立ち行かずままならずその3
レスリーは制服に着替える前に着ていた使用人服のエプロンを掴むと、すぐにマテウスの元へと舞い戻って、傷を塞ぐように両手でギュッと彼の左手を包んだ。
白い布にじんわりと血液の赤が広がっていく様子を見て、彼女は我が事のように顔を青ざめる。
「怪我っ、あの……すいませんっ。でも、怪我を塞がないとっ」
「大丈夫だ、ありがとう。汚れてしまうが、このエプロン。しばらく借りるぞ」
マテウスは借りたエプロンを使ってナイフに着いた血液を拭うと、ヴィヴィアナに近づいてナイフを手渡す。最初は怪我をさせた責任を感じて驚きの声を上げたヴィヴィアナだったが、マテウスが自分で自分を傷つける為にナイフを使ったのを見て、少し不満気だ。
そんな彼女から離れて、今度はアイリーンの前へとマテウスは移動する。アイリーンは疑問と腹立ちが入り混じった表情で彼を見上げるが、その眼前で傷の入った掌を広げられて、たじろぐように一歩下がった。彼女の目の前で、血を拭った傷口から再びダラダラと流血を始める。
「エステル。それで、俺の傷を塞いでみてくれ」
「えっ? あぁ、うむ。分かった。任せてくれっ」
そうして、エステルがサンクチュアリを傷口に翳しながら理力解放する。小さな箱が淡い輝きを宿して、その光に照らされたマテウスの傷口が、再び切られた時と同じような痛みを発しながらも、急速に傷口を塞いでいく……だが、塞がれた瞬間に再び傷口が一気に開ききって噴き出すように流血し、鮮血が滴り落ちた。
「そんなっ……どうしてっ?」「マテウス卿っ、卿はまさか……」
アイリーンが痛ましい光景に顔を歪めて、エステルがなにが起こったのかを理解してマテウスを見上げる。マテウスの左の掌には、切り裂かれるような痛みが走った筈だが、彼は平然とした顔でレスリーから受け取ったエプロンを包帯のようにグルグルと巻いて押さえつけて、簡単な止血とした。
「治癒限界。治癒系理力解放は便利だ。だがそれに頼り続けた結果は、こうなる。これがいつ訪れるかは人それぞれだが、繰り返し治癒系理力解放を浴びせ続ければ、誰しもに訪れるという事は実験結果から得られている。護衛任務の際に命に関わる負傷を負った場面、負傷したにも関わらず戦闘の継続を余儀なくされるような場面、そういう時に治癒限界が訪れれば、死ぬより他がないのは分かるだろう? そうならない為にも治癒系理力解放はなるべくなら避ける。そうすべきなんだ」
「私っ、こうなるなんて……でもっ、それでも、私はレスリーにっ」
「君には説明不足だったかもしれないな……だが、レスリー。君には丁寧に教えた筈だぞ? 額に傷を残すなんて事をしたのはすまないと思っているが、それでもそうしたのは、君の為だ。それをどうして……」
アイリーンと話していたマテウスだったが、彼の疑問の矛先は、彼の背後から傷の様子を伺うレスリーに向けられる。その時点でアイリーンは訳も分からずカッとなって、マテウスの胸元に掴みかかっていた。
「今、私と話していた筈なのにっ、どうしてレスリーとっ!」
みっともなく声を荒げてマテウスに掴みかかったアイリーンに、皆が声を失って静まり返る。マテウスは監禁されていた時にも経験があるので2度目だが、あの人懐っこくて、いつも笑顔を浮かべているような彼女がそんな声を出すなど……と、思わずにはいられなかった。
「……その、私っ……私、ごめんなさいっ」
「おい、アイリッ」
マテウスは声を上げて部屋を飛び出したアイリーンの背を追い掛けようとしたが、レスリーが傷ついた方の腕を掴んで食い止めた。そして彼は、パメラが冷たい視線を自身に浴びせた後にアイリを追って姿を消すのを見て、足を止めた。
一方、1人で当て所もなく走り、最初に目に付いた階段を駆け下りて、その中央の踊り場で足を止めたアイリーンは、自らの胸の内に渦巻く激しい感情に振り回されていた。自分がどんな顔をしているかも分からず、それでもとても見せられないような顔をしているのが予想できたので、壁に額を押し当てて顔を隠す。
『私が貴方の味方になってあげる』
マテウスと2人で最初に交わした約束……彼女の心の奥にいつも刻まれている。だというのに、最近の自分はマテウスを失望させてばかりだと思った。休みの日には拗ねて困らせたり、今朝の訓練では心配させて、今も彼のやっていた事を台無しにして……だが、そうさせたのは彼女の中に生まれた良く分からない感情が原因だとも思った。
(レスリー……あの子の所為なの?)
気付けばマテウスの傍にいて、彼に1番気遣って貰っている(アイリーンにはそう見える)存在。休日は勿論、訓練中も、雑務をこなしている最中も……当然、アイリーンが王宮にいる間も、ずっとそうなのだろう。私は週に2度しかマテウスには会う事が出来ないのに、彼女は毎日いつもいつもあの調子でマテウスの傍にいて、彼を支え続けているのだ……そう考えるだけで、アイリーンは自らの物とは思えない醜い感情に晒される。
だから、彼女は意地悪をした。ナンシーとの商談中にレスリーと話し始めたマテウスに対して、無理矢理に話題を変えさせたり、今朝の訓練中も2人で話している姿を目撃したから、初めての装具を使ってちょっと無茶をして意識を自らに向けさせた。
研究所を移動中に2人で話している所を見つければ、強引に手を引いて距離を置かせて、今もマテウスの言いつけだと傷を治すのを躊躇うレスリーを言いくるめて、エステルに治療させた。思いつく事を数えるだけでもこれだけある。
アイリーンは自分の事をもう少しいい子だと思っていた。ずっと王宮育ちの弊害か、世間との価値観のズレで迷惑を掛けているのは認める。だとしても、その過ちを認めて謝罪する謙虚さも持ち合わせているし、他人に対する慈愛も持ち合わせているし、問題に対して真摯に向き合う誠実さも宿しているつもりだった。少なくともこんな低俗な嫌がらせをするような人間ではなかった。
なかった筈なのに……現実として、レスリーに対してそれを行なっている。彼女の事は嫌いではない。少し引っ込み思案な所があるが、それがいじらしいと思うし、抱きしめると困った顔をするのも併せて、黒猫のような可愛さがあるし、お互いになんでも器用にこなせるタイプなので話が合うから、もっと仲の良い友人になりたいと思っているぐらいだ。
だというのに、マテウスとレスリーの2人が傍にいると抑えられないこの醜い感情の正体。それを言葉にするなら、嫉妬と焦燥と羨望だった。マテウスが最も近くにいる事を許す女性。マテウスが料理や雑務を気軽に任せる女性。マテウスが気軽な冗談を投げ掛ける女性。
そして、マテウスの掌の怪我を見て誰も動けない中、真っ先に動いてその怪我に手を添える事の出来た女性……彼女こそが、アイリーンのなりたかった存在。マテウスにとって頼りになる味方だった。
(いいな……羨ましい、羨ましいよっ。私だって王女なんかじゃなかったら、毎日ずっと傍にいて、毎日料理や頼まれ事をこなして、毎日冗談を交わして……取らないで。お願いだから、取らないでよっ。マテウスには貴女より先に私が出会ったのにっ。マテウスは私の騎士で……私がマテウスの1番の味方になる筈だったのに! どうして、私はこんな……王女なんかってなによ……)
口にするのも憚られる醜い言葉の数々。これが自分の内面であるという事に、涙が零れそうになる。だが、負けず嫌いな彼女の性格がそれを我慢させた。ここで泣いたら、一生彼女に勝てない……そんな気がしたから。
どうしてこんな事になったのだろうか……今日は可愛い制服を見てもらって、それを見たマテウスはぶっきらぼうなりに可愛いって口にしてくれて、そして格好いい制服姿のマテウスと一緒に撮影してもらって……そういう楽しい日になる筈だったのに。
壁に額を預けたままのアイリーンは泣きそうな顔で、ぐっと涙を堪えた。そんなアイリーンに対して、パメラは話し掛けもせずに、なんの感情も浮かべぬ顔で、後ろから静かに見守っていた。