聖明を壅蔽せしめる事をその2
フィオナがこの能力にいつ目覚めたのかは、彼女自身にも分からなかった。それこそ、幼過ぎて記憶のない遠い昔から、動物の声が理解出来ていて、それが当然のように会話していたのだから。
そんなフィオナの異様な行動を最初に気付いたのは、彼女の母親ダリアだった。その姿を不気味に感じた母親は、実の娘を呪われた子だと呼び捨て、彼女をクレシオン教会に差し出そうとするが、1人娘であるフィオナの事を溺愛していた父親シスモンドの機転によって、父方の祖父ブルーノ・バレリーニへと預けられる事になる。
ブルーノは、自身が商会会長を務めていたバレリーニ商会が、自身の息子シスモンドとゾフ伯爵家のダリアが結婚した際に、ゾフ商会へと名を改めてからは、完全に商会の経営からは縁を断ち切り、世捨て人のように田舎で放牧を主にして生きていた、少々変わった男である。
ただ、フィオナにとっては、どこにでもいるような孫に甘い好々爺で、フィオナの能力についても受け入れてくれて、その付き合い方を教えてくれた、優しい祖父であった。そんな彼の教えに従って、祖父以外の前では、この能力の事は口にしないように生きてきたのだが……
木製のオタマでスープを掬い、口の中に運んでいくマテウスの横顔をフィオナは見詰める。ずっと口にしないようにしていた秘密を、彼とロザリアになら相談してもいいと思えたのは、何故なのかを彼女は考えていた。
フィオナにとってロザリアは、出会った瞬間から女神のような存在であった。更に、ヴィヴィアナが口にした評価や、その私生活の様子を観察した上でも、都会の淑女に憧れるフィオナにとっては、彼女のようになれたらと思わない日はないくらいの、理想の女性像がロザリアである。
その上、ロザリアはベルモスク混じりであるレスリーにも、分け隔てのない寛容な接し方をしている。呪われた子として、教会に突き出されそうになったフィオナにとって、この優しさも打ち明けたくなった、大きな要因といえた。
一方マテウスはというと……正直、フィオナの理想とは掛け離れている存在だった。田舎の農夫のような粗末な身なりに、それ以上の未開の奥地に潜んでそうな濃い顔。ロマンチックな事など一切口にしない癖に、指導の際には必要以上に事細かで口煩い。
フィオナが憧れる、身体の線の細い美男子で、まるで詩のように優雅で甘い言葉を耳元で囁いてくれる、高貴な血筋の王子様とは正反対の男に、どうして秘密を明かす気になったのだろうか?
「……なんだ? 君も味見をしたいのか?」
自身が使ったオタマにもう一度スープを掬って、フィオナへと差し出そうとするマテウス。
(はぁ~……これや。まるでウチを御飯の事しか考えてない、卑しい子供かなんかかと思うとるんかな? まぁ確かに少しお腹は減っとるけど、別にスープを味見したくて近づいた訳ちゃうのにっ。それに、自分の使ったオタマて……これやと、関節キスになってまうやんっ。ウチの事を女として意識してない証拠やろ? これ。勿論、マテウスはんに女として意識されても困るっていうか、付き合うつもりもないし……そもそも、アイリちゃんやレスリーちゃんに悪いからお断りやけども、もう少し女心ってもんを理解せーへんと……)
「ほら。少し熱いから火傷をしないようにな」
フィオナの思考を遮るように告げられたマテウスの言葉。それと同時に彼女の口元に差し出されたオタマが放つ、芳醇なスープの香りに、フィオナはあっさりと陥落して音を立てながら啜る。
「いつもの味やけど……やっぱり美味しいなぁ~。なんや余計にお腹空いてもーたやんっ」
「良かった。だが、皆が揃うまでもう少し待とう。さてと……スープはこれで完成だな。これは、火から外しておくとして、魚が来るのならもう1度火を強めて、串を用意しておくか」
フィオナの反応を確認すると、再び作業に没頭するマテウス。フィオナはその背後で、自身の行動に文字通り頭を抱えて、顔を苦悶の表情に歪めていた。
(ちゃうねんっ! 本当ならロザリア姐さんみたく、マテウスはんに忠告しながら、大人の余裕で許してあげるみたいな流れやってんっ)
「なにをしてるんだ? 頭が痛いのか?」
「なんでもあらへん。ほっといてっ」
「……そうか。少し涼しくなってきたし、ここに座って火に当たるといい」
そう告げながら、自身が腰掛けていた場所から少し横に動いて、大きめの石にフィオナが腰掛けるスペースを作る。
(はぁ~……これや。女の子を隣に座らせるのに、ハンカチの1つも用意せーへん。しかも、マテウスはんの身体が大きいから、こんな所に座ったら身体が密着して、なんや恋人みたいやんっ。ははぁ~ん? マテウスはんってエッチやから、もしかしたらこれもなんか下心があるんちゃうんか? よし、今度はそこら辺をロザリア姐さんみたいに……)
そんなフィオナの思考を掻き消すような轟音が川の方で鳴り響いた。マテウスも何事かと腰を浮かせたが、その先にエステル達3人の姿を見つけて、なにが起こったのかを知る。
「あぁ、魚を捕っているのか。もう少し、川の地形に影響を与えないように、加減と遠慮ってものを覚えて欲しい所なんだが……」
マテウスが浮かせた腰を下ろして、再び石へと腰掛けようとするが、ふと首を巡らせて背後を確認すると、フィオナが微動だにもせず川の方角を見詰めているのに気付く。その顔はいつもののんびりとした様子の彼女と反して、少し険しい。
「……声が気になるなら、馬車の中に移動していてもいいんだぞ?」
「ん? あぁ……だいじょーぶやよ。お魚さんがちょっと慣れてへんだけで、豚さんとか鶏さんなんかでは、散々聞いてたし……」
マテウスは作り笑顔を浮かべるフィオナの話の途中で、彼女の手を引いて強引に自身の隣に座らせる。
「ちょっとっ、いきなりなにするん?」
「無理をする必要はない。気分が悪くなったら、遠慮なく言え。それまでは、そこに座っているといい」
(全く……こういう時だけは、なんや察しがええんやから……)
動かずとも汗が流れ落ちて来るような昼間とは違う、涼しい風が吹き抜けていく。その上、日が落ちて気温が下がった夕暮れ時は、水を浴びて少し冷えた体のまま1人で佇むには肌寒くて、焚き火に翳した両掌と、触れ合う肩が心地よく……
「温かいな~って……ちゃうねんっ!」
「……ど、どうした急に? なんだ?」
「なんでウチ、普通に座っとんっ? ウチのロザリア姐さん作戦はどこ行ってんっ!?」
「なんの話だよ……」
急に立ち上がって、頭を両手で抱えながら喚くフィオナに対して、マテウスは若干引き気味だ。しかし、そんなマテウスの反応など知った事ではないように、フィオナは自身の流されやすさと、彼の相手をしていると、どうにも調子が狂わされる事実に、1人苦悩するのであった。