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   第二部 



 その日の終了を告げる鐘の音は、普遍的なものだった。

 どこにでもある普通の高等学校である。

 白い校舎に体育館、時期はまだ早いが野外プールまであるのが珍しいくらいで、特筆すべき箇所は少ない。

 生徒数も一学年に三百人程度だから合計で千人にも満たない。普通科や工業科を併設していて、平成の初めくらいまでは女子校であったために、男子生徒より女生徒の方が多い。後は今どき珍しく制服での通学となっている。灰色のブレザーで都内のどこに遊びに行っても、彼らが世田谷区の『空星学園』の生徒であると周知されてしまう。つまり、なんの変哲もない高校だということだ。

 広いグランドには早くも部活動に勤しむ同級生や後輩たちをよそ目にロストゲッターズの夢案内人、鈴ヶ森光耀と同僚になるシステム担当の安倍健太郎は肩を並べて下校していた。

 男性日本人の平均身長が一七五センチにまで伸びたのは数十年ほど前の事だった。それからすると一八〇後半の光耀はとても背が高く、逆に一六五センチしかない健太郎は小柄で幼い顔立ちが、そういう印象をいっそう強めるのだった。ネクタイをきちんと結んでいて、如何にも優等生然としている。

 その隣を歩く大きな男は平凡な黒髪ではあるものの、瞼の奥の輝きは剣呑で凶暴なものを潜ませていた。とても一九才の未成年とは思えなかった。不機嫌なようすからまだ寝足りないらしいと察した健太郎は自分から話しかけたりしなかった。午後の授業はほぼ熟睡していたというのに。鞄を肩越しに持っている。

 光耀と健太郎の身長差は大きく開いているため、健太郎は見上げる形で光耀に接していた。同じ三年生であるのだが、光耀は出席日数が足りなかったので留年してしまい、二度目の三年生だ。同級生たちからは先輩などと呼ばれていた。仕事一直線の生活を送っていた結果であった。

「眠いよな。腹も減った。どこかで飯でも食って帰らないか?」

「いいですね。ついでに中間テストの傾向と対策を教えましょうか?」

 一学期ごとに中間テストと学期末テストがあるのは気の滅入る話である。学校に来ない日が多いのだから成績なども良い筈はなく、このままなら三度目の三年生を迎えるはめになると、早くも噂されている。まだ六月だというのに。

 出席日数は同じように少ないのだが、成績は上位をキープしている健太郎は得意気に笑っていた。同じ仕事をしているのに留年するほど学校に出てこないのは、光耀のサボり癖もその要因となっていた。そういう分析が成立するために、教師から鈴ヶ森を頼むぞと念を押されたのは四月の始業式が終わったその日のことであった。

 年下の後輩に面倒をみてもらうことに抵抗を示さない光耀は、たいていのことは健太郎の言うことに反対しなかった。自力で考えて行動して生きていくのは億劫なことだった。補助してくれる人がいるならそれでいいと捉えていた。やる気のない大欠伸をした。

「卒業する気はありますか?」

「ああ、たぶん」

 万事がこの調子である。記憶探偵社の社員として人の夢の中で活躍している姿を見ていなかったら、健太郎でも見捨てていたかもしれない。

 彼の関心は光耀が持つドリームダイヴコンピュータシステムの傑作として知られるアルカナシリーズのデスサイズにある。どうして世界中の夢案内人が求めるアルカナシリーズの一つが彼をマスターとして認めたのか。

 開示されていない能力やその心理作用を研究したいのだ。以前、正面から尋ねた時は、

「だって、気に入っちゃったんだもん」と、とても擬似人格とは思えない情緒溢れる答えが帰ってきた。

 その感情というものをプログラムすることは、コンピュータが開発されてから百五十年以上もの間、継続して行われた挑戦である。どれほどの才能、どれほどの投資をしても未だ成功した例はないはずなのだ。人を補助するのが役目の機械が反抗的な態度をされては困るのだ。だが、人間の中にはそういうプログラムを施すことを研究対象とした科学者もいた。

 二十二機あるアルカナシリーズには、少なくとも他のドリコンが持たない要素が多くある。マスターの意思に反した行動を自ら考えて行うなどがその最たるものであり、好きや嫌いなどの表現もその一つだった。

 これを複製して量産出来れば大発明家と並ぶ栄誉を手にすることができる。などと健太郎は考えていなかった。電気屋の息子であり技術者としての純粋な探究心が、何故?どうして?と模索を繰り返させた。

 ――ダメ男が好きなのかな?

 単純に、ついそんなことを思ってしまう。そのドリコン本体は光耀の薄っぺらな鞄の中に収まっているはずである。急な呼び出しがあるかもしれないから、常に身につけていろと社長に言われていたのだ。もっとも、そんな急を要する仕事などは一度も入ったことはなく、ただの荷物となっている。彼自身、アテナを僅かな時間でも手放すつもりがないようで、入浴にも持って行っているのではないかと疑われている。

「あれ、会社の車じゃないですか」

 健太郎が指差した校門に面した大通りには、確かに記憶探偵社ロストゲッターズの営業兼業務車両が止まっていた。黒いバンだ。空腹だった二人は嫌な予感を覚えて、その車を視界に入らないように校門を出てすぐ左に曲がった。打ち合わせなどはない。

 甲高いクラクションが長く鳴った。どこの車からしたのだろうと探すこともなく、学校の壁添を歩いた。ここの壁ってこんなに背が高かったんだなどと考えていた。後ろを意識しないようにするためだ。

 健太郎の携帯電話に社長から着信が入る。その画面を見せつけられた彼は首を振った。出るなということだ。光耀に掛けて来ない辺り大人の分別を感じた。

「おい!無視するな!」

 ガラの悪い、嫌でも人の注目を浴びる男が運転席から叫んできた。彼らの社長、和田一学である。他の学生が何事かと振り返った。業務車は二人に近づいてきた。門を出て右側に向かえば反対車線になったのにと、今更ながらに思ったのは健太郎だった。

「お前たちの学校が終わるまで待ってやったというのに、知らんぷりをするとはどういうつもりだ!」

 必要以上の大声だ。窓から出した左腕を忙しく動かしている。ハザードランプを付けているので、他の車両はどんどん追い越していく。道路の縁石ギリギリを走りながら、堂々と脇見運転をしているのだが、接輪したりしない。

「仕事ならお断りですよ。この前、宝石商の婆さんの依頼を済ませたばかりじゃないですか。学校の許可は取っているとはいえ、一週間に一度の約束です。また留年するのは遠慮したいんですよ。このままじゃ中学生の妹が追いついて来ちまう」

「どっかの誰かが依頼者に毒舌を披露してくれたお陰で、ギャラを減らされたあの件か?そもそも学校なんかストレートに卒業できなかった時点で退学すれば良かったんだ!未練たらしい」

「う、まだ言うのかよ!どっちが未練だよ」

「福岡の有名大学を十年掛けて卒業した人の台詞とは思えませんね」

 高校生の二人は言い返した。運転席の隣、助手席には同僚の諏訪八雲が同乗していた。

「まあ、言いたいことは判るが、お前らのそのやり取りに似た言い争いは、つい二時間前に俺がやっといた。いいから乗れよ」

 手招きするのは二十代後半の男性である。彫りの深い顔立ちに茶髪は似あってはいたが、着ているシルバーのスーツといい夜の繁華街の方が向いていそうな男だった。

「俺としても週末に京都で営業の予定が入っているんで、そっちに集中したかったんだが、このおっさんに誘拐されちゃってね。時間は掛からないそうだから、とっとと済ませて家まで送ってもらおうぜ」

 軽いノリで八雲がまとめた。

 夢案内人の報酬は約百万円から百五十万円ほどである。これが相場だ。この収入で会社を運営しようとすると月に最低四回は仕事を受注しなければ、職員の口を賄うことはできない。この四人の他に事務所には女性の事務員が務めている。社員が五人しかいない小さな会社であった。

 こうして送迎に使っている燃費の悪い外車のガソリンだって貴重な経費の内なのだ。

 そこで問題となるのが、実動員である夢案内人がまだ現役の高校生であり、時間を自由に使えないことであった。おまけに留年までさせてしまって、社長の和田一学の肩身は狭く、光耀の両親には頭を下げに行ったものだ。しかし、それでも光耀に働いてもらわなければ会社は倒産の憂き目に合う。夢案内人となりドリコンを持つ者はそう多くはいない。

 マスターに高い適性があってドリコンが無駄に余っていても、両者に折り合いが付かなければ機能しないのだ。何の訓練もなくたまたま入った中古ジャンク屋で出会った光耀とアテナのようなケースは稀である。

「とにかく、今回の仕事は晩飯までには終わる。そうなるのが先方の希望でもある。しかも、今までにないVIPだ!」

 一学の強気な発言は相手にされなかった。やれやれと乗車した光耀と健太郎は後部座席で寛ぎだした。車は直ぐに走り出した。最後部は光耀の仕事椅子が横に設置されていた。他にも依頼人が使うことになるパラダイスシートなど様々な機器を積み込んだ車内はとても狭かったが、二人は自分たちの場所を決めていたので、とりあえずそこに座る。

 光耀は横向きにされた自分のパラダイスシート。健太郎がモニタとモニタの間の狭い隙間に身体を沈めた。

 鞄はその辺にぶん投げた。もちろん、ドリコンを取り出すことを忘れない。電源を入れた。

 すぐに画面に文字が浮かんでくる。

『おはよう。という時間でもないわね。二日しか経っていないけど、また仕事なの?勉強もそのくらい頑張りなさいよ。お腹空いたわね。始まるまでにちゃんとご飯を食べさせてよね』

 その声まで再現されているような感覚を覚える。充電を要求する機械など他にあるのだろうか。その文章を健太郎にも見せてやった。彼は赤いコードを取り出して充電を開始した。

『ありがとう。健ちゃんは優しいわね!光耀とは大違い』

 今度はお礼が綴られた。



 世田谷区成城。

 言わずと知れた高級住宅街である。

 都内の一等地であるのだが駅前以外に店舗は少なく、夕方でも人通りが絶えること無く車両も行き交う。どの家を見ても自分たちの身長よりも高い壁に囲まれていて、その中にある屋敷は庭付きこそ珍しいもののかなりの大きさの屋敷ばかりである。

 郊外に行けば庭のある家も見掛けるのだが、佇まいとしてはこちらに軍配が上がる。それは間違いのないことであった。

 記憶探偵社ロストゲッターズの営業車はそんな閑静な住宅街の中にある一際大きな屋敷の前で停止した。きっちり警備員まで置いている辺りは他のモノとは一線を画すのだろう。社長が言っていたVIPというのも頷けるかもしれない。

「ここは……テレビで見たことがあります!クロスラインビルの社長さんの自宅ですよね!すごい!こんなコネをどこで手に入れたんですか?」

「先日の宝石商の婆さんからだ。ギャラの値下げに文句を言いに行ったら、ちょうどこちらの方が仕事を探していると紹介されてな。嫁さんへのプレゼントを買いに宝石屋を訪ねていたらしい。古い知り合いのようだった」

 深く情報を仕入れること無く、二つ返事で引き受けた様子が瞼に浮かんできそうだった。

「クロスラインビル?なんだよ、それ」

 最後尾の座席でアテナと『話』をしていた光耀が、興味も無さそうに口にした。彼は今、今夜食べる夕食についてアテナと議論していた。

 共働き家庭だから晩ご飯は自分で用意しなければならない。中学生の妹の事も考えると毎日コンビニという訳にはいかない。栄養バランスの管理はアテナと決めることにしている。

「嘘ですよね?」

「最近の義務教育はそんなことも教えないんだな」

「さっさと退学してしまえ!お前なんか通うだけ無駄だ!」

『一学の案に賛成。あなた大学も行こうかなって言っていなかった?無理ね』

 散々な言われようである。

 クロスラインビル株式会社。設立は西暦二〇十五年というから凡そ百年ほど前ということになる。この雑居ビル経営をするクロスラインこそ『ドリコン』など斬新的な発明を成功させた企業だと知る者は多い。それこそ赤ん坊が乗る電気アシストベビーカーから宇宙葬まで一生をお世話になることになるのだ。

 巷に溢れる売り物、出版、機器、自動車や船舶、スペースシャトルに至るまで、クロスライン社の斜め十文字が入れられたロゴを見掛けない日は無いというほどである。

 日本が世界に誇る巨大企業である。それの存在を知らないと言う光耀は画面をジッと見つめている。クロスラインビルが製造と著作権を持つ品物の一覧表が表示されている。覚えるつもりはないが、気になる項目だけを頭に入れた。速度は遅いが流し読みである。

「ドリコン、アシストメイル、高々度輸送シャトル、宇宙船に軌道エレベータの建築はまだ途中、二十年前に完成した高々度中継ステーションの運営権と地主。地主って言い方でいいのか、これ?新型内燃機関全般の利権まであるぜ。月面移住計画はまだ着工していないけど、今世紀中には実行させるとか。それら全般の書物からポスター、カレンダーまでを独占しているのか。確かに凄いが、雑居ビルの運営って名目になっているけど、どういうことだ?」

 一学はすでに車を降りて警備員と話を始めている。ガレージが開放されて空いているスペースに誘導された。その最中の情報収集であった。

「諸説あるんだが、創業者の室井聡って人は面倒くさがりな人柄だったらしい。宝くじで高額当選して、雑居ビルを作って後はのんびり家賃収入で暮らそうと考えていたそうだ」

「それだけを聞くとダメ人間だよな」

『光耀に負けず劣らずだったわ』

 装着したドリコンの画面に舌を出した。

「まあ、何なんだろうな。全てが偶然さ。室井聡の周囲には非常に有能な人材が集まったということだ。まずは興味本位で始めた工業用アシストメイルの開発が成功して事業を広げていくことになる。それからガソリンエンジンやディーゼル、ジェットエンジンに代わる光粒子を用いた内燃機関を発明して、そいつを単車や車、大型ジャンボ機に搭載して世界中にばら撒くと流通の基盤を作り、当時はまだ発展途上だった貧しい国々に積極的に支援をして信頼を得たらしい。二十年くらいで世界一の会社となった」

「詳しいですね」

「ああ、大学を出て一度はクロスラインに就職したからな。直ぐに辞めたけど、そのくらいは知っておかないと中で話についていけなかったんだよ」

「そんな話は初めて聞きましたけど。なんで辞めたんですか?あそこの離職率はかなり低いって噂ですよね。しかし、内部はドロドロの人間関係で……」

 助手席を降りながら、前髪を掻き上げた。様になる姿である。

「マジシャン事業部を作ってくれなかったんだよ」

 当然だろうと、和田一学と共に屋敷に消えて行った。

「三流手品の方に魅力を感じるなんて、いろいろな人間がいるもんですね」

 光耀は大笑いした。普段は大人しい健太郎が、諏訪八雲を三流などと評したのが面白かったのだ。

「さて、俺たちも仕事を始めるか」

「そうですね」

 ハッチバックを開けて必要な器材を降ろした。ドリコンの開発と生産を行う会社の経営者の自宅である。設備は元々整っているそうで、配線をロストゲッターズの機器と接続するだけで良いらしい。いちいち依頼者に眠ってもらうことになるパラダイスシートを寝室や居室まで運ぶ手間が掛からないのは素晴らしいことだった。

 撤収もスムーズに行くだろう。警備員はこういう力仕事を手伝ってはくれないのが残念だった。

「どうしたのよ?」

 そこに若い女性の声が飛び込んできた。青い制服を着た警備員は軽く敬礼をして通用門を開けた。そこと野外ガレージは繋がっているのだ。ついでに言えば玄関もすぐ目の前である。門と駐車場と玄関、警備小屋を近くに配した効率的な設計であった。

胡散臭そうに作業車を見つめる目は黒々と光っている。健太郎よりもすっと背の高い女性であった。

「ロストゲッターズ?それスペル間違ってない?それじゃゲッタラズになっているわよ。またお爺ちゃんが忘れ物でもして呼び出されたのかしら?」

 創業者の後を継いだ孫の室井高志、その孫娘のようだった。

「ええ、まあ、そんなところです。ご迷惑はかけませんので。よくあることなんですか?」

「年に三回くらいね。素直に自分とこの職員を呼べばいいのに、変な所で見栄を張って外注しちゃうのよ。君たちは空星学園の生徒なの?そのグレイの制服は目立つわよね」

 見た目から大学生くらいだろうか。長い黒髪は年上の雰囲気を持っていた。そろそろ暑くなることもあり、ノースリーブのシャツにホットパンツに生足であった。肩から下げているバッグはブランド物ではなかったが、お洒落な感じがした。美人学生のお嬢様を地で行く風貌である。

「そのお陰で俺たちは仕事に有りつけたんだけどな。クイーンの自宅だとは思わなかったよ」

「お?私をその名前で呼ぶということは、どこかのライヴハウスに出入りしているのかしら?今は学校が忙しいから、活動はしていないけどね」

 まあな、とぶっきらぼうに答えた。どうも上から目線の女性は苦手だった。

「渋谷の何とかって開場だったな。見たことがある。ステージではカツラ被っていたけど、その声は間違いないよな。こいつもそう言っている」

 左腕を掲げるようにして画面を見せた。

『あなたの声、とても素敵だったわ。昔のマスターを思い出しちゃった』と表示されている。

「昔のマスターね。……面白そうだから見学させなさいよ」

 童女のように笑う女性であるが、一度言い出したら引かないということを知っていた光耀は肩を落とした。見てもつまらないだろうに、と。



 クロスラインビルの創業者、室井聡は齢八十を過ぎて現役であったという。

 その為、二代目となったのは彼の子供たちではなく、孫の高志であった。その男性も今年で六十になる。

「いやあ、申し訳ない。会社の金庫の暗証番号を忘れてしまって。施錠して解除する。また施錠するたびに番号を変えるタイプの金庫なんですが、何処かにメモ紙をやってしまいまして。その中に明日の会議で使う資料を入れてあるもので、どうしても今夜中に思い出さなければならないのです」

 白髪は多いが禿げ上がるまでにまだ数年はかかる。印象としてほっそりとした男性である。にこやかに笑う姿は大企業の社長とは思えない。少なくともコストの削減と次の仕事のことばかりを考えている一学とは貫禄に雲泥の違いがある。

 彼は仕事帰りに宝石商に立ち寄ったらしい。そこで場所をわきまえず激しい剣幕で怒鳴りこんできた一学を紹介されることになった。狂犬のような男に仕事を依頼する気になったものだと、神経の太さはさすがだと、宝石商を営む老婆が苦笑したことを二人は知らない。

「事情はよく判りました。さぞ、お困りだったことでしょう。しかし、我々にお任せくだされば、今夜はぐっすり眠れることをお約束致しましょう」

 いつになく強気に胸を張る。

「詳しい話を聞く前に、こちらに置かれているパラダイスシートを拝見してもよろしいでしょうか?」

 諏訪八雲が間に入る。無駄話に付き合うつもりはなかった。日が暮れる前に帰宅したかったからだ。

 パラダイスシート。それは夢案内人と依頼者が横になるシートである。ロストゲッターズの車両に搭載されている中古のシートがそれにあたり、依頼者側にも同様の設備をもったシートが必要になる。普通は記憶探偵社が備えて持っているものであるが、機械がぎっしりと詰まったリクライニングチェアはかなりの重量がある。指定された部屋まで運ぶのが大変なのだが、その辺は開発会社の経営者宅である。

「ええ、地下室にありますよ。必要ないでしょうが、ついでにドリコンも。旧タイプですが、ちゃんと使えます」

 その事を外にいる二人に告げて戻ってきた八雲は、さらに室井聡の長話に付き合わされることになる。



「ちゃんと使えるように整備しているのですか?」

 硬いコード類が床を傷付けないように両手で抱えながら、健太郎が質問を口にした。

「というより、お爺ちゃんが趣味で使っているわ。若い女の子たちに囲まれた仮想空間を楽しみたいですって。お祖母ちゃんには絶対に言えないけど」

 そう言って地下室に案内してくれたのはクイーンこと、室井若菜であった。鞄を自室に置いてきて、それから走って階段を降りてきた。その手には古い鍵が握られている。

 ドリコンには記憶を取り戻すだけではなく、そういう使い方もあるのだ。使用者の欲望を叶えた世界を夢見させてくれるのである。

『ドリコンの誕生秘話に則った正しい使い方だわ。私もいろんな人の欲望を叶えてきたものよ』

 百年前の人々しか知りえぬ同調を示したのはアテナである。

「何のことだ?」

「宇宙に行きたいけど、当時の技術力ではそうはいかなかったの。だから、行った気分にさせてくれる妄想マシーンとして、開発が始められたということよ。月面着陸なんて私も夢世界でしか試せていないわ。死ぬまでには行けそうだけど」

 若菜が解説を加えてくれる。地下室に通じる鍵は彼女が保管することになっているらしく、祖父もドリコンを利用する度に孫にお願いしに来るという。

「室井聡が生前に使っていた地下書斎。今の管理者は私だもの」 

 二十歳の娘にそのような大任を任せる家族であった。これに関してはうちの家系は面倒臭がり屋が多くて、と一言で片付けられてしまった。

 健太郎の前を行く光耀は薄手の毛布を廊下と階段に敷き詰めている。床を汚さない配慮だ。引越し業者かと思ってしまう時間である。その先には若菜がいて一つの扉を開けた。鍵は使っていない。ドアストッパーで開放してくれた。

 それからスタスタと降りていく。ドアの中に階段があったのだ。照明ももちろんあって次の扉で若菜が止まっている。早く来い、ということだろう。

「どんな屋敷だよ」

 市営の賃貸マンションに家族四人で暮らしている光耀とは世界が違った。なるほど、こういう『異界』を体感したならば、せめて夢の中だけでも好きなようにしたいと思うのは理解できる話である。アテナとハーレムなど想像もできないが。

『失礼なことを考えなかった?脈拍が乱れたわよ』

「……別に」

 光耀は後ろ向きになり何枚もの毛布を並べながら、階段を下っていく。上には健太郎のお尻があった。嫌な予感がして下方を振り向いた。

「なかなか可愛いお尻ね」

「酔っ払ったおっさんかよ」

 にんまりと笑う女性は鍵を使い解錠した。ガチャンという音は意外にも大きくて耳に響いた。特徴的で心地良いものだった。

「あれ?今の音は電子錠だったんですか?見た目とは違ってハイテクですね」

 階段中程で健太郎が指摘した。音だけで理解したことに少し驚いた若菜である。

「大お爺様の時代に開発された、電子錠の初期モデルのプロトタイプよ」

 磁石を用いた電子錠もどきではない。鍵と鍵穴には情報化された一億もの数値配列があり、それらが符号しなければ解錠しない。もちろん、スペアキーも簡単には作れない。

 内開きのドアを開けて入室する。そこは光耀と健太郎が憧れる景色があった。

 完全防音の室内には十本ほどのギターが並べられている。台座に飾られたものもあるが、壁にも掛かっている。年代物のアコギやエレキである。手を触れることも躊躇われる楽器たちは埃一つ付いてはいなかった。

 コレクションの映画や音楽は様々な媒体が電子化されずに、発売された当時のまま陳列されていた。つまり、DVDとBRである。再生するプレイヤーも必要な数だけある。こういう部屋に無骨とも言えるテレビはなく、ロールスクリーンが天井からぶら下がっていた。床に直置きされた大型のアンプは光耀の腰ほどの高さが在った。

 棚には古過ぎてなんのキャラだか判らないが、いろいろな玩具があって目を楽しませてくれる。大小さまざまで中には未開封のような箱が幾つも積まれていた。

「ほえー」

 男子二人が言葉を無くして口をぽかんと開けていた。

 書斎机はそれほど大きくはなく、台と足の部分には屹立した馬に乗る兵士が彫刻されている。きっと年代物の応接セットなのだろう。椅子も同じデザインだった。

 来客を迎えるソファーセットも座るのを躊躇うくらい細やかな刺繍が施されていた。そこに座らずに、若菜は本棚に向かった。

「更に地下が在るわ」

 何をどう操作したのかは判らない。しかし、本棚は右にゆっくりとスライドしていった。滑らかに微かな地響きも立てずに、それは移動していった。

「……忍者屋敷かよ」

「よく知っていましたね。そんな言葉」

 ここの先にパラダイスシートがあるのだ。明かりを付けて更に進む。

「この向こうに入った部外者は少ないわ。全く何を忘れたのかは知らないけど、ここに人を入れるなんて」

「俺としては上の書斎だけで充分だけどな」

「ええ、男の憧れる空間ですよね」

「祖父と父もそんなことを言っているわね。よく判らないけど」

 段は少なく、そうこうしている内に扉もない入り口が迎えてくれた。地下室なのだから湿っぽい。こういう怪しげな雰囲気を想像していた健太郎は、ようやく待ち望んでいた景色に辿り着いたと喜んだ。安堵に等しい。

 駐車場からここまで見慣れない物ばかりだったので落ち着かなかったのだ。

 部屋の中央にパラダイスシートがあった。その横にはモニタやら調整に必要な機器があって、確かにすぐ使えそうな状態であると判断できた。壁には一際大きなモニタが架かっていてあり、何の目的でこんな特大サイズを運び込んだのか不明であった。

健太郎が念のため調べるのはパラダイスシートとその周辺機器だけである。機械類とアテナの相性などを把握するのが、彼の業務内容となる。

「これは最新型ですか?それとも実験機?このパラダイスシートは市販されていませんよね。ドリコンは……ハートのジャック。トランプシリーズですか。また良い物をお持ちですね」

「金に糸目を掛けない祖父の数多い趣味の一つよ。常に最新の物を用意したがるのは、これに限ったことではないわ。車も家電も、二年同じ物を使ったことがないんだから。使い方は知っているけど、整備の方はまったく知らないから任せるわね」

 それに関しては、ちょっとお借りしますね、と生返事をした。機械に夢中になると他のことに意識が集中しなくなるのだ。コード類をパラダイスシートの近くに置いた光耀は他の椅子に座った。初めて触る機械でも、操作や性能を理解するのに三十分も必要としないのは判り切っていた。有能な後輩である。

 壁にかかった大型のディスプレイは沈黙しちゃんと写るのか判らない。酒瓶を並べる為の棚には今は何もなかったが、塵などはまったく落ちていなかった。一見すると殺風景に感じるのだが、この熱意までが伝わってくるような空気はなんだろう。

「上の部屋はただのお飾り。趣味のための。大お爺様の本当の書斎はここなのよ。世の中に在るいろんな発明たちは、ここで発想を生み出され構想を練り込まれて、クロスラインビルを経由して発信されたわ」

 聞いて、なるほどと思った。このシンプルな部屋は時間を気にすること無く自分の世界に入り込むことができるだろう。フッと壁紙のない打ちっぱなしのコンクリ壁を見た。何かが掘られている。

『辛いことを思い出させるだけの過去ならば消えてしまえ!』

 一体誰がいつ書き込んだものなのか。悲壮感を滲ませて荒々しくそれはあった。

「準備は整っているか?」

 しばらくすると諏訪八雲が階段を降りてきた。室井高志と和田一学がその後ろに続いている。配線を踏まないように足元を気にしている。

「これは見事な書斎ですな。引き篭って手品のネタを考えるのにちょうどいい」

 八雲は部屋中を見渡して感想を述べた。年上の男を無視して祖父に近づいた若菜は、いたずらを繰り返す飼い猫を叱るような声で、

「今度はいったい何を忘れちゃったのかしら?」

 言葉少なく詰問する。同じ目線の孫に睨まれて高志は、軽く呻いてしまった。

 今はまだ六月であるが、今年はこれで三回目である。しかも、この秘密の部屋に業者を入れなければならないほどの緊急を要する物忘れとは。孫でなくても知りたくなる。

「実は、明日の会議で使う資料を入れた金庫の番号を、ちょっとな」

 あくまで忘れたとは言わない。口にすれば身を守れなくなるのは経験から学んだことだ。

「……明日の会議って、軌道エレベータの試験運用開始に関するものだったわよね?そんな大事な物をしまった金庫の番号を忘れたの?」

「忘れたんじゃないよ!メモ紙に残して置いたんだ。その紙がどこかにいってしまって」

 冷や汗まで書き始める始末である。怒ると怖い孫である。必死に抗弁した。

「いよいよ、軌道エレベータが動くんですか?」

 助け舟は八雲が出した。こういう依頼者同士の会話には入り込まないのが常識である。敢えて、それを破ったのは興味ある内容だったからではない。単純にこのままでは仕事が先に進まないからだった。

「ええ、そうよ。黙秘はしてもらうわよ」

「神に誓って。それで社長さんはすぐにでも眠れそうですか?良ければ、作業に掛かりたいのですが」

 この場合の社長とはもちろん、室井高志の方である。もう一人の社長は腕を組んでいるだけである。現場に臨んでは彼にやるべきことはなく、こうして突っ立っているのだ。人相の悪い石像と変わらない。それにしても早急な性格の部下だと思いつつ、家族間の非難合戦なら自分たちが帰った後にして欲しいと考えていたのは事実だ。頷く高志を見て、

「よし、始めるぞ。健太郎、セッティングは終わっているのか?」

「うちのもクロスライン製ですからね。バッチリです」

「よし、八雲は室井氏を眠らせてくれ。光耀、車で待機しろ。速やかに!」

 若菜が健太郎に手を合わせた。

「どうしたんです?」

「うちの製品を使ってくださって、ありがとうございます。それを身体で表現したの」

 一人で地下室を後にした光耀は、コードを頼りに作業車に戻った。時計を見ると五時半だ。仕事に入る前に、妹にメールするため携帯電話を取り出した。

『そんなものを使わなくても私が代筆してあげるわよ』

「お前はマジであいつに嫌われているから、止めてくれ。それよりセッティングだけのパラダイスシートを、いきなり使用するなんて大丈夫なのか?試作機だか実験機って話だったけど」

『あら、心配してくれるの?ふふ、問題ないわ。私は確かにドリコン初期に製造されたけど、知っての通りハードもソフトも現行機以上の性能を発揮して見せるわ。未発表のパラダイスシートにもぶっつけ本番で対応してみせるわよ』

「頼りにしているぜ、相棒!」

 メールを送信してその返信を待たずに、身体状況を測定するコードを両手首と両足首につけた。サンバイザーが着いたヘルメットを被る。これは中がモニタになっていて、外の情報が入ってくることもできたが、今は違う。

 これから夢世界に行くための重要な儀式が行われる。

 モニタが映し出しているのは、どこまでも続く青い空と穏やかな草原である。そこに膝の高さほどの低くて白い柵が立っている。木製のそれは本当に何者かの侵攻を阻むつもりがあるのか平穏そのものである。その柵を画面の端から現れた羊が一匹飛び越えて、逆側に消えた。

 次の羊がやってきて同じように飛んで行って消える。

 羊が二匹、羊が三匹である。

 併せて脳細胞を眠りへと誘う電波をヘルメットが放出していた。そういう作用が在るとはいえ、百匹まで起きていられる人間は少ない。光耀の場合は三十匹が限度だった。

 すぐに寝息を立て始めた相棒をモニタから眺めていたアテナは、手足があれば毛布を掛けてあげたくなった。人を呼んでそうしなかったのは、他人は光耀に触って欲しくなかったからだ。

『こっちの準備は整ったわよ。いつも通り落ちるのは早いわよね』

 有線で接続された地下室にいる一行に『話』かけた。

「こっちはもう少しです」

 応答しながら、パラダイスシートに横たわる老人の前で、糸で吊った五円玉を揺らす八雲を窺った。

「あなたはだんだん眠くなる。俺が指をパチンと叩くと、あなたは深く眠る。そして、いつもの職場、クロスラインビル本社にいる。だんだん眠くなってきて……はい」

 掛け声と同時に室井氏の眼前で指を鳴らした。その瞬間に首がガクンと脱力した。ただ眠ればいいという訳ではない。取り戻したい記憶に繋がる様に眠らなければならないのだ。

「睡眠術というやつかしら?鮮やかね」

 光耀と同じようなヘルメットを付けられた室井はすぐにイビキをかき始めることになる。

「室井氏の精神波長にアテナさんが誘導した先輩の波長が交わるまで三……二、一、夢世界出現しました。構築された世界への、三人の侵入を確認。ターミナルに居ます。ニュートラルライト、安定レベル、え?九四パーセントに達している!有り得ない!」

 本職手品師の諏訪八雲は、和田一学と健太郎が驚愕している理由が判らず、

「どういうことだ?」と尋ねた。

「夢世界への渡航を安定させるレベルは七十パーセント前後が普通ね。それでも優秀なドリコンと夢案内人との同調の成果と言えるわ。百パーセントを再現できれば現実世界となんら代わることのない世界を夢の中で作り上げたということよ。風も匂いも何もかもが同じ仮想空間ということになるの。多分、その中で何かを食べれば、肉体も満腹中枢を満たされるはず」

 詳しい若菜が説明してくれた。

「ギネス記録に在る安定レベルは九五、三五九パーセントです。これはスウェーデンの研究者チームが瞬間的に叩きだした数値です。記録を狙うためにもっとアテナさんに合った調整をすれば世界記録は先輩とアテナさんのものにできそうなのに。当然、非公式なんですよね?」

「もちろんよ。機密厳守はあなたがたの義務のはずよ。それにこれはとても危険なことよ。夢世界での死亡が、現実にある身体へも同義となる可能性まで飛躍的に近づくことになるわ」

 これによって完全犯罪による暗殺が安易に可能となってしまうのだ。目標となる人物の夢を見て、そこで殺害してしまえばいい。

「リアルでのリスクを背負わずに、リアルに等しいヴァーチャルで好き勝手できるのであれば、それはもはやヴァーチャルではない。堕落させるための道具だな」

「そうね。人が夢見続けてきた成果がここに叶いそうな訳だけど、達成感はないわね。危惧することの方が大きいわ。それに何度試してもハートのジャックでは九十を超えることも出来なかった。死神、デスサイズのアテナ。凄まじい性能ね」

 健太郎が見つめるモニタの背後で爪を噛んでいた若菜はもう少しで飛び上がってしまいそうになった。

「おーい、そっちでばかり盛り上がらんでくれ!前人未踏の記録を打ち立てられそうなことは喜ばしい。しかし、そうだな。全てのドリコンに与えられた可能性ならばそうなるが、一部の優れたドリコンと所有者にのみ与えられた権限としては大きいな。扱いはまた日を改めて決めるとして、まずは私の捜し物に協力してくれないか」

 眠ってパラダイス界の入り口であるターミナルにいる祖父の声が鼓膜に届いたからだ。

「どうして向こう側の声が聞こえるんでしょう」

 さすがに興味津々に健太郎が若菜に質問してきた。彼女にしかこの現象を解説してくれる人物はいないと確信しての事だった。

「ああ、研究途中のスピーカーとモニタがあるのよ。これを使えば外部にいる私たちにも夢世界を見ることができるわ。プロテクトは何十にも掛けておいたはずなのに、機密プログラムまでアテナは掌握したのかしら?この際だけど、あんまり派手に覗き見しないでね」

 言ってリモコンのスイッチを入れた。そこには室井高志の夢への入り口ターミナルが映し出された。アテナが作った世界である。白い空間だった。

 赤い髪の毛を垂らした光耀と物語に出てくる妖精の様な容姿のアテナは、今回は秘書の格好をしている。ストライプ柄のスーツを着こなしていた。もちろん、マイクロミニだ。その網タイツに釘付けの視線から、このカメラが誰の視線なのかを察した。

 エロジジイめ、と毒づくことができたのは孫の特権である。

「アテナ、視点を切り替えてもらえる?あなたの視線の方がいいのではないかしら?普通は歩くとどうしてもブレてしまうものだけど、上手く補正できるでしょう?」

「私の美脚を世間にアピールしようと思っていたのに」

 にっこり笑ったアテナの姿は一瞬で消えて代わりに、室井氏の隣に立つクレイモアを写し出した。こっちはこっちで意識してしまったのか、前髪をいじり始めた。室井氏は当然、先ほどと同じシャツにスラックスである。靴はアテナのサービスなのか、革靴を履いていた。

「確かプライバシーの心外に関わるからと、これ系の発明は中止されたと思いましたが?」

「それは半世紀も前の話よね。ドリコンが世界的に普及し新しい利用価値として要望が高まりつつあるのよ。主に警察関係からね」

 取り調べや調査の時には大いに役立ちそうではある。しかし、他人の夢の中に侵入するという行為は、やはり反対意見も多数寄せられることだろう。映像として記録に残すのが前提とあれば尚の事だ。

「どんな危険を孕んでいようとも、俺達の依頼には関係ない!夢世界の可視化は室井氏も承諾しているということでよろしいのでしょうか?」

「ああ、もちろんだよ。私が働いている姿を、孫に見せてやれるチャンスじゃないか!」

 別に見たくもないわね、と呟いた。部屋のどこかに在るマイクが拾えないほど小声で。

「はいはい、では行きますか」

 光耀、この世界ではザ・クレイモアというコードネームの夢案内人は、うんざりしながらターミナルの扉を開けた。

 そこは見たことのない通路である。日中であるのかスーツ姿の人々が行き交っている。

「ここは覚えているよ。本社ビルだな。午後の会議が終わって自室に戻るところだ」

 なるほど、そこから記憶の欠落が始まっているということか。高志が先を歩く。近過去なので、先日の老婆の時とは違い『主観タイプ』で記憶を辿っていく。

「まずはエレベータに乗る。このうえの階に私の部屋があるからね」

 廊下の先に見えるエレベータに向かい始めると、考え事をしながら歩いていた人々がピタリと止まった。

「停止現象。早くも何か忘れていないかしら?」

 二人の後ろを数歩遅れて歩くアテナの声がスピーカーから聞こえてきた。彼女の視線なので、もちろんアテナは入り込まないのだ。

「むむ、そういえば、靴紐が解けていたので、結び直したな」

 足元を見るとアテナが用意した靴は紐がない。それでもしゃがみこんで結える振りをする。その時、耳に馴染んだ鈴の音が聞こえた。

「一つクリア。後幾つあるのでしょうね」

 幸先の悪いスタートにクレイモアは天井を見上げた。人々はまだ動き出さない。

「何かあったかな。うーん、携帯のメールチェックをしたかな」

 鈴の音が聞こえて動き出した部下たちは社長を気に留めることもない。直接的に関わった人間以外は彼がそこに居ると認識しないのだ。三人はエレベータを待った。現在地を教えてくれるランプは四階で止まったままだ。

「再び停止現象。ここまでの間にまた忘れていることがあるということです」

 これはクレイモアである。

「はて?」

 小首を傾げる。その背後には手を飛ばして停止している三十代と見られる男性社員がいた。書類の入った封筒を持っている。

「この男性との会話はありませんでしたか?」

「ん?おお、この封筒を受け取ったぞ!」

 その社員は高志を呼び止め振り向かせて、書類を手渡した。

「例の新型アシストメイルの実験結果です。ご納得いただければすぐにでも量産体制に入ります」

「判った。目を通しておくよ。という会話をした」

「余計なことは口にしないでください。夢世界は独立しているわけではないのです。もしかしたら、この男が見る夢とこの経路が繋がってしまった場合、あなたがこの時に『という会話をした』と言ったと記憶として覚えてしまうこともあるでしょう」

 釘を刺したクレイモアは開いたエレベータに乗り込んだ。

「脳の共鳴作用かね?私は否定的だな。確かにそう説明をすると納得のいく現象が古今東西、実例としてあるのだが、個人の世界は単独で成立している。他者への影響や他者からの介入などは、不可解な事件を解決させるために中世の人々が考えだした妄想に近い」

 同じ夜に遠く離れた複数の人間が、酷似した内容の夢を見ることがある。これに一つの仮定として答えを出したのが、脳共鳴である。つまり、個は一人で完結しているのではなく、もっと高次元では連結しているという仮説である。三次元以上を体感できない人間では解を導き出すことなどはできないのだが、その手の学問は古来、オカルトとしての扱いを受けていた。室井氏が言っているのはそういうことだ。幽霊や宇宙人などの存在を信じていないのだろう。

 エレベータは十五階で止まった。そこは重役室などがあるフロアで乗り込んでくる者はいなかった。通い慣れた廊下である。いつもの足取りで進む。

 木製の扉は鍵などされていない。社長室に無断で入り込むような輩はいないのが彼の常識であった。アテナが目を見張るドアノブを回して入室した。ある重役の個人秘書がコーヒーの入ったトレイを持っていた。見知った顔だったので気さくに声をかけるのを忘れなかった。欠落していた部分ではなかったので、鈴は聞こえてこない。

「どうした?」

「このドアノブ、純金よ。さすが、世界一のお金持ちね」

 それが左右と内側と外側に四つもある。ギュッと握り力を込めた。壊れたら大問題だ。

「夢世界から物質を持ち出すことは物理的に不可能よ。無駄なことは止めなさい」

「約束事としてやってみただけだよ」

 肩をすくめて言い訳をしたクレイモアは社長室に入った。どことなく自宅地下一階にあった書斎を連想させる作りである。雰囲気が似ていた。

 大きなデスクが窓際にあり、その右手にこれまた大きな本棚。その前に応接セットがある。横になって手足を伸ばせそうなサイズである。デスクの左手には、なるほど、クレイモアより背の高い金庫が待ち構えていた。明らかに特注品の金庫は、このビルの屋上から落としても破損しないという。それ以前の事として、部屋から運び出すことが出来ない。

「アシストメイル三機でなんとか運び込んだのだ。壁をぶち壊してね。エレベータの積載重量ギリギリだった。作りとしては頑丈の一言なのだが、暗証番号を忘れてしまうと、厄介なものでね。ガズバーナーで穴を開けようとすると三日はかかる」

「普通、番号を忘れることは考慮しないでしょうからね」

 この部屋に戻ってきた高志はまずデスクに座り、それから部下の一人に電話をしたのだという。その行動をそのまま、なぞらえてもらった。海外におけるスペースシャトルの運行を確認しただけのようだ。これから宇宙に人類が進出する足掛かりとなる高々度軌道ステーションは現在、観光で成り立っており維持だけで発生する巨額の金額は賄えない。その為、少しでもコストを下げて人々をステーションに招いて観光料を徴収しなければならないのだ。軌道エレベータや宇宙産業などはまだこれからの事業である。

 資源衛星でも運良く発見、確保出来れば資金を集められるのだが、などと零している。

「これだけの会社になると運営も大変よね。一学なんか気楽なものよ」

『一言多いんだよ!』

 仮想空間に本人の声が轟いた。

「これは私の記憶に無いな」

 当然である。電話を終えた高志はそれから金庫に向かった。この時の解錠番号は覚えていたようで、すんなり空いた。必要な物を取り出して、数字を選んで番号を入力する。それを懐から出したメモ紙に書いた。そのように手が動いたのだ。

「ありゃ、何も書かれていないぞ!」

「思い出していないのだから、そうなるでしょうね。そのメモ紙をどこにやったのかが重要となります」

 クレイモアが指摘した。

「ヴァーチャルでのプレイは何度もあるし、記憶を取り戻すために来たことも在る!しかし何回やっても焦れったいな!プレイならば私はいつでもスーパーマンなのに。これがプレイならさっさと番号を取り戻して、シャワーを浴びているはずだ。それからプールで美女たちと水中バレープレイだ!」

『あんまりプレイを連発しないでちょうだい!身内として恥ずかしいわ!』

 外部から声が聞こえた。この声はどこからしているのだろうか。スピーカーのようなものは見当たらないのだが。そういえば、アテナの通信機ゲミュートがチカチカいつも異常に点滅を繰り返している。まさか、外部スピーカーの役目まで果たしているのだろうか。

 室井高志は金庫をロックしてメモ紙を手にデスクに戻った。その紙を四つ折りに畳んで置いた。

「なんで灰皿の中に置いたんですか?」

 なるべく冷たくならないように言い放ったクレイモアである。

「ふむ、意識はしていないな」

 小首を傾げて悩んだ。

 三度、停止現象である。この部屋に停止させられるものはないのだが、スパイラル界の空気が変わる感触とでもいうものを敏感に感じ取っていた。わざわざアテナに確認することもないのだ。

 本棚の前にあるソファに腰掛けたとアテナは、秘書らしく膝を揃えてジッと高志が記憶を取り戻すのを待っている。その隣に座るクレイモアは頭を後ろに反り返らせて本棚を天地逆さまに見ていた。

「安定レベルが百に近づくほど、時間の流れも同じになっていくわ。ここに入ってから小一時間。思い出せないものは仕方ないわよ。ミッションクリアならず、かしらね」

 デスクに座った後の行動をどうしても思い出せない高志は頭を抱えて黙っている。

「そうだな。灰皿にメモ紙を置いた所まで思い出せたんだから、現実世界の灰皿を確認するとか、掃除をしてくれる人を当たるとか、手掛かりは掴めたわけだし。ボケボケ老人が思い出すのを待っていたら、俺まで爺になっちまうぜ」

 クレイモアが同意を示した。こういう事もあるのだ。ミッション達成率七十パーセントを誇る優秀な夢案内人たちでもお手上げであった。彼らの仕事はあくまでも記憶を取り戻すためのサポートでしか無いのだ。

「全く思い出せん!これは本当に私の記憶世界か?」

 とうとう疑い始めた高志はタバコに火をつけた。

『ちょっと!お医者さんから喫煙は止められているはずでしょう!』

 孫の大声に、

「夢世界で吸う分には健康に関わりないだろう」

『現実で持ち歩いていない物を取り出せるのはドリコンだけでしょう!待っていなさい』

 何をしているのか想像は着いた。横たわっている肉体のポケットを漁っているのだ。

「こら!孫にそんなところを触られても!」

『ほら!あった!お母さんに言いつけてやるから覚悟しなさい!』

 勝ち誇ったように煙草を取り上げて、見せつけている様子が浮かんできそうだった。

「とほほ、自室だったのでいつもの調子で吸ってしまった」

 肩を落として深く吸い込む。灰を灰皿に捨てた。鈴の音が響いた。

「まさか、喫煙がキーアクションだったのか?」

「どうやらそのようだわ。この時の状況をそのまま取ってみてねって言っているのに」

「孫の前で煙草は吸えんよ。娘に怒られるからな」

 三人が見ている前で吸殻はメモ紙に燃え移り燃やしてしまった。後には灰が残るのみであった。

「これでは探しても見つからないわね」

 アテナが宣言した。

「なんとかしてくれ!」

 室井氏の絶叫が室内に響く。それを他所にアテナは大丈夫よと答えた。大きな音は鈴だった。ミッションを完遂したことで応接セットのテーブルに鍵が現れたからだ。

「これを使えばあなたは、全ての記憶を取り戻すわ。暗証番号もね。鍵穴はどこかしら?」

 それはもちろん黒光りする金庫のど真ん中に出現していた。

「よし!これを回せばいいんだな!」

 嬉々として手にした鍵を差し込んで右回りに回す。すると、室井氏は、おお、おおお!と歓喜の声を上げた。

「思い出した十桁の数字を間違いない!私は部屋でこの番号を選んだのだ!」

 感極まって顔中に笑顔が広がる。新大陸を発見した中世の冒険者も、その瞬間にはこういう顔をしたのかもしれない。

「おっさんの顔なんか眺めていてもつまんないので、これでミッション終了……」

 冷酷な声はアテナが下した。その時である。窓の外に異変が起こった。

 青く晴れていた空にぽっかり黒い穴が開いていたのだ。

 外部からの侵入者と思われた。

「また夢壊しか?」

「いえ、この反応はもっと悪いわ!健ちゃん、ステイタスはどうなっているの?」

 アテナが叫んだ。

『い、いつの間にかニュートラルライトからカオスライトに変わっています!夢喰いが出現しました!逃げてください』

 言われるまでもない。すでに三人は社長室を後にして走り出していた。

 エレベータまで行って下行きのボタンを押した。

「まさか、夢喰いに遭遇するとはな」

「この夢世界の主である室井さんが体感していた、過度のストレスに引き寄せられたのでしょうね。壁も弱くなるわ。無事にターミナルまで辿り着ければいいのだけれど」

 やってきたエレベータに乗り込んだ。その壁からバリバリと喰われる音がした。勢い良く煎餅を齧るとこういう音がする。この密閉された場所を襲われたら最悪の事態となる。一階まで落下することだって有り得るのだ。

「ちょっと手荒なことになりますが、せっかく思い出した暗証番号をまた忘れないでくださいね」

 クレイモアが注意した。その手にはすでにアテナによって与えられたトンファが握られている。暴れるには狭い廊下を突っ切ってターミナルを目指すのだ。剣や槍よりは適応していると思われた。彼のモードは補助を第一とするプリーストであり、直接の戦闘には不向きだった。

「ファイターモードに切り替える?」

「このままでいい。ターミナルまではそんなに離れていなかったはずだ。逃げ切るぞ」

 エレベータのドアが開かれた。そこには夢喰いが溢れていた。

 人の顔ほどの大きさの怪物群である。それが廊下中をところ狭しと蠢いていた。ざっと百匹はいるだろうか。獲物を定めて飛びついてこようとしている。

 先制攻撃を仕掛けたクレイモアの後方から、光る結界に包まれたアテナと室井高志が続いた。アテナが発動させた鎖の防御壁である。

 トンファを無尽に回転させての大移動は苦戦を強いられ、一匹ではなんともない夢喰いたちもこれだけの数が入れば充分行く手を遮る障壁となる。体力は無限に在るわけではない。一撃で粉砕できる昆虫たちは次々に飛来し、視界を覆い尽くすほどであった。それらの牙から自身を守りつつ打ち倒していく。

 当然、夢喰いは邪魔なクレイモアを先に狙ってきた。光輪連鎖の結界に守られた二人は彼が作る道を追うだけでいい。時々、突進してくる夢喰いに歩調を乱されたがそれだけだ。それもクレイモアが先頭を行ってくれているおかげである。アテナ単独ではこいつらの攻勢に晒されると満足に前進することもできない。

 ターミナルは確かに近かった。

 白い部屋への入り口に差し迫り、クレイモアはトンファから短い小剣二本に切り替えた。刃物はアテナが幾らでも提供してくれるが、今のはトンファが小剣に変化したのだ。ターミナルへのドアを、身体を張って剣を振るい侵入を拒む。

 光輪連鎖を中断したアテナはその背中と壁の隙間をように室井氏を頭から投げ突っ込ませた。続いてアテナである。二人はターミナル内に入った。

「いいわよ!あなたが入ったと同時にドアを閉鎖するわ!」

 悲鳴混じりで叫んだ。相棒の合図を待っていたクレイモアは開かれたままのドアへ後ろ向きに入った。宣言通りに直ぐに動き出したドアが閉じられる直前に一匹の夢喰いがついてきた。それを足で踏み潰して退治したのは高志であった。

「人の夢を食い荒らす害虫め!これでもか、これでもか!」

 語尾を強めて何度も足を振り下ろした。夢喰いは蛍のような鱗粉を散らして砕け散った。それがこいつらの死である。

 存在理由はもちろん、発生原因も不明の夢世界に現れる怪物。そう認識されているのが芋虫に似た姿の夢喰いであった。定説としてはスパイラル界のステイタスがカオスであるほど出現率が高くなり、カオスダークになるとほぼ完全に近い確率で夢世界に侵入してくるという。今回はカオスライトであったためにまだ数が少なくて助かった。

「驚いたわね。夢喰いに襲われるなんて久しぶりだったわ」

「そうだな。さて、帰ろうぜ。腹減ったよ」

 命を失いかねない状況の直ぐ後で、そんな事を平然と言ってのける二人を頼もしいと思った高志は大笑いした。その声が消えるより先に世界は閉鎖された。

 現実世界において、祖父を出迎える以上の喜びを抱きながらも、微塵も表面に出さなかった室井若菜は、誰からも見られないように持ち上がってしまった口元を手で隠した。









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