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死神と恋人



  第一章 ジャンボ機のスパイラル界



「もう目を開けても大丈夫ですよ」

 依頼人になる女にザ・クレイモアは優しく話しかけた。

 そう言われてもなかなか勇気が出ず、堅く閉ざされた瞼は細かく震えるばかりである。七十になる老婆の顔をいつまでも眺めている趣味のない、健全な十八歳のクレイモアはもう一度、同じ言葉を繰り返した。

「もう目を開けても大丈夫ですよ。ここはかなり安定した夢世界のようですから」

 安心を引き出そうとした。現実世界において依頼をしてきた強欲な金持ちとは別人のように見える。着ている物は自己紹介の時と同じ無地の黒いブラウスに脛まであるベージュのタイトスカートである。イヤリング、ネックレス、左手の薬指にある指輪といった装飾品まで見事に再現されている。

 依頼者は目を開けてクレイモアを見た。彼女は一瞬、それが誰か判らなくて悲鳴を上げそうになった。知らない男性がいるとでも思ったのだろうか。

「さきほどお会いした、夢案内人の鈴ヶ森光耀です。この世界ではクレイモアというコードネームですね。夢世界では少し外観が変わるので。大昔に在ったアバターというネット上で自身を表すデフォルメキャラをご存知ですか?あれに近い感じでドリキャラと呼ばれています」

 そういう彼の容姿は現実的ではなかった。顔は確かに彼ら記憶探偵社『ロストゲッターズ』の事務所にいた青年と同じである。しかし、頭髪は赤く肩まで垂れていた。身長や体格に変化はないが、上下とも黒皮のライダースーツであった。左腕には夢案内人だけが持つ『ドリコン』を装着していた。手首から肘の間に収まる長さである。灰色のパソコンのようにも見えるが、キーボードなどはなく大きな画面が在るばかりである。これが彼と彼女を、彼女の夢世界に誘ったのだと理解した。

「はい!そして、もう一人の夢案内人、現地合流、現地解散主義の夢世界の妖精、アテナです!」

 青年の背後に黒髪の美しい女性が立っていた。色白で小顔、ほっそりとした首は妙な色気まで醸し出しているアテナは、二十代前と思われる顔立ちをしている。異様に短いスカートにどのような意味があるのかは、本人しか知り得ぬことである。網タイツから伸びる美脚を強調し、今回のステージに相応しくキャビンアテンダントの制服に身を包んでいた。

 頭部にはゲミュートと呼ばれるティアラ型の通信機があり、角が生えているようにも見えた。

「『ドリコン』の擬似人格に格好も見た目も関係ないけどな」

 クレイモアが毒づいた。老婆は老眼鏡の位置を持ち上げて、二人、特にアテナを凝視する。

「事前に説明を受けていても、こうして実際に目にするのと大違いね。鈴ヶ森さんはまだいいけど、アテナさんはパソコンの画面で挨拶しただけだからね!とても百年前に作られた技術とは思えないわ」

「夢世界への潜入は初めてでしたね。そうです。夢の世界に他者が入り込む発想は古代中世からずっとあったようですし、哲学者たちは夢や記憶とは何かと必至に模索、さまざまな研究をしたと言います。百年ほど前、それに一応の仮説と組み立てて作られたドリームダイヴコンピュータシステム、通称『ドリコン』。夢を介して記憶を蘇らせることができます。ここはあなたが希望された、あなたの過去のワンシーンです。さあ、失われた記憶を取り戻しに行きましょうか」

 宣言した光耀が扉を開けた。老婆が無くした記憶の復元。彼女がそう望み『ロストゲッターズ』の出番となった。しかし、その記憶がどこにあってどのような手順を踏襲すれば蘇るのか。ミッションによって多種多様であり、それをナビゲートするのが夢案内人のクレイモアと彼の相棒となるシステムによって擬人化されたフェアリー、アテナの務めであった。

 三人は狭くて白い部屋で立ち話をしていた。

 夢と現実の中間地点、アテナが創造したターミナルである。白亜の殺風景な部屋には扉が二つ向きあうように在るだけである。一つは現実世界への帰還。もう一つは老婆の夢への旅立ちである。光耀はドアノブを回した。そこは老婆の夢世界が広がっていた。

 今、まさに大空を飛行中の大型旅客機である。四十年前、羽田空港を出発したこの機はヨーロッパに向けて飛行していた。

 それがエンジントラブルを起こし、日本海に出た辺りで旅客機は墜落することになる。平日だったので乗客にはビジネスマンと、幸運にも長期休暇を取得できた人々が乗り込んでいたらしい。

 座席が満員であったこともあり、墜落の情報は日本中を驚かせたという。生存者は僅か数名でしかなかったから尚の事だ。落下地点が海面であったとはいえ、高々度を飛び到着時間を短縮させたシャトルである。

 操縦者の腕前により旋回し渦を巻くように、直滑降にはならなかったとはいえ、地上二千メートルから落下して生きていられる生物は幸運以外の何ものでもない。

 その一人である老婆は新婚旅行に向かっていたという。

「私が今もこうして生きているのは、きっとただ運がよかっただけなのでしょう。でも、夫はそうではなかったわ。自営で貴金属の輸入を始めた頃だった。仕事も兼ねることになるけど、ヨーロッパを巡らないかって。そう言ってプロポーズされたのよ」

「素敵な男性だったのでしょうね」

 頬に手を当ててアテナが応じた。頭部のゲミュートがピコピコとピンクに点滅している。女性を主張するアテナはこういう話が好きだった。

「そこら辺のボンクラだったら結婚なんかしないわよ。出会いから交際期間、そのプロポーズも挙式だって隅々まで覚えているのに、どうしても思い出せない。飛行機が落下する直前に何を言われたのか」

 その後の混乱があまりに強すぎたのだろう。老婆はすれ違う人々やアテナと少し違う制服を着たキャビンアテンダントと狭い通路を行き交う人々を懐かしそうに眺めている。

 さて、と夢案内人であるクレイモアは考える。失われた記憶への扉。それに至るまでには幾つかのキーアクションが必要となる。

 一番手っ取り早い手段はその時の状況を再現してもらうことであった。こうして会話しその時の事を教えてもらうことで、何がキーとなっているのかを探っているのである。熟練された経験者が得意とする領域であるが、彼はそれに劣らない鋭い勘を持っていた。

 夢世界の再現は二種類に区分される。『主観タイプ』と『俯瞰タイプ』である。どうしてこういう違いが出てくるのは判然としないのだが、傾向として遠い過去は俯瞰タイプ、近過去ならば主観タイプになるようで、今回のような四十年も昔の夢では俯瞰タイプとなっていた。つまり、このシワとシミが目立つ老婆のうら若き頃の女性が機内のどこかにいて拝見出来るということだ。

 当然、過去の世界を踏襲しているので、ここに登場してくる人たちがクレイモアたちを認識することはない。それでも三次元的制約は受けるようで、クレイモアが人にぶつかれば、その人は何か目に視えない物に当たったという反応をする。しかし、それ以上は気にせず、また中断された行動を開始する。ドアやエレベーターに関しても同様でわざわざ手で開けなければならない。腹が減ってもこの世界の物を食べることはできない。実際には口にするだけならば可能なのだが、食欲が満たされることは無い。

 限定された不思議な仮想空間の舞台となった大型旅客機である。

 窓枠から覗く外の景色はまっ暗だった。アレが夢の果てであり、老婆が特に意識していなかったので表現されていないのだ。

 別名スパイラル界など呼ばれる夢世界である。その名の通り、あの果てまで行けば漏斗状に渦巻く壁があるはずだ。上に伸びる螺旋の壁を壊して外に出ることはできない。現状では機内から一歩も出ることができないのだからそれも致し方ない。

「まずはこの時に何をしていたのかを思い出してみてください」

 片時も仕事を忘れることのないクレイモアが促した。

 もっと恋話を聞きたかったアテナは不満そうな表情をした。この擬似人格をプログラムした技術者に怒りを覚える瞬間でもある。もっともその人物たちは既に亡くなっているだろうし、最新作の『ドリコン』に組み込まれたフェアリーは主に対して反抗的な態度はとらないというから、このアテナしか知らない彼としては驚くばかりである。不平不満を口にし、口論さえ出来るコンピュータなど聞いたこともないと、システムに詳しい者は語るのだ。

「私は離陸して座っていたけど、たぶん今はトイレに言っていると思うわ。それから自分の座席に戻ったの」

 通路の奥から何かがガチャンと倒れる音がした。振り返ると乗客の一人とCAが押す手押し車が接触したようだ。積んでいたコップがトレイの上で横倒しになっている。中身が空っぽだったので被害がなかったらしい。お互い頭を下げて、申し訳ないと言い合っている。

 その乗客は夏場という事もあり、露出の多い格好をしている。マイクロミニのワンピースはアテナ顔負けの短さで、微風が吹いただけで下着が見えてしまうだろう。大きく開かれた胸元もお見事で、メロンサイズという言葉を思い出した。容姿端麗で男性の視線を釘付けにしている。機内なのに白い帽子を被っていた。

「あ、あのCAにぶつかったのが私よ」

「嘘だろ!今のあんたからはまったく結びつかないぞ!」

「事実を受け入れなさい。事前に貰った資料と同じ顔だわ」

 大きな声で非難した光耀へアテナがさらに指摘した。

「また書類を見てこなかったのね?」

 憮然とした相棒である。それから老婆を見て考えこむ。どうしても、あの美人と同一人物には思えないのだ。四十年という歳月の恐ろしさを実感した。

「時間の流れが如何に非情なものかを確かめているのかしら?今の暴言は社長さんに報告しておきますよ」

 勘弁して下さいよ、などと言えない立場の赤毛の青年は、笑って誤魔化した。

 それから老婆の若かりし頃の女性は、ゆっくりと近づいてきた。むろん、向こうはこちらを見えてなどいない。長身の彼女はクレイモアの目の前を通過して香水の香りを撒き散らした。その種類の匂いが好きではない彼は一瞬だけ呼吸を止めた。艶やかな背中は肩甲骨を強調する後ろ姿だった。たっぷり離れてから息を吐いた。

「その時に手にしていたハンカチを落としたのよ」

 老婆が独り言のように呟いた。すると、確かにその通り、刺繍がされたハンカチがスルリと床に落ちた。スカートの裾を気にしながらしゃがみ拾い上げる。

「パタパタと振って埃を払う仕草をする」

 まるで、老婆の言葉を聞いているかのように、そっくりそのままの動作をするヤング老婆であった。どこからか小さな鈴の音がしていた。キーとなるアクションをクリアしていっている証拠だった。記憶が蘇りつつあるのだ。

 座席に座ろうとした彼女は、頭の上の荷台扉が突然開いて悲鳴を上げた。落下してくる荷物は彼女たち自身の持ち物であり、ロックが甘かったのだろう。そういえばトイレに行く時に鞄からあのハンカチを取り出したのだ。客室に持ち込めるのは小さな鞄だけである。頭部を直撃しても大した怪我をすることない。それが判っていても、彼女の伴侶となる男性はシートから立ち上がり身体を盾にして新婦を救った。

「ああ、そうだった。こんなこともあったわね。すっかり忘れていたわ」

 眼鏡の奥にある目は少しも懐かしそうにしていない。静かに過去の情景を見守っていた。

「派手好きな人でね。やることすることがいつも大袈裟だったのよ」

 婦人に心配そうに手を貸して座席の窓際に誘導する紳士は、平凡な顔立ちの赤ら顔で美女との釣り合いは悪そうだった。三十代前半と思われる。

 来訪者たちは近寄って会話を聞き出そうとした。三人のCAがクレイモアたちを追い越して荷物を再び持ち上げている。

「いや、こちらの不注意だったので気にしないでください」

 確かにロックを解除して鞄を取り出し、また上に持ち上げたのは彼だったのだ。その礼節を弁えた態度は今でこそ珍しい。何かにつけてクレームを入れたがる普通の客ではない、と安心して彼女たちは何度も謝りながら下がって行った。

「あなたなら正座させる勢いで怒鳴りつけるところよね。落ち着いた男性って素敵」

「この当時だってクレーマーは居たわ。でも、彼はそうではなかったのよ」

 女同士の会話である。遠回しにクレーマーと評された本人は、些細な事でも見逃さない形相で座席に座った二人と周囲を観察していた。

「ロックの所に何かが挟まっていたんだろう。驚かせてすまない」

 新婚ならではの気遣いと素直さで彼は妻に謝罪した。ベテランカップルであれば『何やってんの!』の一言で済んでしまうだろう。

「ううん、あなたのお陰で平気だったわ」

 微笑みを供えて明るく言い返す。仏頂面でいる現代の姿からはやはり想像もできない。

「ところで、今日のそのワンピースなんだけど……」

「やっぱり長すぎたかしら?新婚旅行だからって身持ちが堅いイメージにしたかったのよ」

「おい!この当時のあんたは全裸が普段着だったのか?あれ以上、足を出すと露出狂の域だぜ!」

「……社長さんに報告することが増えたわね」

「……」

 新郎は妻の手を握ってきた。老婆は食い入るように見つめた。失われた記憶が近づいて来たのだ。しかし、まだキーが出現していない。二人は時が止まったように動かなくなった。彼らだけではない。他の乗客も、添乗員に注がれているコーヒーも静止画を見ているように止まった。

「停止現象。ここから先の記憶に進むために必要な事項を未達成ということになるわ」

 不思議な光景をアテナが説明してくれた。クレイモアにとっても数回目になる現象であった。

「何か他に忘れていることはありませんか?次のシーンに行くために大事な何かを」

「急にそんなことを言われても。……ああ、そういえば、後ろの席の人が大きなくしゃみをしたわね」

「はっくしょーん!」

 禿げ上がった頭頂部を左から右へ流すバーコードヘアーの中年の男が、周りへの迷惑も考えずにくしゃみをした。おまけに語尾に大魔王とリズミカルに付けるほどのオヤジギャグだ。

 一際大きな鈴の音が鳴り響いた。ヤング老婆が使っている座席のトレイに黒い鍵が出現した。記憶へのマスターキーである。後はこれを差し込む鍵穴を発見すればいいだけである。それがどこに在るかを探して首を巡らせる夢案内人の二人である。老婆がジッと一点を見つめているのに気がついたアテナは、アッと声を出した。

 男性が握っているその手の甲に小さな穴がポッカリと開いていたのだ。間違いないと、確信したクレイモアは老婆を促した。

「さあ、あの鍵を使って記憶の扉を開けてください。右に回せば、それであなたは全てを思い出します」

 震える手で鍵を取り、通路から身体を伸ばして男性の甲に突っ込んだ。言われた通りキーを右に回す。

 それを機にシーンが動き出した。

「こんな不器用な奴とよく結婚してくれる気になったものだ。事業だって始めたばかりでどうなるか判らないのに」

「いきなり泣き言なの?」

「そういうわけじゃない。月並みだけど、必ず幸せにしてみせるよ。俺の世界の中心にはいつでも君の笑顔があると信じている。決して一人になんかしない」

「もちろんよ!こんなイイ女、幸せにしなかったら許さないわよ」

 満面の笑顔で答えた。幸せ感漂う二人だけの世界を冷徹に見下ろしていた老婆は一言だけ口にした。

「嘘つき」 

 掛ける言葉も見つからない夢案内人に二人は老婆が次に発するのを待っていた。その皺を涙が伝っているのを見たからだ。今や完全に記憶を取り戻した老婆は大きく息を吸った。

「……もういいわ。充分よ」

「はい。依頼は完遂ということで、ターミナルに戻りましょう」

 夢世界の妖精、アテナが静かに宣言した。その時である。老婆が怪訝そうな顔をしたのをクレイモアは見逃さなかった。彼女は一人のキャビンアテンダントを何となく見ていたのだ。

「よろしければブランケットをどうぞ」

 そのCAはヤング老婆にオレンジ色の毛布を差し出してきた。

「おかしいわね。こんな場面は全く記憶にないわ。次のシーンは右の主翼から振動が伝わってきたはず」

 その通り。エンジンが火を噴き出してこの旅客機は海面に吸い寄せられるように落ちていくのだ。その始まりとなる衝撃が響く。密閉された空間の空気を伝い肌がビリビリと感じた。一匹の蝿が機内に紛れ込んだ場合、その数グラムもない蝿の重さまで重量に加算されるほど閉鎖され外界と隔たれるのが飛行機である。

 騒然とする乗客や添乗員の中にあって何が起こるのかを知っていた三人だけは平然としていた。もう一人、ブランケットを持ってきたCAを除いて。

 客席は一気に混乱が支配する場となる。

 それもそのはずで、老婆は目にしなかったのだろうが、火を噴くエンジンなど異常事態以外の何ものでもない。座席から立ち上がり、とにかく救命用のパラシュートを求めて群がる乗客たちである。事態を必至に収めようとキャビンアテンダントが声を張り上げている。光耀の視線を受けるCAはそれでも動かなった。彼女にぶつかった乗客が、一瞬だけ、おや?という顔をして何事もなかったように前の方に走っていった。この反応は身に覚えのなるものであった。

「まさか同業者?いや、夢壊しか!」

「こちらが優先だから落ち着いて。この展開は夢壊しよね」

 現実世界において有線ケーブルで接続されているクレイモアと老婆である。それを無線による遠隔で老婆の夢に侵入して来た別の夢案内人がそこにいた。もちろん、本人許諾のない夢への侵入は違法行為であり、許されざるものだった。

「あらあら、まさかバレるなんて思わなかったわ。あなたたちに危害は加えない。私のすることに目を瞑ってくれればいいのよ」

 新手の夢案内人――夢壊し、クレイモアとアテナが断じた女――は航空会社の制服のまま、ブランケットを投げつけてきた。視界がオレンジに覆われる。その毛布を片手で払った彼の前には白髪の女性が立っていた。

 素顔は見えない。顔面をすっぽり隠すピエロのような仮面を着けていたからだ。レオタード姿の女性はウサギのコスプレの様であり、身体のラインが丸出しの格好は仮想空間においても異質であった。何かの格闘ゲームでこういうキャラが居たような気もする。

「ここに何の目的で侵入してきた!」

 吠えた青年は老婆を下がらせて、身構えた。アテナも既に戦闘態勢に入っている。制服は変わっていなかったが、クレイモアが使う為の武器を具現化させて携える。主に刀剣類であった。熟練された使い手になれば銃器も取り出せるらしいが、彼はまだその水準に無かった。

「私が構築した夢世界への介入。それはあの『夢壊し』が使うドリコンの性能がとても高性能だと物語っているわ。油断してはダメよ」

 自負がそう警戒させた。まずは、邪魔な乗客たちが右往左往する戦場であるので、小剣を二本手渡した。機は揺れ縦方向になり始めている。自身の足だけで立っているが困難になってきたので客席に手を伸ばした。

 白いウサギの夢壊しはそんな若者を見ていた。いや、見下されていると感じた。

「正解。こうして対峙するのは初めてかしらね。死神――デスサイズのアテナ」

「恋人、ラバーズのサクラ?これはとてもマズイわよ。あのドリコンはアルカナシリーズ!私の類型機よ。有線と無線の不利を埋めてしまう。後は私のマスターとなる光耀とサクラのマスターである女性の同調率で勝負は決まるわ」

 夢案内人の背後には黒いドレスを纏った女性が現れていた。病的なまでに色白で虚ろな眼差しを向けてくる。肩紐のないロングドレスは胸元でしっかり固定されていた。その上からインバネスを羽織っている。ゲミュートはサークレット型だが、やはり左右から平べったい針金のような角が出ていた。マスターと同じく無手である。彼女は客席の背もたれに座り傍観の姿勢を取った。

「初期型の傑作シリーズかよ!最悪だな!」

「私もアルカナシリーズと事を構えるのは初めてよ。ロストゲッターズのザ・クレイモア君。私は夢壊しのジ・エストック」

 マスターである女――ジ・エストックが口を開いた。耳朶に優しく触るようなソプラノである。美声であると認めた。

 ジェット機は降下を開始し、揺れは次第に大きくなるばかりだった。先ほどから立っている乗客がいないほどだ。シートや壁にしがみつき嵐が去ってくれることを願う子羊のようである。依頼者夫妻もお互いに身を抱き寄せて為す術もない。

 窓の外から情報が入らないのでは、海面への激突までどれほどの時間が残されているか不明である。そんなものを悠長に待つつもりのない光耀――コードネーム、ザ・クレイモアは意識を集中させた。

 夢壊しの眼前の空間が爆ぜたのが判った。クレイモアの仕業である。夢案内人はパートナーとなるドリコンの能力を駆使して超能力と表現すべき現象を引き起こすことが出来た。

 戦闘を想定してなかった今の彼はソーサラーモードである。つまり、魔術に似た現象を起こせる。

 エストックと名乗った夢壊しは不可視の火種を難なく回避した。爆発が起こる前に後方に飛んだのだ。その身体が宙に浮く。

 旋回しながら落下する機内での跳躍は、自身のバランスを崩し制御を失うだけである。それも彼女の計算の内だと思われた。彼女の身体は浮遊するように重力を感じさせない動きで、幾つかの座席を蹴りながら依頼者の伴侶に接近し襟首を掴んで引き寄せた。その上着のポケットに手を突っ込んだ。

 白い手が抜き取ったのは宝石であった。

「この事故によって失われたのは多くの命と彼女の記憶だけではないわ。この『赤毛の王妃の溜息』もその一つ。宝石商だった彼が、奥様へのプレゼントという名目で購入したことまでは調べがついたの。でも、旅客機墜落時に現在に至るまで行方知れずとなるわ。この見事な宝石の喪失は人類の損失だわ」

 手にしたルビーのネックレスを刹那だけ見つめて口吻をした。

「私はこれを本来の持ち主に返すだけ」

 ネックレスである『赤毛の王妃の溜息』を新婦の首元に巻いてやる。開かれた胸元で燦然と輝く宝石はとても美しく、確かに在るべき場所への回帰であるように思われた。

「ふざけるな!夢世界からの過去への変更は違法だ!現実世界にどんなパラドクスを引き起こすか判らないんだぞ!」

 パラドクスの定義は学問の分野によって解釈が異なる。語源はギリシャ語であり、日本語に直訳すると『逆説』となる。彼らのような記憶探偵社が主張するパラドクスとは、過去の記憶を変更させるということは事実を捻じ曲げることになる。すると、世界はその捻じ曲げられた箇所を修復しようとする作用が働く。その作用がパラドクスであり、どのようなエネルギーが、いつどこでどのような形で現れるか予測が付かないのだ。最大級のパラドクスが引き起こされた場合、地球など消滅すると言い張る学者もいる。

「それなら大丈夫よ。私がちゃんとシュミレーションしたわ。この程度の過去への接触ならば何の影響も与えないわ。つまり、行方不明となった宝石はずっと彼女の元にあったことになるの。人の意志の力が人類の宝を守るのよ」

 平然と言ってのけるドリコンの擬似人格、サクラである。このコンピュータは狂っていると判断させるに十二分な内容である。

 過去の出来事を再現し、その時の無くしてしまったメモリを取り戻すだけならば、まったく問題はない。しかし、記憶を操作し現実を変えてしまう行為は危険極まりない行為である。しかし、それを目的とし悠然と行う輩がいる。それが『夢壊し』である。

 何故、過去の記憶を変化させることで現実の過去までもが変わるのは諸説あるが、著名な科学者の誰もその解答を導き出せずにいた。

「そのネックレスは旦那に返す!俺がそんなことを許すと思うなよ!」

 クレイモアは剣を構え肉薄しようとした。それを止めたのは老婆であった。

「確かにその宝石の価値は認めましょう。現実世界への影響が皆無というなら、それは素晴らしいことだわ」

「この強突張りの婆め!奴らの言うことが信用出来るものか!アテナ、全力で行くぞ!」

 依頼主を罵りアテナに激を飛ばした。

「残念ながらザ・クレイモアであるあなたと、サクラのマスター、ジ・エストックでは勝負にもならないわ。現に私が構築した夢世界が破壊されていく。強制終了のシークエンスを発動されたわ。この世界の保持は後数分しかできない。これは私とサクラの性能というより、あなたと私の同調率が低いからよ。もっと私に思考を合わせてちょうだい」

 機械ならではの分析は感情を排した非情なものだった。

「ここではお前が最優先なんじゃないのか!」

「有線と無線の不利を埋められて、さらに侵食され始めているのよ。これ以上の滞在は危険だわ。追い出される前に逃げるわよ」

「マスターは俺だ!勝手に逃亡を決め込むな!」

「そういう台詞はドリコンを自在に操れるようになってから言いなさい。君、少し不愉快だわ」

 エストックがクレイモアの耳元で囁いた。

 ――いつの間に!

 声に出すことも出来ずにクレイモアは吹き飛ばされた。何をされたのか。掌打を食らった。ただそれだけであるが、衝撃は全身に伝わり、確かに戦って勝てる相手ではないと痛覚を伴って感じた。だが、ここで大人しく引き下がるわけにはいかない。こっちが作った世界への侵入を許して、さらに好きにさせたのではクレイモアとアテナの沽券に関わる。つまらない意地を張るものだとアテナは思考した。

「一発入れたら帰還するわよ。いいわね?」

「充分だ!」

 アテナが妥協案を提示してそれに応じたクレイモアである。夢世界での深刻なダメージ、或いは死亡となる状態は現実への生還を不可能とさせる事態となりうる。

「ドン臭い青二才の攻撃なんか当たるわけ無いでしょう」

「ワガママなマスターを持つと苦労するのよね。判るわ」

 鼻で笑ったのはエストックで、敵であるアテナに同情したサクラに、

「そう?これでも私は楽しんでいるのよ」と答えたアテナである。

 その彼女は二本の小剣を受け取った。武器は要らない、という意思表示だと受け取った。相手も素手なのだから。

 既に縦になっているジェット機の下方に夢壊し、上方にロストゲッターズが居た。老婆は手頃な座席に掴まって、戦いの推移などには関心を示さない。できれば、夢壊し優勢のまま無事に帰りたいと考えているだろう。若い自分の胸元には時価二億円は下らないネックレスがあるのだから。

 機内を落下しないように、右腕で身体を保持していたクレイモアはその手を離した。

 同時にアテナは老婆を羽交い絞めにして、機の後ろに向かって走り出した。マスターを見捨てての敵前逃亡かと思われる行動である。現実世界に帰還するためのターミナルに向かう。

 入り乱れる人が妨害にならなくて良かったと安堵していたのは束の間で、長い髪が後方に流れるほどの勾配を、人を抱えて昇るのは如何に『ドリコン』によって構成された身体でもいつもの快足を発揮できなかった。それでも数瞬後にはターミナルの扉の前に辿り着いて、クレイモアを窺った。彼は殴られて宙を待っていた。機内前方に飛ばされてしまった。

「あなたの相棒は助からないかも知れないわね」

 しゃがれた声は依頼者であった。今は体勢を変えておんぶされていた。

「計算通りだわ」

 クレイモアから受け取った二本の小剣、その柄の先端には細い銀線が結わえられている。目を凝らさなければ見えないほどの細さである。

 客席上部にある荷台を開けて手頃な荷物を取り出した。これでは重さが足りない。そこへ、ガラガラとCAの商売道具、アルミ製の大きなトレイが降ってきた。今までどこかに引っかかっていたのだろう。一本の剣を荷物に突き立てて。銀線で三回グルリと巻いた。落下してくるキャビネットと擦れ違うまでに準備を終わらせたアテナは、男性物のクロコダイル柄の鞄をトレイにも巻き付けて、ハイヒールで蹴って勢いを増してやる。

「邪魔をしてくれなくて助かりましたわ」

「何もしなくてもアレは私の手元に来るわ。もし、そうならない奇跡の術があるのなら見てみたいと思ったのよ」

 なるほど、新婚旅行で旦那を失った彼女が一人で生きて来られたのは偶然などではない。強い女性だと思った。不敵ともいう。

 客室の中央には大きなディスプレイが在って、その画面上に着地したクレイモアは追ってくるエストックの色っぽい内腿に一瞬だけ視線を奪われた。そういう効果を狙った格好だとすれば、見事だと称賛したかった。

「どこを見ているのかしら?」

 画面のサイズは六十インチほど。暴れまわるには狭いが、一応の足場を得たエストックの足元の液晶には損傷がない。自由落下で降下してきて、まったく着地面に衝撃を与えなかったということだ。この女性とは全てにおいて違うと認めざるを得ないだろう。それでも、一矢報いることは可能だと信じた。

 がむしゃらにパンチを入れる。三発打ったが避けられて、一発殴られて鼻血が吹き出た。理解できない愚行をしていると、思っているだろう。しかし、期待したものが落ちてくるタイミングを逃したりはしなかった。顔面に向けて攻撃を集めていた。そこでいきなり低い回し蹴りを放つ。

 目の反応が少し遅れた。飛んで躱される。その左足に錘が付いた銀線を放った。

「先に行っていてくれ。俺とは向きが違うけどさ」

「これは……!」

 彼とアテナの思惑に気がついた時には遅かった。既に大型の荷押し車は二人を通過した後だったのだ。足元から引っ張られる。元々の重量もあるが、落下の勢いが大きい。無理に頑張れば足首を切断されるだろう。そして、その事が現実世界にいる彼女の本体に与える作用は考えるまでもない。彼女ほどの高い同調率であれば、もはや夢と現実の境界は曖昧となっているだろう。ここでの怪我は肉体へも同義である。

 そのことを理解しているのはエストックの方で、キャビネットの動きに逆らわず、自分から飛び降りたようにも見えた。

「後は宝石を旦那さんに戻せばいいんだよな」

「私のことを忘れてない?」

 アルカナシリーズ、ラバーズのサクラである。依頼者夫婦が身を寄せるシートの背もたれに器用に座り泰然としている。マスターが落ちて行くのもお構いなしということだ。その手には宝石がった。『赤毛の王妃の溜息』である。

「おい、まさか……!」

「そのまさかよ。これを放り投げてマスターにパスするわ。こんなに激しく崩壊しつつある世界にこれ以上滞在することは、あなたはもちろん、私たちにとっても危険だわ。どうする?追い掛ける?」

 真っ直ぐ綺麗な手でネックレスを弄んでいる。黒いドレスは小悪魔的な笑顔によく似合っていた。

 機内の景色は大昔前のブラウン管を見ているようだった。チラツキ、目が痛くなる。轟音もはっきり聞こえていたが、どこか遠くからしているようだった。サクラの更に後方にはアテナがいた。

 彼女は首を横に振った。敵のマスターを罠に嵌めたことで『一発』に値すると言いたいのだろう。お互いの距離は座席六つ分ある。策を仕込むには短く、攻撃を仕掛けるのは遠かった。後方には銀線を外した女が舞うようにシートを蹴って駆け上がってくる。

「電脳警察に通報してやるからな!」

「子供の捨て台詞ね」

 せせら笑うサクラは宝石を投げた。一旦、マスターに預けようというのだろう。そのままあいつが持っていたら、まだ取り戻す機会はあったのだ。クレイモアの横にはもう一本の小剣から伸びた銀線が垂れ下がっている。それを指で摘んで腰の金具に巻き付けた。

 上から落ちてくるのは、すでに輪郭を怪しくした中年太りの男性でそのベルトに小剣が突っ込まれている。その男性が落ちていき滑車の要領でクレイモアが引き上げられた。

「人を錘の代わりに使うんじゃない!」

 助けられたクレイモアからつい出てしまったのは非難だった。

「まったくだわ。我が姉妹ながら常識を疑うわね」

「他に手頃なのが無かったのよ」

 腰部で一気に引き上げられて少し痛かったが、腰痛を起こす程ではなかった。

 ターミナル近くの座席を支点に使っていた為、それに激突する直前に腰の金具ごとベルトから取り外した。アルミ製の金具は座席の足元にぶつかって派手な音を立てた。

 老婆の夢世界は今や崩壊の一歩手前であると知れた。色彩は薄くなって、人も物も落下の轟音ですらほとんど聞き取ることができない。

 その中に在ってはっきりした姿を起こすのは、来訪者のみであった。

 再び元の位置に来たエストックはサクラから受け取った宝石を、シートで震えている若い女性の胸元に戻したようだ。

 相棒と肩を掴み合い彼女たちはクレイモアとアテナを悠然と見つめていた。

「行きましょう」

 ターミナルへの帰還を催促したのはアテナであった。

「今回のは貸しといてやる!」

「ますます子供じみた台詞ね」

 エストックがそう言ったのが聞こえた。三人はターミナルである白い部屋に戻った。



 ザ・クレイモアこと鈴ヶ森光耀はゆっくり瞼を開けた。そこは見慣れた車内であった。

 大型のファミリーカーである。その後部を改造して『ロストゲッターズ』の移動式作業車として使っているのだ。

 彼が寝ているのは高級感のあるリクライニングシートであるが、社長が中古購入したのだと同僚たちは知っていた。これこそが夢世界へ人を旅立たせるパラダイスシートである。そこから伸びる心電図などの脈拍を計測する為に身体に付けられた何本もの配線を、乱暴に取り払いながら上体を起こした。ヘルメットを脱いで左腕に話し掛けた。

「アテナ!帰還は無事に成功したのか?」

 夢世界でのみ像を結ぶ相棒を呼び出した。左腕に装着したドリコンの本体に向かってのものだった。カメラもマイクも内蔵されているので、話せば応じてくれる。十インチもない画面には文字が現れた。

『私がミスる訳ないでしょう。彼女もちゃんと送り届けたわよ』

 それを確認するとシャツを羽織って、車のスライドドアを開けて飛び出した。

「先輩、急に動くと危ないですよ!何かあったんですか!」

 顔を出して聞いてくる後輩に向かって、

「夢壊しに襲われた!アルカナシリーズのサクラと、ジ・エストックって奴について調べてくれ」と言い残して、敷地内にある大きな屋敷に駆け込んだ。営業兼業務車は駐車場の一角を借りて仕事をしていたのだ。屋敷と車を繋ぐのは電源などのコードであるが、その中の幾つかは依頼者の寝室へと伸びている。

 光耀が持つドリコンのバックアップを作業車で行い、有線で接続されたもう一つの端末を依頼者側に設置する。その端末によって得られた情報などを作業車とドリコンにフィードバックして老婆の夢世界を構築するのだ。

 個人使用を目的にして作られたドリコン自体は小型であるが、他人との同調や他者の夢に出向くには大掛かりな装置を必要とした。

 正面玄関の重そうな扉を開けた。使用人たちが彼を食い止めることはなかったが、訝しむような顔をしていた。

 素人相手にいちいち説明する手間をかけるつもりのない彼は二階への階段を上って行く。後は人が集まっている方に向けて行けばいい。

 広い屋敷とはいえ全力で走れば何分もかかるものではない。

 老婆の居室に入りその左手にある寝室に足を向ける。その時にはペースを落として早歩きよりも遅くなっていた。疲れたからではない。黒服の厳ついボディーガードがいたからだ。今朝方、仕事を始める前に挨拶されたので、いきなり不審者として扱われることはないだろう。それでもすっかり馴染んだ人物に声を掛けた。

「社長」

「おう、お疲れさん。どうした?」

 三十代後半の男は派手な髪型をして若作りな格好であった。こういうのが似合うのだから、なかなかの美男子かも知れない。しかし、まだ独身である。

「依頼者さんは?」

 社長が指を指した先に老婆はいた。寝台の横にセッティングされたもう一つのパラダイスシートから立ち上がっていて、個人用の姿鏡に映る自分の姿を見ているわけではないだろう。キャビネットの引き出しにある物をジッと見つめている。後ろから近づこうとして、黒服に止められた。

「彼はいいのよ。これを見る権利があるわ」

 老婆はそれを手に取り見せてくれた。

 ハート型にカットされた大きなルビーである。表面は幾つも細かい面を持ち、光耀が何人も写っていた。純金の台座に囲まれていて、ずっしりと重そうだった。チェーンは白銀なのだろうか。

「盗まずに、本当に私に返すなんて」

「夢を介して過去を変更させるには、出来る事と出来ない事があります。夢世界からそれを持ち去ることは不可能ですが、事故の際にあなたが持っていたことにすることはできます。生存者であるあなたが持っていたのなら、それはあの時から実在していたことになる」

「まさか、夢壊しに遭遇したのか?」

 同僚の一人、依頼者に暗示を掛けて目的となる夢を見させる催眠術師が事態を察した。

 一つ返事で頷いた光耀は拳を握った。

 報告はアテナからもたらされるだろう。実に完敗であったと。

 鈴ヶ森光耀ことザ・クレイモアは依頼達成の満足感など一切感じることが出来なかった。

 ――次は不覚を取らない!

 左腕のドリコンに反応があった。文字が流れてくる。

『次は二発入れてやりましょうよ!』

 気の合う相棒だと思った。



 どこかに在る薄暗い部屋である。

 光源と呼べるものは幾つも設置されたモニタぐらいで、後はパソコンの起動音がするだけである。無音ではない。完全な暗闇でもない中で女が呻いた。

「あ……」

 中央に置かれたパラダイスシートに横になっていた女は、気怠い仕草でヘルメットを抜いて隣の荷台に置こうとして、失敗して床に落とした。乾いた音が響く。地下室なのだろうか。その音はしばらく反響した。

 左側にあるモニタが点滅し文字が流れてくる。顔を動かして読んだ。

『大丈夫?あれほど崩壊が進む夢世界から無線状態で帰還なんて……。あの坊やがもっと早く引き下がってくれればよかったのに!』

「ええ、私は問題ないわ。それにしてもクレイモアくんとアテナね。いいコンビじゃない?」

『褒めてどうするのよ!』

 そうね。短く応じて手足を伸ばした。半裸の格好であった。グレーのタンクトップは汗を吸いこんだ部分が黒っぽくなっていた。履いていたパンツは色気のないものだったが、別に人に見せるわけではない。それに仕事では汗をかく事もあるから、できるだけ薄着がいいのだ。パラダイスシートから起き上がるのも面倒だったが、この部屋には誰も入ってこない。仕方なく立ち上がった。

「サクラ、明かりを」

 ドリコンに命じた。直ぐに部屋が明るくなった。

 シンプルな空間だった。パラダイスシートと大小のモニタ類が幾つか。それに熱を持つパソコンである。他には何もない。元が広い部屋なだけに寒々しく感じるのだ。

二十歳ほどと思われる女は、荷台にある衣服を着るよりも先に、厚手のタオルを探してパラダイスシートを拭き始めた。こういうのを面倒臭いと思うなら仲間を率いればよいのだろうが、生憎と彼女は一人が好きだった。

 掃除が終わってペットボトルの水を飲んだ。

 打ちっぱなしのコンクリが丸出しになっている壁に近づいて手をついた。そこには言葉が彫られていて、『辛いことを思い出すだけの記憶ならば消えてしまえ!』とあった。

 その文字を見る度にその通りだと実感する。

 機械類があるだけの殺風景な部屋の中で女は、飽きること無く壁を見つめていた。

 

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