逃走への経路その5
「おい、馬車を止めろっ」
「えぇっ!? こんな所でですかい?」
「いいから止めろ。教会の信徒である私に、逆らうのか?」
「めっ、滅相もありませんっ。すぐに止めまさぁ」
馬車が止まると同時に御者台から飛び下りたアレックスは、早足で馬車の荷台に移動する。暗く埃っぽい荷台の中で、まずはシーツの下にどんな負傷者が寝ているか、確認しようとそれに手を伸ばした。
結果からいえば、シーツの下には確かに負傷者が眠っていた。随分と体格のいい男で、その全身に痛々しい傷を負い、その全てに包帯を巻いて処置が施されている。しかし、アレックスが目を奪われたのはそんな事ではない。彼の視線を掴んで離さないのは、男の肌の色だ。彼の肌は褐色……そう、ベルモスク人なのである。
教会の管理下にある理力付与技術研究所において、ベルモスク人が勤めている筈がなく、万が一、来客にベルモスク人が混じっていたとして、まだ怪我人が多く現場に残っている状態で、ベルモスク人を優先して搬送する事例など、アレックスは聞いた事がない。
「おいっ、これはどういう……っ!?」
振り返って御者の男を問い質そうとしたアレックスは、それ以上の言葉を紡げなかった。いつの間にか真後ろに接近を許していた御者の男に、正面から右胸を貫かれたからだ。それと同時に背後からも口を塞がれて、声を漏らす事すら出来なくなる。
「半端に勘がいいと、長生き出来ねぇなぁ?」
耳元で囁くように告げる、享楽の色を帯びた声音による、死の宣告。思わず視線を背後へ運ぶアレックスであったが、彼の口を覆った手が強制的に彼の顔を上へと向かせる。そうした事によって伸びきった喉へ触れる、冷たい感触。その感触の正体に気付く前に、彼の喉は真横に切り裂かれた。
御者の男と、首を刈った女、ツバキとが同時にアレックスから離れるが、既に彼には自身を支える力は残されておらず、前のめりに倒れて、荷台に血だまりを広げる。
「隅に移動させて、シーツでも被せておけ。ついでに、そこで鼾を掻いている男にもな」
「へいへい。ったく……本当に重症なのかよ? オレだって怪我人なのに、自分だけ気持ちよさそうに寝やがって。腹立つぜ……大して役に立ったワケでもねーってのによぉっ」
ツバキは御者の男の指示通り、まずはアレックスを引きずって荷台の端に寄せてシーツを掛ける。そうしてもう1人、アレックスがシーツを剥ぎ取った下にいた負傷者、マックスの巨躯を覆い隠すようにシーツを被せ直した。
「皆の意識を逸らし、将軍相手に十分な時間を稼いでくれた。そいつ等にしては上出来だろう。今は休ませてやれ。それより、もう起きて大丈夫なのか?」
「ケッ……騎士鎧を使いながらヤラレてんだから世話ねーぜ。体調はまぁまぁってトコだ。治癒系理力解放の所為か、身体がダリーし、眠ーけどよ」
「それならば、荷下ろしを手伝ってもらうぞ。この先に止めてある馬車に荷を移す」
「オイオイ、親父……勘弁してくれよ。それが死に掛けた可愛い娘に対する仕打ちか?」
「その命を拾ったのは私だろう。昔も、つい先程もな。自由に使わしてもらうさ」
「チッ……あぁ~あ。やっぱコイツ等叩き起こして手伝わせるか?」
足元でシーツ越しにも聞こえる大きな鼾を掻きながら、気持ちよさそうに眠るマックスの腹を軽く蹴り飛ばすすツバキ。マックスは一瞬、鼾を止めて腹をボリボリと掻き毟るが、すぐにまた健やかすぎる寝息を立て始める。
ツバキが元の位置に腰掛けるのを見てから、御者の男も馬車の幌を厳重に閉ざして、再び馬を走らせ始めた。そんな彼の後ろから、幌越しにツバキが話し掛ける。
「それで? 暁のなんたらってのは、皆死んだのか?」
「いや、何人か生き残ってはいるが、私達の顔を見た事もない末端や、薬の乱用で正気を失っている者ぐらいだ。回収を協力させた者や、私達の顔を知る者は、1人も生き残ってない。今回も情報が漏れる事はないだろう」
「そりゃ結構、結構」
「回収は予定通り……後は、このまま皆で逃げ果せれば、私達の勝ちだ」
「親父よぉ……そりゃあどうかな? 生きてるじゃねぇかよ、アイツが。姐さんとオレ達を徹底的に甚振ってくれた、将軍様がよぉ。あの野郎、汚ねぇ手でオレの刀に触りやがって……しかも、初めての癖に、使えてやがった。オレは使い物になるまで1年は掛かったっていうのによ。いけ好かねぇ奴だぜっ」
名前を口にする事で、マテウスにしてやられた瞬間の数々が思い起こされるのだろう。極めつけが、イマノツルギを初めて触ったというのに、ある程度使いこなして見せたマテウスの技量に対してだ。
自身が1年以上は掛けて辿り着いた境地に、触れた瞬間に並ばれる。そんな圧倒的な力量差を見せ付けられた事に苛立ち、自然と声が上がっていくツバキを、御者の男が窘める。
「声を抑えろ。外に聞こえると面倒だ。それに繰り返すが、将軍に関しては、生きていようが死んでいようが、どちらでもいいんだ」
「ケッ……それなら、死んでる方がオレは気分がいいんだよっ。なぁ、今度はオレに騎士鎧の使い方を教えてくれよっ。最後は結構いいセン、イケてたんだぜ? 騎士鎧さえありゃあ仕留めれたんだ」
「お前も見たんだろう? マックスとスパイクが将軍と戦う所を。生身に上位装具を担いだだけで、あれだ。正面から挑んで勝てる相手ではないよ。それにしても、あの年齢でまだまだ現役とは恐れ入る。あの襤褸切れのように傷ついた身体に、装具を失った上で反撃に転じる者など、そうはお目にかかれまい……」
御者の男の言葉を聞いても、ツバキは納得出来ないでいた。自身だって、生身で上位装具だけを担いで、マテウスを2度も、あと一歩の所まで追い詰めた(ツバキの中ではそうなっている)のだ。
そして、自身は心の内が口惜しさや、不満が溢れているにも関わらず、話し相手はそうでもなさそう事が……むしろ楽しんでいる様子なのが、更に苛立たしく思えた。
「前回も今回も、あんないいようにヤラレて、親父は悔しくねーのかよっ?」
「どちらも目的は達しているのに、なにを悔しがる必要がある? それに、私自身は傷を負わされていないし……今日は挨拶も済ませておいたからな」
「……挨拶?」
「教えておいてやろう、ツバキ。将軍を傷つけたいのなら、彼ではなく、彼と親しくする人を狙った方がいい。そういう時の彼はな……表面上は気にしていないだのと嘯くんだ。だがな、胸の内は怒りと悲しみと後悔に、腸から煮えくり返っているんだよ。感情的になった時の方が、力を振るえるというのに……それでも1人でも多くを救おうと、心を凍り付かせて、感情を抑え付けて、立ち回ろうとしているあの姿、あの表情……お前も1度拝んでみれば分かるさ。あれこそが私にとっての、最高の娯楽だ」
もし、悔しがる必要があるというのなら、今回はそれを間近で見る事が出来ないという事だ。ツバキに案内された場所に隠れていた、酒場でも顔を合わせていたというあの美しい女。ツバキの話を信じるならば、マテウスが自らの身を差し出して彼女を守ろうとしたらしいという事は、御者の男……デニスも聞き及んでいた。
そんな女が死んだ事に気付き(デニスの中では当然、ロザリアを殺した事になっている)、またあの姿であの表情を浮かべるのであろう事を想像した時、なんでそのような心踊る場面に、自身は立ち合う事が出来なかったのか……やはり、それだけがデニスの中に悔しさとして残った。