エピローグその2
「リネカー家とは心強いな。よろしく頼む」
そう言って握手しようと手を差し出したが、パメラはそれには反応を見せずに、マテウスの手は行き場を失くして虚しく彷徨う事になる。
「あまり調子に乗らないで頂けますか? アイリ様に近づきすぎれば、命を奪わない程度にジワジワと精神的に追い詰める事には変わりませんので」
「それ、いっそ楽にしてくれよ」
疲れた声を上げたマテウスは、差し出した手を収める。なにが入れられたかも分からない紅茶に手を出す気になれず、逃げ場を求めるようにアイリーンへと視線を運んだ。
彼女は1枚目の木片の結果に納得いかずに、次の木片へと手を伸ばしていた。だが、手応えを掴み始めているのか、顔色は明るい。このまま彼女が練習に夢中になってしまうと、アイリーン用の紅茶が冷めてしまうとも思ったが、その集中を乱したくなくて、2人は声をかけずにいた。
椅子に腰かけたマテウスの横。パメラは直立した姿勢を崩さないまま、アイリーンに届かないように、幾分か声を抑えてマテウスに話し掛ける。
「女王陛下より、伝言を受け賜っております。貴方にアイリ様誘拐未遂と、ジェローム卿殺害の犯人捜索を手伝って欲しいとの仰せです」
「……それが、王女親衛隊教官の役目なのか?」
「護衛対象を狙う誘拐犯達の捕縛、前任者の事後処理。不当な要求ではないように思います」
「隊に所属してない俺は、ある程度自由が効くって理由か。ハッ……冗談キツイぜ」
マテウスは自分がゼノヴィアの動かしやすい手駒として、あえて教官という役職を与えられたのではないかと訝んだが、それが分かった所で状況が変わらないと気付いて、愚痴をこぼすのを止める。
「表で事件を追っているは、やはりリンデルマン侯か?」
「ジェローム卿殺害の件は、その通りです。ドレクアン共和国への御遺体の送還も彼が担当されてます」
ジェロームの推挙にはリンデルマンが深く関わっているとアイリーンに聞いた。当然と言えば当然の答えに異論もなく、静かに頷くマテウス。
この事件が国交にどう影響しているのか。そもそもリンデルマン侯は何故、王女の守護者の人選にドレクアン人を抜擢したのか。マテウスの疑問は尽きなかったが、たちまちの疑問を解消する事にする。
「その言い方だと、誘拐事件は違うようだな」
「はい。治安局と異端審問局が動いています」
「はぁ? なんだってクレシオン教会が動いてるんだよ」
マテウスが意表をつかれて、思わず大きな声を上げてしまったので、アイリーンの集中が削がれてしまったらしく、彼女は何事かと振り返ってくる。
それに対してマテウスはなんでもないと、手を払うようにして応えた。パメラにもアイリーンは目配せしたが、彼女はやはり表情を崩さなかったので、結局は再び練習へ没頭し始めた。
その光景を確認して、パメラは少し前屈みに姿勢を崩して、マテウスの顔に顔を寄せる。幾分か声量を抑えて、話の続きを始めた。
「アイリ様はこの件を知りませんので、もう少し声を落として貰えると助かります」
「彼女は嫌がるだろ、そういうの。大体、どっちも人手が足りてるようだが、女王陛下は一体俺になにをやらせたいんだ?」
「彼女ハ嫌ガルダロ、ソウイウノ……随分、アイリ様の事には詳しいようですね。今度ご教授頂けますか? 誰もいない墓地などでゆっくりと」
「アイリーンに見えない角度で背中を摘むのを止めろ。捻るな、普通に痛いから」
「これだけ広ければ一箇所ぐらいなくなった方が、場所を取らなくて便利でしょう。遠慮なさらず」
「背中はそういうもんじゃないだろ。どこまで本気なんだよ、怖い女だな」
マテウスが振り返って手を払うと、パメラはあっさりとその手を放す。彼が少し強く睨んでも、彼女は眠たそうな半眼を細めもせずに睨み返すだけだった。やがて彼は馬鹿らしくなって、自分から視線を外した。
「とにかく、そういう事ならまた日を改めて聞かせてくれ」
「断らないのですね」
「俺の身分じゃ断れないだけだ。それに、なるんだろう? 遠回りでも、アイリーンの為に……なら、やるしかないじゃないか」
この身はアイリーンの騎士になる、その為の叙任式であり今日の練習だ。マテウスがそう選択したのだ。晴れない迷いは残っていても、義妹であるゼノヴィアと、なによりアイリーンの為に動かないわけにはいかなかった。
「女王陛下への連絡、伝達は私が。捜索について貴方には特権が与えられます。不自由はないでしょう。人手は隊員であれば、ある程度自由に使っていただいて結構です」
「それには君も入っているのか?」
「アイリ様の為になるならば、協力体制は惜しみません」
教官として初めての教え子になるであろうパメラは、自身よりよほど覚悟が出来ていると、マテウスは思った。背中を見せれば切りつけてきそうな危うさはあるが、アイリーンの事だけに関してだけいえば、自分よりよほど頼りになりそうだとも。
マテウスが視線を落とすと、彼の前に置かれたティーカップから立ち昇っていた湯気は消えていた。彼は、その謎の液体入りの冷めた紅茶が入った、カップそのものを鷲掴んで、目を瞑ったまま中身を一気に飲み干してみせる。
マテウスがカップを受け皿へと戻した時、パメラの半眼が少しだけ見開いたような気がした。驚きという感情ぐらいはありそうだと確認できただけで、危険の見返りとしては十分だろう。
「よろしく頼む」
しかし、パメラはやはり無表情のまま、言葉すら返そうとはしなかった。
「出来たっ。出来たわよ、マテウス。これならどうかしら?」
そんな沈黙を破ったのはアイリーンの嬉しそうな声だった。顔を綻ばせながら真っ先にマテウスへと駆け寄って、木片を手渡してくる。マテウスはそれを受け取って、検分を始めた。紋章の形、刻まれた痕の深さ、指でなぞりながら確かめていく。
「いい出来だ。これなら君に頼める。後は速度を上げるだけだな」
「やった。でも、一言余計よ。もっと褒めてくれてもいいのに」
「十分褒めている。2、3日は掛かると思っていたのに、大したものだ」
マテウスと向かい合って腰掛けるアイリーンは拗ねたように口を尖らせるが、顔を緩めるのを抑えられていない。飴は与えすぎても人を駄目にする、というのが彼の信条の1つなので、言葉少なめにして切り上げた。
パメラは彼女が完全に休む態勢になったのを確認すると、彼女の前に膝を落として下から手を伸ばし、ハンカチを使って顔を拭う。アイリーンは何度かくすぐったそうに声を上げるが、行為をそのものを止めようとはしなかった。
ありがとう、と小さく返しながら微笑みを向ける。マテウスはそれが、ジェロームへと向けていた微笑みと、明らかに違うことに初めて気付いた。そして、自分の視線に首を傾げてみせる彼女の笑顔も、前者に近づき始めているという事に。
「もうっ、そこはくすぐったいって言ってるのに、パメラったら……マテウス? どうしたの?」
「いや、なんでもない。そんな事より、口上の方は覚えたのか? アイリーン」
「……また。私の事はアイリって呼んでって言ったのに」
アイリーンはたちまち笑顔を曇らせてしまう。そうしてしまった己の失言をよそに、パメラの無表情に対して、秋の空のように表情がコロコロと変わる女だと、感心してしまいそうになるマテウス。
「承諾した覚えはない。一応、これから君とは主従関係を結ぶんだ」
「でもお母様の事はゼヴィって愛称で呼んでいたわ。お母様だけ、ズルイわよ」
「ズルくはないだろ。付き合いの長さだよ」
「でも、ズルいのっ。ほら、マテウスも言ってくれたじゃない。公私は分けてるって。お母様やパメラ、2人っきりの時だけでいいからさ……ねっ?」
甘い声を上げて科を作ってみせるアイリーンに、マテウスは助け舟を求めるようにパメラへ目配せした。しかし彼女は、マテウスに一瞥もくれようとはせず、アイリーンのカップへと紅茶を注いでいた。
やがてマテウスは降参だと溜息を落とす事になる。考えてみれば、この言葉使いからして主従を逸脱しているのだ。今更だろうと考えれば、諦めもついた。
「分かったよ。公私は分けさせてもらうけどな……アイリ」
「うんっ。ふふっ、それにしても2人ってそっくり。パメラもなかなかアイリって呼んでくれなかったの。今でも様ってついたままだし、紅茶も一緒に座って飲んでくれないんだけどね」
「公私を分けているだけです」
「ほらっ。言い方とか、ちょっと怖い顔とかそっくり」
肩を揺らして声高く笑うアイリーン。マテウスはパメラがどう返すのか気になって、表情を盗み見るように見つめていたが、突然彼女が振り返ってきたので慌てて視線を逸らす。彼女にどんな因縁を付けられるか、分かったものではないからだ。
「ごめんね、冗談よ。私ね、2人の顔、好きだな。見ているとホッとするもの」
「そうかい。趣味を改めた方が良さそうだな」
「その必要はありません、アイリ様。5分程度頂ければ、ご注文通りに私がこの男の顔をマシに改めます」
「おい、やめろ。その切れ味鋭そうなナイフをしまえ」
「あははっ、もうパメラってば、冗談ばっかり」
(……その女は本気だと思うがな)
アイリーンがまた一頻り笑った後、それから紅茶を一口飲み干す間、静寂が流れた。気まずさは微塵もなく、ゆっくりとした心地よい時間。ティーカップを置いて、再びその静寂を破ったのはアイリーンだった。
「親衛隊ってさ、女性限定なんだよね?」
「そうだな」
「私、彼女達と友達になれるかしら? こうやって、冗談を言い合えるような友達に」
「難しいだろうな」
親衛隊であるならば、それは誰よりも近しい守護者にはなるだろうが、近しい友人になるかと言えばそうではないだろう。むしろ、主従がハッキリと現れるような関係になるかもしれない。マテウスは安易な希望を提示はしなかった。
「マテウスってやっぱり意地悪よね。でも貴方らしいわ、その答え」
「難しいだろうが、何事も例外はある。ここに2つもな」
「……マテウス?」
「前例があるのなら、不可能とはいえない。難しいが、やはり君次第だろう」
しかし、可能性の提示は惜しまなかった。捻くれた物言いね、とアイリーンは笑ったが、マテウスは肩を竦めてそれを受け流す。
「ドレクアンに行っても、友達が一緒に居てくれるなら心強いんだけどな」
「アイリ、君はドレクアンに行く予定があるのか?」
「マテウスには言ってなかったかしら? 私、婚約者がいるのよ、ドレクアンに」
「いや、初耳だ。だがそうだな。君の年齢なら婚約者がいてもおかしくはない」
この世界なら12歳になった女性は、社交界へと姿を現すという。既に14歳の彼女は婚約者どころか、結婚をしていてもおかしくはない年齢だ。だが、マテウスは少し胸がざわつくのを抑えられなかった。それは、ドレクアンという単語のせいかもしれないと、彼はそう思う事にした。