生還への道筋その4
ゴゴッ……ゴゴゴッ……ゴゴッ……3人の着物少女を前にした静寂の中に響きわたる、腹の底にまで届く重低音。それは建造物がその終わりを告白するかのような、嘆き慟哭。張り巡らされた支柱や梁の1つ1つが、互いの落日の日が近い事を惜しむ為の悲鳴のようにも聞こえた。
程なくしてこの棟は崩れ落ちるだろう。マテウスはその情報に頭を悩ませながらも、ツバキ達の前に立ちはだかるように、ゆっくりと前進を続けながら問い掛けた。
「見ての通り、俺達は急いでいる。命に関わる大切な急用というやつだ。出来るのなら、そこを通して欲しいんだが……どうだ?」
それに対して、中央に立つツバキが覆面を剥ぎ取って、今まで隠し通していた素顔を見せた。攻撃的で鋭利に吊り上がった大きく黒い瞳と、短く切り揃えられた眉。開くと犬歯のように鋭い八重歯の覗く口元が特徴的な、赤鳳騎士団の面々と同年代の、少女と呼ぶ方が相応しい年齢の女。
そんなツバキの素顔を見て、最も驚き、目を見開いて動揺を示したのはレスリーだった。彼女が目を奪われた先は2つ。自身と同じく短く切り揃えられたツバキの髪と、肌……その色にこそ、目を奪われたのだ。艶やかな黒髪と、健康的な黄色の肌。その2つは、彼女がエウレシア王国ではなく、大陸東方の島国、シノノメ皇国の人間の血を多く含んでいる事を示していた。
覆面を剥いたツバキは、一般的には美しいと呼ばれる容貌を持ちながら、口を一杯に広げて大きく息を吸い込み、顔中に皺が走る程に醜く歪ませながら、マテウスの質問に大声でこう返す。
「断るに決まってんだろっ、ブァァーカッ! テメェら全員、ここで潰されちまえよっ!」
「……そうか。エステル、ここは俺が喰い止める。君達は迂回……していては間に合わないな。ここから中庭に飛び降りて、先に脱出しろ」
「えぇっ? そんな無茶なっ」
「無茶でもそれ以外に選択はありません、ナンシーさん。それに、4階から3階へは既に飛び降りている。それを思えばっ……」
マテウスがナンシーと会話している最中、それを遮る為に3人のツバキが一斉に投石を開始する。これに対し、マテウスは黒閃槍を使って応戦した。槍の先端と、柄尻を使って同時に2つ。そして左手で弾き飛ばして3つ目。
マテウスではなく、その後ろの的を狙ったとというのに……人外染みた反応速度は、味方にすれば頼もしい限りだが、敵対するツバキからすれば、恐怖半分苛立ち半分といったところだ。だが彼女は、その全てを怒りに変換して、吠える。
「オレを無視して話進めてんじゃねーぞっ、オラァッ!」
追撃の投石も冷静に捌きながら、マテウスは話の続きを始める。
「そう無茶な話でもない筈です」
マテウスがそう告げて、更に続きを伝えようと口を開きかけた時、彼の後方でガラスの割れる音が響く。前方に意識を割いているマテウスには、誰がそれをしたのかまでは分からなかったが(予想をつける事は出来たが)、誰かが外へ繋がる順路を切り開いた事は理解した。
「エステル、ヴィヴィアナ、フィオナ。他の皆を守ってやってくれ。俺もすぐに追いつく」
「止むを得んか……心得た」「そうね、分かった。フィオナ、先に降りてっ」「ウチッ? イケるんかな……」
「フィオナッ。君はこいつを頼むっ」
マテウスが後ろを振り返りもせずに投げ渡したのは、大きな宝石を吊るした首飾り状の上位装具、高潔な薔薇だ。フィオナは慌てながらもそれを両手で受け取り、それがなんであるかを確認して、ひっくり返った声を上げる。
「うぇぇっ? なんでウチッ?」
「現状なら君が適任だ。肩肘を張る必要はない。いつも通り、気楽にな。それと、レスリー。君にはこいつを」
そうして今度はレスリーに向けて、黒閃槍を廊下を滑らすようにして投げ捨てる。マテウスは、次に敵から奪った片手剣を右手に装備し直すまでの間、ずっと目の前のツバキ達に対して、牽制するように睨みを利かせていた。
つまり、声と状況から、誰がどの位置にいるか、確認せずとも完全に把握しているのである。
「は、はいっ。レスリーにお任せくださいっ」「次、レスリーから行ってっ」
レスリーの返事に続き、ヴィヴィアナの指示が聞こえる。後は彼女達に任せて、己は己の仕事に取り組めばいい。マテウスはそう考えると、意識の全てを前方へと運んだ。
「流れる血は少ない方がいいと思うのだが、今から引く気はないのか?」
「テメェとはとことん意見が合わねぇなぁ。オレは血が流れるのを見るのが、だぁぁーい好きなんだよっ」
恍惚に目を細めながら、残忍に顔を歪ませるツバキ。その顔は、血の繋がりがない筈のベルモスク人、ドミニクをマテウスに思い起こさせた。まだ10代の少女でありながら彼女は、ドミニクと同様の頭の中を狂気に侵された者の表情を浮かべているのだ。
「お前のような手合いとの、交渉は無駄だな。いいだろう。そんなに血が見たいというなら、お前の腸から存分に絞り出してやる」
マテウスとツバキが正面からぶつかり合うのと同じ頃、先行して中庭に降り立っていたフィオナが、首を傾げながら自らの装具金剛なる鋭刃を地面に突き立てる。
「そんなに上手ういくんかなぁ?」
自らの行為に戸惑いを覚えつつの、理力解放。剣先の地面が槍のように盛り上がり、2階の窓下へとぶつかって、壁が砕け散る。
「ちょっと、フィオナなにやってんのよっ!」
「ごめんっ! ヴィヴィちゃん、ちょっと離れといてーな。次はいけそうやからっ」
フィオナはそう断りを入れると、金剛なる鋭刃を地面から引き抜き、その隣へと今度は少し角度を付けてから突き刺し直す。そうして力加減を調整しながら理力解放。そうする事によって、先程よりも一回り太い槍が、ゆっくりと2階へと伸びていき、2階の窓したまで伸びた所で、その進行を止める。
結果として、2本の槍は緩やかな傾斜の斜面として、2階と1階中庭の懸け橋となった。
「ええでっ! しばらくはだいじょーぶな筈やから、ゆっくり降りて来てーっ」
「わかったっ」
ヴィヴィアナがそう答えて、下へ降りる為の準備をしている最中、フィオナは彼女の横で黒閃槍を両腕で抱えながら、オロオロと2階を見上げるレスリーの横顔へ声を掛ける。
「レスリーちゃん。これ、えらい便利やねっ。次から1回で出来るよーに、練習しとこーかな?」
「えっ? あっ……そのっ、はいっ。そ、そうですね」
普段通り、それ以上の会話を躊躇うような、鈍く、たどたどしく、怯えたかのような反応。しかし、フィオナはその目で見ていた。マテウスの言葉を受けて真っ先に窓へと移動して、その窓が正攻法で開かないとみるや(恐らく、度重なる棟全体への衝撃で、窓枠が歪んでいた為)、ガラスを叩き割って脱出口を作ったのがレスリーだという事を。
そしてその耳で聞いたのだ。金剛なる鋭刃を使って、2階までの道を作れないか? と尋ねて来るレスリーの声を。
あの素早い反応は、マテウスがその口で脱出を仄めかす前から、その計画を考えていなければ出来なかった筈だ。それは、金剛なる鋭刃の応用法にしても、同様である。
話し終わると同時に、気まずそうに視線を外すレスリーの横顔を、フィオナは覗き見る。2階やフィオナの様子が気になるのだろうに、真っ直ぐそれを見る事が出来ずに、度々周囲に視線を反らしながら、チラチラと様子を伺う彼女はまるで、狼の群れの中でそれに怯える1匹の子羊のようだ。
(偶々……なんかなぁ?)
そんな騎士には、まだまだ程遠い姿のレスリーが見せる小さな変化を、フィオナが意識したのは、この時が最初であった。