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美女藹藹  作者: 優朔
4/5

歩く姿は百合の花

虐待を示す表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


「幸子せんせーい!!」


 今日も忙しい身である幸子ゆきこは、それでもこちらを見て手を振る2人の子どもたちにずんずんと近づいていく。適当にひっつめた髪が揺れる。

 2人のうちの1人は、この髪を引っ張って顔を顰める幸子を見るのが好きなやんちゃガールである。がしかし、今日はなぜか大人しい。



「レオンくん。微熱あるでしょう」


 もう1人、少し目を潤ませている少年を見やった。膝をついて目をべーとして見る。


「でもね、もうすぐにーちゃん来るって、」


 どうやら兄を待っていたらしい。…なるほど、やんちゃガールこと絵梨奈が大人しい訳がここにあった。


「じゃあお部屋で待ちましょう。大丈夫よ、にーちゃん飛んでくるから」


 文字通り、レオンの兄は飛んでくる。何度走るなと言っても結局は小児科の階につくと走り出してしまう兄貴なのである。



「絵梨奈も一緒に行く!」


 そう言う絵梨奈は、髪の毛をお気に入りの髪留めでかわいくツインテールにしていた。

 どうやら看護師に結ってもらったらしい。女の子はいつでも乙女である。


 右手に絵梨奈、左手にレオンの手をつないで歩き出す幸子の後ろ姿を、患者の親や看護師が微笑ましく見ているのに、幸子だけは気付いていないのであった。




 先生は百合みたいねぇ。そう言ったのは患者の母親だった。なんでも白衣を着ているせいか、凜とした立ち姿がそれを思い浮かべるらしい。


 特別美人ではない。それは母と佳乃を見て育った幸子の己の容姿に対する認識である。

 背は高い方ではあるが、父親によく似た奥二重の目元と、ほっそりとした輪郭、静かな話し方をするため涼やかなイメージを持たれるのだ。


 幸子自身の己の評価は無愛想であるの一言につきるのだが。



「れーおーんー!!!」


 ベッドにレオンを戻して絵梨奈も一緒に乗せてやっていると、例の兄貴が飛び込んできた。いつもこうしてけたましく駆け込んでくるものだから、みんな慣れた様子であるが。


「お兄さん。静かにしてください」


 それでも幸子は口酸っぱく注意するが、謝りはしても意識は既に弟レオンに向かっているのが一目瞭然である。


「どうだ調子は。お、絵梨奈ちゃんその髪かわいいねぇ。レオンにも似合いそう」


 どかっと腰を下ろしたパイプ椅子が軋む。絵梨奈はぽっと頬を染めたが、ガタイのいいその青年は、日焼けした腕を覗かせてレオンの頭をぐりぐり撫でた。



(誰かさん見ているようだわ)


 アレとソレとを思い浮かべて口元が緩む。

 幼い頃、入院したことがあるのは次女佳乃であった。入院してる身である佳乃はお見舞い来る妹の樹をかまい倒していたのは今はもう笑い話である。


(ほんと、佳乃は樹に昔っからべったりだったなぁ)


 幼い樹の頬をぐにぐにつまんで泣かせては抱っこしてあやすのも佳乃であった。昔からツンデレなのである。


 それを見た母佳代はよく「私にそっくり…」とぼやいていたっけ。

 そう思い返していると、不意に小さな声が聞こえた。


「にいちゃん、お父さんは大丈夫…?」


 恐る恐るというような声色がやけに耳に響く。絵梨奈はきょとんとしてレオンが見つめる兄を見た。レオンの兄はそんな2人に苦笑いを返す。


「…大丈夫だよ」


 大きな手が、レオンくんの頭を撫でていった。




「辻井さん」


 見舞い時間がおわる頃、休憩室で缶コーヒーを握りしめるレオンの兄に声をかける。伏せていた視線が、幸子を見つけた。


「ちょっとお時間よろしいでしょうか」


 何の話か、嫌でも分かるだろう青年は、それでもしっかりと頷いた。


 小さな面談室は、飾り気なんてなくて少し息苦しい。目の前に座ったレオンの兄はそれでもじっと幸子の目を見つめた。



「…レオンくんの退院が一週間後に決まりました」

「はい」

「レオンくんは児童保護施設で保護する、という形になるかもしれません」

「…はい」

「明日、担当者がレオンくんの面談に来ます。辻井さんにも、また話があると思います」

「はい」


 彼はどこまでもまっすぐで、それ故苦しんでいる。それを取り除けるのは、時間しかないかもしれない。けれど、伝えることと伝えないことの違いの大きさを、幸子は知っている。



「辻井さん」

「はい」

「レオンくんが怪我をしたのは、あなたのせいじゃない」

「…でも」

「あなたのせいじゃない」

「…っそれでも、責任がないとは言えない! もっとちゃんと俺がアイツを見てたらこんなことにはならなかった!」



 父親が酒に溺れた。

 彼は高校を出てすぐに就職し、朝から晩まで働いて家族を支えていた。仕事を覚えるのに必死だった。それ故、弟の変化に気付けなかった、と入院したての頃話してくれた。

 ひどく酔った父親に突き飛ばされて足の骨にヒビが入ったレオンは病院に運ばれた。その時に、日常的はないにしろ、こうゆうことが何回かあったことが発覚したのだ。素面の時の父親はとても穏やかな人物で、こんなことになるまで気付かなかった、と彼はずっと自分を責めていた。



「それでも、あなたのせいじゃない。それは一番、レオンくんが分かっていると思います」


 今は自分を、そして自分の父親を許せないだろう。やるせなさと、申し訳なさと、怒り。

 それでも弟に咲き誇ったひまわりのように笑いかける彼は、強い人間だと感じる。けれど、彼の高ぶった神経を逆なでしてしまっても、自分のせいだという思いを否定したかった。



「周りに頼っていいんですよ。頼れる人間は少ないと感じるかもしれない。けど、いないわけじゃない」

「…分かってます」


 青年である。それは、彼もまだ大人ではないのだ。子どもでもなく、守るものを持って急いで大人に近づこうとする青年なのである。



「それに、頼ることは甘えることと同じではないことも、知っておいてほしいです」


 それは、幸子がいつか父に言われた言葉だった。



***



 黄昏時は人を惑わす。



 人が人を救うことなんて出来るのだろうか?いつも幸子は自問している。


 医者という立場において、救うことも出来れば救えないこともあることはとてもリアルだった。


 それでも、体に負った傷は治すことも出来るけれど、心に付けられたキズは人の手で治すことができるのか。


 人が真に人を救うことなど、できるだろうか。




 通学中に交通事故にあって入院している佳乃の見舞いに一番よく来たのは幸子だった。

 小学6年生だった幸子は妹たちがいるせいか、とても大人びた子どもであり、日々忙しい母や父の代わりによく家事も手伝っていた。


 その日も、大学の講義があってなかなか時間の取れない父に代わって、幸子は佳乃の着替えを届けに来ていた。母はまだ幼い佳乃に付き添い、日々病院に泊まり込んでいる。緊迫した状況という訳ではない。順調に回復に向かっていると医師も言っている。



 しかし、元気に振る舞いながらも、その細い腕に付けられた点滴と足に付けられたギブスが非日常を思わせる。母と佳乃と三人で蜜柑を食べながらも、幸子は不安だった。


 駆けつけた事故現場で見た流れる血と、意識のない佳乃の顔が、頭にこびりついて離れなかった。


 態度と表情に出さない分、その不安は日に日に心の中に積もっていく。

 大丈夫、と思っても、最悪のことを考えてしまう。幸子はその気持ちを誰にも話すことができなかったのである。



 そんな時に出会ったのが、一人の男の子であった。


 佳乃よりも少し年下に見える男の子は車いすに乗っていて、休憩室でじっと夕焼けを見ていた。開けられていた窓が秋風を運んで来て、男の子の手元を揺らした。


 はらりと落ちたそれは、写真だった。男の子は落ちたそれを気にした風でもなく一瞥して、また夕焼けに沈み込む。



(お母さん、いないのかな)


 周りに大人はおらず、幸子しかいない。入りにくかったその部屋にてくてくと入っていき、写真を拾った。



「落ちたよ」


 声をかけたが、男の子は気にした風でもない。写真を見ると、綺麗な女の人が写っていた。海を背景にして立ち、少しはにかんでいるその人。


「きれいな人だね」


 呟くと、男の子が初めて幸子を見やった。

 真正面からみたその子は無表情で、伸びた髪は肩までかかり、目元の泣きぼくろがその子を女の子のように見せる。笑ったら可愛いだろうなと思った。



「…君にはそう、見えるの?」


 ゆっくりと、少し掠れた声で言う。


「うん。なんか、立ち姿が綺麗。すらっとしてるからかな」


 幸子はそう言って持っていた写真を男の子に返した。



 それ以来、幸子は佳乃を見舞いに来る度に男の子を探しては言葉少なく話しかけるようになっていた。妹に繋がれた細い管を見る度にどうしようもない不安が襲ってきて、見ていられなくなるのである。その逃げ場が男の子の元であった。


 幸子もあまり話すのが得意ではないけれど、それでもその子に比べればどうってことないように思える。それほど、男の子は静かだった。



「名前、なんていうの?」


3回目に会った時に聞いたそれに男の子は答えてくれなかったが、次に会いに行った時に教えてくれた。


芳幸よしゆき

「え」

「僕の名前」


今日もまたじっと夕焼けを見ながらぽつりと言った。


「どんな字書くの?」


 そう聞くと、指先を空中に持ち上げて書いてくれる。それをじっと目で追って最後を見届けると、幸子はゆっくり微笑んだ。


「一緒だ」

「…何が?」

「私もね、名前に幸せが入ってるの」


 そう言う幸子に、芳幸は初めて会った時のように幸子を真っ直ぐに見た。


「同じだね」


 芳幸の後ろに見える夕焼けが、少しだけ泣き出しそうな色をしていた。



 その日もまた、幸子は芳幸に会いに来ていた。今日は樹も連れてきており、佳乃がベッドに乗せていじりくりまわしているのを見てそっと抜けてきたのである。



「君の妹さんはいつ退院するの?」


 名前を名乗り合ってから、芳幸は少しずつ話しをしてくれるようになった。未だに表情は動かないけれど。それを機に幸子は妹が入院してること、自分は長女で三人姉妹であることなどを話していた。


「…たぶん、もうすぐ」


 母に聞いたところによると、点滴が取れれば退院できるらしい。


「そう」


 芳幸は言葉少なに返した。


「芳幸くんは?」


 芳幸は佳乃のように点滴もしていなければギブスもしていない。それ故、相変わらず車いすに乗っていることが幸子にとって不思議であった。けれど無闇矢鱈にどこが悪いのか聞くことは、悪い気がして今まで聞けなかったのである。


 芳幸は幸子の問いにしばらく答えず、どこか視線が遠のいているように見える。その先にある夕焼けが、芳幸の少し青白い顔を色づけていた。



「…僕は、退院しない」


 そう返す芳幸は、どこか素っ気なかった。


「…ずっとここにいるの?」


 幸子はどこまで踏み込んでいいのか、分からずに戸惑う。鼓動が少し早くなった。


「さあ。どうだろう。僕は死ぬはずだったから。どうでもいいよ」


 その言葉を聞いた時に、幸子は先ほどまであった戸惑いが木っ端微塵になったことを感じた。




「なんでそんなこと言うの…」


 唇が勝手に震えて、同時に吐き出した言葉も揺れていた。


「どうでもよくないじゃない!!」


 罵声に近い声が出る。こんなにも感情が高ぶるのは初めてで、幸子は自分がどうなっているのか自覚できなかった。

 けれど、そう叫んだ幸子に、めんどくさそうに視線をやった芳幸の目が見開かれる。


 幸子は泣いていた。

 溜まりに溜まった感情が爆発して、その行き場として涙が次から次へと噴き出した。



「死ぬはずだったってなに!なんでそんな諦めた顔してんのよ!あなた生きてるじゃない!はずだったってなによ!そんなこと聞いてない!今生きてるじゃない!!ちゃんと生きてるのになんでっ」


 支離滅裂な言葉は次から次へと溢れてきて止められなかった。興奮状態に陥った幸子はその場に崩れ落ちた。呼吸が苦しくなって、はぁはぁと荒い息を吐き出しながら、呆然とした芳幸を睨み付ける。



「み、んな、いつか、死ん、じゃぅっ…けどっ…そ、れは、今じゃな、い!!」


 騒ぎを聞きつけた看護師さんがやってきた。座り込んで泣きわめいている幸子を見て何事かと驚き、そして芳幸を見て驚愕した。



 ずっと無表情だった男の子が、顔を歪ませている。

 辛そうに、苦しそうに。眉を寄せ、口元を微かに揺らす芳幸がそこにいた。

 芳幸は強く握りしめた手を開き、腰を浮かせて車いすから滑り落ちた。立てないのか、這うようにして幸子に近づき、喚く幸子の前に座り込んで手を伸ばす。次から次へと流れる幸子の涙を、震える手で受け止めた。


「…生きて、るでしょっ?だって、..暖か、い」


 ひ、ひ、と苦しそうに喘ぐ幸子は伸ばされた手を掴んで言った。

 あの時握りしめた佳乃の手は冷たくて、必死で握りしめたことを思い出す。握り返されなかったその手を今、芳幸が弱々しく握り返してくれた。その体温に縋り付くように、幸子は芳幸を抱きしめた。

 幸子の体は燃えるように熱く、芳幸にその熱を分けるように。



「死なないでぇ…!」


 いやだ、死なないでと繰り返し、幸子は無我夢中で痩せた芳幸を抱きしめた。



「……うん」


 その時芳幸が発した言葉はそれだけだった。

 けれど、その言葉が幸子の心を軽くした。人が死ぬということの恐怖が、芳幸のたった二文字の言葉で霧のように晴れていくのを感じた。




***


 あの時のことは今でも鮮明に覚えている。

 自分があんなにも泣きわめき怒鳴り散らした初めての出来事であり、それは幸子の母である佳代をも驚かせた。


 大人しく、静かな子どもだった幸子が初めて手の着かない程の感情を見せたからである。


 傷つき血を流す妹を目の当たりにした幸子の、ずっと吐き出せなかった恐怖と不安が、芳幸の死ぬはずだったからどうでもいいという発言により表面化されたのかなぁ、と今になって思う幸子である。フラッシュバックのようなものだった。



 事の次第を聞いた父は、家に帰った幸子を抱きしめた。父親にあんな風に抱きしめられたのは初めてだったなぁと思う。



『幸子は佳乃と樹のお姉ちゃんで、しっかりした子だと思ってる。父さんや母さんの手伝いもよくしてくれて、腕白なあの子たちの面倒もよく見てくれて本当に父さんは幸子を頼りにしてるんだ。だから、幸子も父さんたちをもっと頼って欲しい。怖かったら怖いって言っていいんだよ、どうしたらいいのか分からなかったら聞いていいんだよ。幸子はお姉ちゃんでもあるけれど、僕たちの子どもなんだ。甘えていいんだよ。甘えるのが難しいなら、頼ってほしい。甘えることと、頼ることは違うんだよ。誰かを頼っても、幸子がしっかりした子には変わりないから』


 そう言って頭を撫でてくれた。あの時の父の言葉は、今でも幸子の心にしっかりと残っている。



***


「先生、お世話になりました」


 レオンの退院の日、幸子と数人の看護師、リハビリを手伝った理学療法士たちと玄関先まで見送りに来ていた。

 玄関まで来ると言った絵梨奈を止めるのにさんざん髪を引っ張られたけれど、レオン兄の抱っこによりピタリと癇癪が収まった。恋する乙女である。


 レオンとその兄はしっかりと手を繋いでいた。


 結局、レオンは兄と共に生活できることとなった。

 アルコール中毒の父親が今回のことで施設に入所したこと、レオンの兄が既に社会人であり、裕福ではないけれど収入もあること、まだ未成年である彼らの後見人として、彼の働いている会社の上司が受けてくれたこと、そして何よりも、レオン自身が家族とともにありたいと強く願ったことが今回の結果に繋がっていた。年に数回の児童相談所職員の訪問があるようだけれど、この2人ならば大丈夫、そう思う幸子であった。



「退院おめでとう。まだ無茶はだめですよ。でも、うんと勉強して、うーんと遊んでください」


「はい!」


 レオンが元気よく返事をする。兄がレオンの頭を撫でた。


「本当にお世話になりました。」

「いえいえ」

「幸子先生」

「はい」


 レオンの兄は、守りたいものを守れるチャンスを手に入れて、この前までにはなかった精悦さを滲ませていた。


「あの言葉、肝に銘じておきます」


 一瞬きょとんとした幸子を見てにかっと笑う。


「頼ることを躊躇しないことも、大事だって実感しました」



 彼らの後見人になってくれた人物は、頭を下げた彼をひっぱたいて「お前はもう家族みたいなもんや、そんな改まるな!」と言ったらしい。



「そうですか」


 頼れる大人は少ないかもしれない。けれど、いないわけじゃない。そして幸子もまた、そうなりたいと願うのである。


 目元を緩めた幸子を見てにやり、と兄が悪戯っ子のように口元を歪める。


「先生はまだ結婚されてないですよね?」

「はぁ」

「じゃあ俺立候補するんで、」

「はぁ?!」


 あはは、と笑う兄である。


 二人の背中を見送りながら最後まで賑やかな人だったなぁと一人ごちる幸子は、何やら後頭部に視線を感じながらもその場に佇んでいた。

 次第に病院に戻っていく同僚たちの中で、一人びしびしと視線を送る人物はおそらく、いや絶対に理学療法士の彼であろう。ちよっと振り返るのが怖い。



「菊川先生」

「…はい」


 おそるおそる振り返る。目の前には口角を上げて目を細めているが、なぜか笑顔ではないような表情をした者が真っ直ぐに幸子を見ていた。


「浮気はダメですよ」


 そう言って、同僚兼恋人の佐野芳幸は、目元の泣きぼくろを押し上げて笑った。




 人は人を救えるか。できることもあればできないこともある。それが現実。

 幼かったあの時、確かに幸子は芳幸に救われた。渦巻く感情の中で、まるで縋り付くように叫んだ言葉に返事をしてくれたことが、手を握り返してくれたことが、初めて死というものを意識した中で生きることに答えてくれたことが、幼い自分の心を救ってくれた。



 治すことのできない傷がある。救えない気持ちもある。それでもしないよりすることを幸子はこれからも選んでいきたい。幸子のように救われることもあるし、例え救えなくとも、電気ショックのように偶然心に触れることはできるのだ。それがきっかけになることもあるのだ。

 

 幸子の目の前にいる男のように、己を守るはずである存在に傷つけられ、勝手に死んでいった親を無表情に見取り、生きることに興味を持てずにいた中で、自分勝手に泣きわめく女の子に驚いて、それがきっかけで生に目を向けてくれることもあるのだ。そして彼は、自分自身の力で己を死の惑いから救ったのである。


 結局、最後に自分を救えるのは、自分自身なのである。それでも、出来ないことの多い事の中でも人はそのきっかけを作ることはできるのだ、と幸子は思った。



「私は一途なんですよ」

「…知ってます」


 くすくす笑って少しふて腐れた男を見た。彼はもう、無表情なんかじゃなかった。


「患者さんが待ってます。いきましょうか」





―――真っ白な白衣をなびかせて幸子が歩き出す。ぺたんこサンダルで、化粧っけもなくて、無造作にひっつめた髪を揺らしながら歩くその人は、それでもやはり百合のように美しいと芳幸は思うのであった。


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