願望の纏い手その1
―――同時刻。王都アンバルシア東区、グリニッチ市場
『姉さん。もしかしてだけど、オジサンとなんかあった?』
『えっ? マテウスさんの事よね? 特になにもないけど……どうかした?』
『ふーん……シた訳じゃなさそうだね。まさか喧嘩とか? ちょっと珍しいかも』
ヴィヴィアナの訳知り顔の視線を浴びながら、ロザリアはどう返そうかと口を噤んで……
(結局、誤魔化し損ねてしまいましたね)
ロザリアが思い出していた会話は、今朝の出来事……妹であるヴィヴィアナとのやり取り。その内容はマテウスとの関係についてだ。
あの一夜を共に過ごした後の朝の会話以来、ロザリアとマテウスの関係は少し変わった。否。マテウスの対応に変化はないのだから、ロザリアが一方的にマテウスとの距離を測りかねているといった方がいい。だが、それとは気づかれないように彼女は普段通りを装っていたのだが、実の妹であるヴィヴィアナだけは欺けず、今朝の出来事に至ったのだ。
理由は分かっている。その実の妹すら欺き続けて隠し通していた、まだ子供を産むことを諦めきれないでいる本心を、マテウスに言い当てられたからである。14、15歳で結婚して、その1、2年後には出産を経験するのが当たり前のこの世界で、今年で24歳になるにも関わらず一子も儲ける事が出来なかったロザリアが、未だに本気で子供を宿そうなどと……普通の者が知れば、冗談だろう? と、笑い飛ばされる所だ。
だが、マテウスは笑わなかった。その上、普段から彼がどんな目で見ているのかはロザリアの知る所ではないが、ロザリアらしいなどと世迷言まで付け加えてくる。
前日の夜のようにマテウスが隙を見せるのなら、話を反らしながら涙を見せれば誤魔化す事も出来たのだろうが、あそこまで自分の心の内を正面から指摘されたのも、その上に肯定されるのもロザリアには初めての事で、まだまだ未熟な彼女には顔から火が出るように恥ずかしく、その動揺を抑える事だけに必死で、それ所ではなかったのだ。
(その挙句の捨て台詞が、男なんて大嫌いだなんて……私もとんだ捻くれ者)
子供の頃から両親の期待に応え続けていた。毎週の礼拝も欠かさなかったし、淑女足らんと礼儀作法や言葉遣い、自らを美しく魅せる術、会話を弾ませる為の知識にまで手を伸ばして、両親にとって理想の娘を演じ続けて来た。親の顔色を窺っていた訳ではない。彼女にとって周囲の期待に応える事が喜びだったし、妥協を許せない負けず嫌いな性格だっただけだ。
その結果、社交界に足を踏み入れたロザリアに並ぶ女はいなかった。ロザリアが少し目配せするだけで、どんな男でも彼女に一目惚れして、次にダンスを申し込み、その次には求婚を申し出ていた。そうして彼女はカラヴァーニ商会を押し上げる理想の名家ボッシーニ侯爵家の長男へと嫁ぎ、愛してもない男相手だろうと、その理想の妻として再び期待に応え続けていく人生を歩み続けていく筈だった。
子供が出来なかった。ただそれだけの事が、ロザリアの世界をガラリと変えた。夫の友人達の手を借りて、この世界、その時代における全ての不妊治療への策を弄しても、妊娠できなかった。1年目はまだ周囲からの期待が残っていた。しかし、2年目から周囲の見る目が変化して、3年目からは誰もが隠そうとしなかった。それを例えるならば、廃棄物を見るような目だ。
ボッシーニ侯爵家内でその有り様なのだから、社交界での扱いは更に酷くなる。ロザリアのお零れに預かろうと金魚の糞のように彼女を囲っていた女達は距離を置いて聞こえよがしに嘲笑し、人妻と知りながらロザリアとのダンスの名誉に預かろうとしていた男達は姿を消し、その代わりにと現れた卑猥な言葉を投げ掛ける男達を前に、頼みの夫は他人の振りをするだけだった。
そして、4年目。夫は新しい妻を娶り、後妻である彼女はその3ヵ月後にあっさりと懐妊した。この事がボッシーニ侯爵家内でのロザリアの立場を更に悪化させる。
ロザリアから見れば愚鈍で、矮小に過ぎる、見た目だけが取り柄(それすらもロザリアの足元に及ばない)の薄っぺらい女は、自らより全てが秀でたロザリアの事を当然のように煙たがり、彼女を家から追いやるよう夫に告げた。
本家に居場所すらなくなった、肩書きだけの正妻にまで堕ちたロザリアは、別荘に居住を移す。そうした別荘でのある日……彼女は夫と懇意にしていて、ロザリアの不妊治療の相談にも乗った男に、無理矢理犯された。
前々から狙っていたと、夫からの許可を得ているからという話をその男の口から聞いた瞬間、どんな扱いを受けようとも夫以外にはその操を守り続けた絵に描いたような貞淑な人妻は、自らが演じる役割を理解し、その箍が外れてしまった。
次々と別の男を招いては、抱かれる日々。生来より期待に応える気質である彼女は、房中術にまで手を出して、男達から効率良く精を搾り取った。表向きは夫の意思を汲み取り、少しでもボッシーニ侯爵家の為になるならば、と。
それが、5年目。ロザリアはそうした日々の噂を嗅ぎ付けた妹のヴィヴィアナに連れ去られ、3年近く居住を転々とした後、今はこの場所にいる。
今ではそうした方が都合がいいからと、飄々として、実は過去に傷を持ち、自らを慰めてくれるひと時を求めるだけの男好きの女を演じているロザリアだったが……箍が外れたあの日から、様々な男に抱かれ、男のくだらない自尊心や度し難い欲望を知る度に男が嫌いになり、それでも諦めきれずに子供への想いが募る。
周囲の期待に応える事を当然としてきた負けず嫌いの姉として、妹にすら口にしない本心だった。
(こちらだけというのは癪ですね……私はあの人のなにも分かってないというのに)
ロザリアはその目的の為に、何度か色んな手段を使ってマテウスとベットを共にしたことがあるのだが、彼はただの一度も手を出そうとしなかった。一言断りを入れておくと、ロザリアは誰彼構わずあの夜のような手段で迫っている訳ではなく、奥手で固いマテウスのようなタイプに対して有効的な手段を選んで、そう演じているだけだ。
相手によれば初心な純潔を演じる事もあるし、母性溢れる聖女を演じる事もあるのが彼女……男のこうあって欲しいという理想を汲み取り、その期待に応えるのである。
だというのに、マテウスが自らになにを期待しているのか彼女には未だ見えずにいた。女として見られてないのでは? と、疑った事もあったが、しっかりと下半身を固くしている辺り(直接確かめた)その可能性も少ないようだ。
彼の感情を逆撫でるような舞台を用意したのも、あれだけの挑発を重ねるような発言を繰り返したのも、彼の内面に興味をそそられたからだ。しかし、未だに怒りの感情すら見せようとしない現状のマテウスに対して、ロザリアには面倒な捻くれ者ぐらいの感想しか抱けなかった。
(似た者同士、か……案外、本当にそういう事なのだとしたら、余り仲良くはなれないかも)
同族嫌悪という言葉があるが、心配する必要はない。ロザリアもマテウスもお互いにいい大人だ。多少ぎこちなくても周囲に気を使わせない程度の付き合いは心得ている。ただ1つ小さな不安材料があるとすれば…………
「ロザリアさん? ロザリアさんっ?」
「えっ? ごめんなさいフィオナさん。少し考え事をしていて聞いていませんでした。何か言いましたか?」
ロザリアはフィオナに呼びかけられて、深く考え事をしていたのに気づかされて慌てて顔を上げる。ここ、グリニッジ市場の喧騒を忘れてしまうぐらいに意識を奪われていた事に気付かされて、自分でも少し驚く。
意識を取り戻したロザリアはすぐに現状を確認する。今日、ここに訪れたのは先週に交わしたエステルとの約束……ご飯を御馳走するという約束を果たす為だ。フィオナがここにいるのは、彼女から相談があると持ち掛けられたから。折角ならご飯を食べながらでも、と誘って今は3人でこのグリニッジ市場を訪れている。
「その……な? その、エステルちゃんの姿が見えなくて」
「あら? あの娘ったら、また勝手に……」
フィオナにその事を指摘されて、ロザリアは周囲の様子を確認するが、あの小さな女騎士の姿は見えない。さてどうしたものかと2人が立ち止まるとすぐに、グリニッジ市場の喧騒の中でも特に際立つ、張りがあって、幼く、甲高い声が彼女達の耳に届いた。