幼き蹉跌その5
「ヒゥッ……ンッ、グスッ……」
静寂を取り戻した室内にアイリーンの泣き声が響く。治癒系理力解放の痛みを知る者なら、彼女のこの姿を責めはしないだろう。むしろ、なんの麻酔もなしに、治療を終えるまで気を失わずに耐えきった事を賞賛して然るべきだ。肉体に直接変化を与える治癒系理力解放には、それ程のリスクが孕んでいるのである。
「骨は綺麗に繋がった。神経や関節も元通り、皮膚にも傷1つ残っていない。歩こうと思えば今すぐにでも歩ける筈だが……どうだ?」
「まだっ……痛くて、よく分からないわよっ、馬鹿っ……止めてって言ったのに……」
「悪かった。だが、何度に分けても痛みが長引くだけだ。一気にやってしまった方が楽なんだよ、こういうのは。2度とこんな思いをしたくないのなら、次からはこんな無茶をしない事だ」
遠くから爆発音が散発的に響き渡る。<パーシヴァル>を相手に、エステルとパメラが派手に暴れているのだろう。騎士鎧の纏い手の実力次第な所はあるものの、現状における彼女達2人の実力では、そう長くはもたないというのが、マテウスの見解であった。
だからマテウスは、アイリーンとの話をそこそこに切り上げると、立ち上がってレスリーへと向き直る。
「レスリー、黒閃槍を」
「は、はいっ」
「代わりにこれを持っていてくれ」
レスリーから黒閃槍を受け取ると、代わりに片手剣型装具ズィーデンブレードと<ランスロット>を纏う為の儀剣を手渡した。その光景を見ていたアイリーンが、思わずマテウスの背後から声を掛ける。
「マテウス、それ……騎士鎧を纏うのに必要なものでしょ?」
「そうだな。だが、今の俺には必要がない」
会話をしながらもマテウスは淡々と作業を進めていく。理力倉の残量を確認し、たった1つしかない予備理力倉を制服に潜ませて、槍全体の各部に視線を運びながら、右手を使って軽く槍を振って、感触を確かめる。
「だって、マテウス……貴方、これからパメラとエステルを助けにいくのよね?」
「そうだ」
「騎士鎧を相手するのに、生身でいくつもりなの?」
「そうなるが、今の俺では<ランスロット>は使えないからな」
「あ、あの……マテウス様、すいません。でも、その……どうして、使えないのでしょうか?」
マテウスの言葉の意味に思い当たったのか、押し黙ってしまったアイリーンに代わって、マテウスの背後に控えるようにして立っていたレスリーが、恐る恐るその背中に手を伸ばして質問をする。
「今は時間がないから手短にするが、第3世代騎士鎧以降の特性上、俺の体質では怪我をしてしまうと、騎士鎧を纏えないんだよ」
マテウスは説明する時間も惜しかったが、これから先に騎士鎧を身に纏う可能性がある彼女達は、知っておくべき事だと判断したので、簡単にだが説明を始めた。
第3世代騎士鎧以降の騎士鎧には、纏い手が怪我をしてしまった場合、自動的に治癒系理力解放を行なう機能が備わっている。この機能のお陰で、どんな重傷を浴びても戦闘を継続する事が可能になったのだ。
だが、治癒限界を迎えたマテウスのような者が纏い手になった場合は、事情が異なる。治らない怪我に対して、治癒系理力解放を掛け続けるので、騎士鎧を纏っている間中、一般人が悲鳴を上げて気を失うような激痛が、永久に纏い手を苦しめるのだ。
「だから、この右手の傷が塞がるまでは、俺は騎士鎧を使えない。君達はこうならないように、治癒系理力解放の使い所を間違えるなよ」
「ちょっとっ……ちょっと待ってっ! いかないでっ。そんな話をしておいて、勝手にいかないでよっ!」
マテウスがさっさと踵を返して中庭に向かおうとするのを、力の入らない体に鞭を打ち、痛みを堪えながら立ち上がったアイリーンが、彼の後ろから縋りついて止める。マテウスを見上げる泣きはらした直後の瞳には、自身の身に走る痛みよりも、マテウスの事を案じて戸惑いが、色濃く反映されていた。
「お願い、いかないで……傍にいてよっ。もう嫌なの。皆が……マテウスが、怪我をする所なんて見たくない。ねぇ、逃げよう? パメラとエステルも一緒に、皆で逃げればなんとかなるよっ。お願いだからっ……お願いだから、皆、もう無茶しないでよっ」
「確かにその選択肢もあるが……」
マテウスが我が儘な子供を見下ろすように顔をしかめながら、それでもアイリーンを説得しようと口を開きかけたその時、同じようにマテウスの背後に控えていたレスリーが、無言でアイリーンを突き飛ばした。
身体中に力が入らないアイリーンは、これに逆らえずに床に尻もちを着きながら、なにが起こったか理解できない……そんな呆然とした面持ちで、レスリーを見上げる。
「あっ……アイリ様の所為ですっ。アイリ様さえいなっ……いなければ、マテウス様はこんな事に、ま、巻き込まれなかったし、怪我の1つもしなかったし、今だって……い、今だって、1人で安全な場所へ逃げる事だって出来るんですっ。だって、マテウス様は……強くて……だからっ、だからっ……これ以上……傍に近づかないでっ……くだ、さいっ」
「おい、レスリーなにを……」
しかし、マテウスの発言はまたしてもレスリーに遮られる。彼女はマテウスに服の裾を掴みながら、縋りつくような距離まで寄り添って、彼を見上げる。
「に、逃げてくださいっ、マテウス様。れっ、レスリーは、マテウス様さえ無事ならそれで……それでそのっ、もし、生きてもう1度御目通り叶うなら、もう1度貴方の為にっ……レスリーはっ」
「ちょっとレスリー。貴女、どうしたって言うの?」
2人のやりとりを見かねたヴィヴィアナが立ち上がり、レスリーの肩を掴もうと手を伸ばすが、その手はレスリーによって打ち払われた。
「す、すいませんっ、すいませんっ。でも、レスリーはこれ以上、マテウス様に無理して頂きたくないんです……だからどうか、御1人でどうかっ」
その光景を目の当たりにしながら、ヴィヴィアナは気付いた。ヴィヴィアナに真っすぐ視線を向けて、話している間も、頭を下げている中でも、レスリーの瞳にはマテウスしか映っていない事に。
『レスリーのアレは君が思うような綺麗なモノじゃないと、俺は思っているんだが』
レスリーの好意に対してどうして応えてやらないのかと、ヴィヴィアナが尋ねた時の言葉……そんなマテウスの返答を、今になって彼女は思い出す。結局その時、マテウスはハッキリと言葉にして表す事が出来なかったが、今のヴィヴィアナにはその言葉の意味が良く分かった。
これは恋だとか、愛だとか……そういった、よくある美しい感情ではない。もしたった一言で表すのに、適切な言葉があるとするならば、それは……依存。そう呼んだ方が適切だろう。
レスリーにとって、初めて出来た縋りつく事の出来る場所。だからこそ彼女は、マテウスに傾倒し、マテウスを尊崇し、マテウスへ妄信を続ける。騎士というには程遠い、弱く哀れな狂信者。それが今のレスリーの正体だ。
そしてもう1人……
「勝手な事、言わないでよっ!」「ちょっと、アイリちゃん。そんな動くと……」
突き飛ばされて唖然としていたアイリーンが、フィオナの静止を振り切って立ち上がり、そのままレスリーに掴みかかる。
「自分がマテウスの1番みたいな顔してっ、いっつも傍に引っ付いてっ……離れてよっ! マテウスは私の騎士でっ、私と一緒に逃げるんだからっ」
「あ、アイリ様の所為でマテウス様が怪我をしたんですっ! そう……そ、そうやって足ばっかり引っ張ってっ、そんな、そんな人には、マテウス様のお傍は相応しくないんですっ」
「そんな事、レスリーに分かる訳ないじゃないっ! 自分だって戦えない癖にっ、べ……ベルモスクの癖にっ!」
周りの状況など一切考慮せずに、押し合い、揉み合い、傷つけると分かっていながら、普段なら使わないような悪口で罵り合う。まるで子供同士の喧嘩だ。フィオナはそんな2人の姿を見て……
『彼女のは娘が父親に対してする我が儘みたいなもんだ。それを勘違いしたりはしないさ』
アイリーンとの関係を茶化した時に、マテウスがそう答えを返した事を思い出した。フィオナはこの返答をマテウスの照れ隠しだと考えていたが、今の光景を目の当たりにする事で、それが彼の本心で、紛れもない事実なのだと、ようやく理解した。
お気に入りの宝物を他人に取られた子供と、偶像を必死に守ろうとする狂信者。そんな周囲が見えなくなった幼い2人の争いに、皆が声を失っていたが、ただ1人……重たい溜め息と共に近づいた大きな人影が、2人の間に力任せに割って入り、それぞれの頭に右拳を振り下ろした。
「いい加減にしろっ」