜め息交じりに声を漏らした。夕暮れ時の燃え上がるような赤い空も好きだったが、街灯や雲のような余計な邪魔の一切が入って来ない、今にも星が落ちてきそうな夜空の方が、田舎で忙しくも長閑に暮らしていた日々を思い起こさせるので、彼女は好きだった。
就寝するには耳障りになるであろう、虫達の鳴き声や蛙の合唱も、今現在1人で哨戒当番をこなしている彼女にとっては、寂しさを紛らわせるのに丁度よい塩梅だ。
「ただし、アンタは別やっ!」
突然、フィオナが振り向きざまに正面の空間を両掌で叩き付ける。彼女がその両手をゆっくりと開いて掌を覗き込むと、そこには潰された上に少しだけ血を滲ませて、蚊の死骸があった。
「あぁ~っ、吸われとるっ。嫌やなぁ、どこ刺されたんやろ?」
顔をしかめながら、身体の露出している部分のあちこちを中止するフィオナであったが、露出している部分の方が多いので、位置を特定できない。目立つ場所でなければいいなぁ、などと女の子らしい思考で1人落ち込む。
王都アンバルシアでは珍しい蚊も、エウレシア王国全体を見渡せばそう珍しい存在ではないし、地域によっては病原菌の媒体として知れ渡っている。特に、水源が豊富で温暖な気候が長い王国南西部では被害も多く、海を挟んだ諸島の漁村などでは、十分に恐れられていた。
当然、フィオナもそれを知らない訳はない。ただ、これらの事実を実際に被害を目の当たりにしていない彼女にとっては、イメージが湧かないのだろう。勿論、刺されないに越したことはないので、レモングラスの香草を使った虫よけを体に塗っていたのだが……それを嘲笑うかのように潜り抜けて来る個体もいるという事だ。
(もっかい塗り直しとこーかなぁ?)
自らの腕に顔を寄せて、クンクンと鼻を鳴らすフィオナ。レモンに似た爽やかな香りが広がり、その効力が切れていない事を確認していると、それと同時に僅かに聞こえる虫の羽音が近づいてくるのにも気付いて、ムーッとしかめっ面を浮かべる。
「そこやっ! このっ、ええ加減にしときっ!」
「なにをしてるんだ?」
急に話し掛けられて、飛び上がる程に驚きながら動きを止めて、声の方向へと振り返るフィオナ。その先では、松明を手にしたマテウスが怪訝な顔をしながら棒立ちになっていた。
「なんや、マテウスはんか……見て分からんのん? 蚊がぎょーさん寄って来てん」
「あぁ……疲れでおかしくなったのかと、少し心配したぞ」
まぁ、月夜の晩に1人鬼の形相で、あちこちに向き直りながら、両手をパチパチと合わせている姿は、マテウスがなにか呪術めいたものを感じてしまうのも無理はない。
「失礼な事言わんといてーやっ。大体マテウスはんこそ、なにしに来てん? せっかく1人で見張りしてるのに、マテウスはんが起きて来たら意味ないやん」
「いや、偶然起きて様子を見てみたら、火が消えていたからな。なにかあったのかと思ったんだ」
「あぁ……最初は着けてたんやけど、制服が乾いてるとやっぱ暑いし、虫がぎょーさん火に寄って来るし、それに……」
「それに?」
「ほら、お月さんが明かるーて、なんか夜って感じがせんやん? こっちの方が星空が綺麗やし」
両手を広げながら天を仰ぐフィオナ。満天の星空の下、満面の笑みを浮かべる彼女に釣られるようにして、マテウスも破願してしまう。
「見張りが星空に見惚れていたら駄目だろ」
「うっ……それはそーなんやけども」
「まぁいいさ。後は俺が代わるから、君は休むといい」
「えっ? もうそんな時間なん?」
「いや、まだ時間はあるが、どうせ目が覚めてしまったしな。それに、君は夕食の時から体調が余りよくなさそうだったから、少し気になっていたんだ」
「ふふっ……心配性やなぁ、マテウスはんは。ウチはだいじょーぶやよっ。お魚さんも、全部美味しいって食べたし、明日の朝の分も楽しみやんなぁ~」
マテウスが指摘した通り、久しぶりに耳にする事になった断末魔は、彼女の耳から今も離れずにいたので、少し気分が悪かったのは確かだ。今も必要以上の空元気で、普段通りの自分を演じている側面はあった。
幼い頃の彼女は、そういう日は祖父の布団に潜り込んで朝を迎える事で乗り越えていたのだが、祖父と死別し、年を重ねた今現在の彼女に、その解消法はもう使えない。
「だったらいいんだが。君の場合、こんなにも虫の鳴き声に囲まれていると、寝辛かったりもするのか?」
「ん? 田舎は大体こんな感じだし、そんな事もないけど……どーしてそう思ったん?」
「虫の鳴き声がなにを言っているか分かったりはしないのか? と、いう事だ」
「あぁ~、そういう事か。ウチがお話し出来るんは、動物さんとかだけで……虫さんとかの声は聞こえーへんのんよ。あ、あと異形とかもなに喋ってんのか、全く分からんし」
「そうなのか」
「そーなんよ。異形はともかく、もしウチが虫さんとお話し出来たら、絶対ウチの血を吸うた蚊の全員に、アンタんとこの一族郎党皆殺しにしてやるって伝えながら叩き潰してやるんに……残念やで」
「血の粛清とは、なかなか無慈悲だな」
マテウスが苦笑を浮かべる中、フィオナは自身の足元に視線を落としながら、しきりに右太もも裏辺りを気にして、指で引っ掻いていた。どうやら、その部分を蚊に狙われたらしい。
「そういえば元より君は、菜食主義……という訳ではなかったな。今日も君の言葉通り、魚を食べる事を躊躇う様子はなかったし」
「小さい頃は怖くなったりした事もあったけど……やっぱり、お肉もお魚も美味しいかんね。それに、ウチが声を聞けへんだけで、虫さんだって、異形だって、それこそお花さんだって、もしかしたらなんか話しかけてくれてるかも、しれへんやん?」
「それは、考えた事もなかったよ」
「せやね。そっちんが普通やよ。でも、ウチは元々豚さんや、鶏さんや、お馬さんと話してる事の方が多かったから……そんでな? お爺ちゃんが教えてくれてん」
その時、マテウスへと振り向きなおったフィオナの顔は、精一杯に眉間に皺を寄せて、気難しそうな雰囲気を出していた。それは、彼女の胸の内に宿る、祖父の姿だ。
「命ある内は皆、他の命にいろんな形で支えて貰って生きているんだ。その感謝を忘れさえしなければ、恨まれたりはしないとも……ってな。その頃からかなぁ? ウチが食前と食後のお祈りを始めたのは。今でも動物さんが死んでいくのを見るんは辛いけど……それでも、ごめんなさいでなくて、ありがとうなって言えるぐらいにはなったんよ? せやから、ウチはだいじょーぶやよ。見張りもしっかりしとくから、マテウスはんは寝ててだいじょーぶやでっ」
「そうか。そう、だな……いいお爺さんを持ったんだな」
喰らうは全ての生命における、必須。なればこそ、そこに感謝がなくなれば人と畜生に境はない。
フィオナの祖父ブルーノの教えは、随分と捕食する側に寄った理屈ではあったが、それでも、いずれかの形で答えを探していた幼い日のフィオナにとっては、導きの光となってくれたに違いない。当時の彼女に必要だったのは、問い掛けに対する正しさではなく、祖父の優しさだったのだ。
マテウスは以前からフィオナが戦いの最中に見せる芯の太さに気付いていたのだが、今回の彼女の話で、その理由の一端を垣間見たような気がして、感心しながら深く頷きを返すのだった。




