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婚約者を殺した公爵の話

作者: 桜井あこ
掲載日:2026/09/13

凍てつくような冬の風が、公爵邸の重いカーテンを容赦なく揺らしていた。


主であるレイナード・ヴァレンタイン公爵は、数日前に最愛の婚約者、リリアを亡くしてから、書斎の椅子から一歩も動いていない。


窓の外には、粉雪が静かに舞い落ちている。社交界は今、格下の平民を公爵夫人に迎えようとした男の「当然の破滅」を、哀れみと嘲笑混じりに囁き合っていることだろう。だが、そんな雑音は今のレイナードには届かなかった。


彼の世界は、リリアが息を引き取ったあの瞬間から、色彩をすべて失い、完全に停止してしまったのだから。


目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。かつて、彼の世界には淡い黄色の光が満ちていた。

貴族としての義務、冷酷な家門の期待に押し潰されそうになっていた青年時代、彼は身分を隠して退屈な王宮を抜け出し、街の下町へと足を向けた。そこで見つけた、古びた小さな本屋。


埃っぽい棚の奥、古い歴史書に手を伸ばした時、同じ本に触れた、小さくて少し荒れた指先。それが、リリアだった。


『あ、ごめんなさい! お先にどうぞ』


振り返った彼女は、道端に咲くプリムラの花のように素朴で、周囲をパッと明るくするような温かい笑顔を浮かべていた。


公爵であることを隠し、ただの「本好きな青年」として彼女と語らう時間は、レイナードにとって人生で唯一、深く息ができる救いの場所だった。彼女の、背伸びをしない優しさに救われ、やがて彼はすべてを敵に回してでも、彼女を妻に迎えると誓ったのだ。


――それなのに。


「……すまない、リリア。俺が、お前を殺したんだ」


現在の暗い書斎で、レイナードは掠れた声で呟いた。

彼女を愛し、守ろうとした。そのために、冷酷な貴族社会という名の檻へと連れてきてしまった。それが自らの傲慢であり、罪だったのだ。


「平民の分際で」「公爵家の泥を塗るな」――直接の暴言はなくても、夜会で浴びせられる冷ややかな視線、わざと聞こえるように囁かれる悪口、お茶会でのあからさまな無視。貴族たちの陰湿な精神的排斥は、優しく芯の強いリリアの心を、少しずつ、確実に蝕んでいった。


レイナードの足を引っ張りたくない、彼を困らせたくない。その一心で、彼女は限界を迎えるまで笑顔で耐え続けていたのだ。気付いたときには、彼女の細い身体はすっかり衰え、そのまま眠るように逝ってしまった。

リリアの最期を、レイナードは見ることができなかった。

彼が公務で外出しているときに、侍女がお茶を準備している最中に亡くなってしまったのだ。と、執事長から言われた言葉を思い出す。


激しい自責の念と絶望の中、レイナードの視線が、机の上にぽつんと置かれた一冊の日記帳、その間に挟まれた一通の手紙に留まった。


震える指先で、リリアが遺したその最期の手紙の封を切る。

便箋に並んでいたのは、見慣れた彼女の、少し丸っこくて優しい筆跡だった。貴族の令嬢たちが書くような完璧な美しさではないけれど、レイナードが何よりも愛した、温もりのある文字。


『親愛なるレイナードへ。

この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもう、あなたの隣にいられないのですね。

分かるのです。もう私は長くないなと。病気でもなければ誰かに殺されたわけでもありませんので、そこだけは心配しないでください。

私にはこの貴族の世界が、少しだけ眩しすぎて、息が苦しくなってしまいました。


夜会での冷たい視線も、聞こえよがしな悪口も、あなたがいつも私の前に立って、守ってくれていたから耐えられました。でもね、レイナード。私が一番怖かったのは、私を庇うことで、大好きなあなたが傷つき、みんなから孤立していくことでした。あなたが私のせいで、公爵としての居場所を失っていくのを見るのが、何よりも辛かった。


自分のことをどうか責めないでください。あなたを恨むことなんて、絶対にありません。あなたと過ごした日々、二人で語り合った時間は、私の人生の何よりも輝く宝物です。あなたに愛されて、私は本当に幸せでした。


最後に、私のわがままを一つだけ聞いてくれますか?


もし生まれ変わるなら、身分なんて関係ない、誰もが笑って、私の好きなプリムラの花を育てられるような、そんな優しい国がいいな。あなたのその綺麗な手は、きっと、私一人のためではなく、たくさんの人を救うためにあるのだと信じています。


愛しています、レイナード。私のために、どうか泣かないで』


「……ああ、ああぁ……っ、リリア……っ!!」


レイナードは手紙を胸に抱きしめ、大粒の涙を流した。涙は便箋にこぼれ落ち、淡いインクを滲ませていく。


彼女は最後まで、自分を追い詰めた貴族たちを恨まなかった。それどころか、自分を遺して逝くことを謝り、レイナードの未来を案じ、彼の手を「綺麗な手」と呼んだのだ。


どれほどの時間、そうして泣き崩れていただろうか。

やがて、部屋の重い窓から冷たい朝の光が差し込み、リリアの文字を白く照らし出した。


その時、レイナードの瞳から涙が完全に消え去った。代わりに、底知れない漆黒の決意が、その瞳の奥に宿る。


(恨まない、か。お前は本当に、どこまでも優しいな、リリア)


だが、俺は違う。お前を間接的に殺したあの者たちを、俺は絶対に、永遠に許さない。


復讐などという生ぬるいもので、彼らの命を奪っても意味はない。彼らが誇る「身分」という傲慢な特権、彼らが踏みにじってきた「平民」という名の壁。その歪んだ世界の仕組みそのものを、俺のこの手で、跡形もなく叩き潰してやる。


それこそが、お前の願った世界を創る唯一の道だ。


「リリア。お前の望んだ世界を、俺がこの手で、必ず作ってみせる」


レイナードは立ち上がった。数ヶ月間、手入れをしていなかった無精髭を鏡の前で綺麗に剃り落とす。


鏡の中に映っていたのは、かつての優しい恋人の顔ではなかった。感情を完全に凍りつかせ、目的のためなら誰の命をも切り捨てる覚悟を持った、冷徹な一人の政治家だった。


リリアが遺した、淡い黄色のプリムラの押し花をそっと懐表の裏に忍ばせる。それを胸のポケットに収めると、レイナードは数ヶ月ぶりに、書斎の重い扉を力強く開け放った。



彼の、長く孤独な戦いが、ここから始まる。



「ヴァレンタイン公爵は、あの一件で完全に脳が狂ってしまわれたのだ」


豪華絢爛な王宮の夜会では、連日のようにそんな陰口が叩かれていた。


リリアの死から数年。社交界の表舞台に舞い戻ってきたレイナードは、まるで一切の感情を剥ぎ取られた精巧な人形のようだった。


かつてリリアを陰湿に追い詰めた貴族たちが、彼の反応を見ようと皮肉を言ったり、新たな縁談を持ちかけたりと執拗に絡んできたが、レイナードは彼らを一瞥することすらしなかった。


怒るでもなく、悲しむでもなく、完全に「存在しないもの」として無視する。彼にとって、最愛の女性を害そうとした有象無象の言葉など、もはや羽虫の羽音ほどにも耳を傾ける価値すらなかったのだ。



彼がその全精力を注いだのは、国の根幹を揺るがすほどの圧倒的な法整備だった。



「平民の児童に対する、基礎教育の義務化および無償化」

「身分に関わらず、すべての者が公正な医療を受けられる救療院の全国設置」

「平民から不当に財産を搾取する貴族への、厳格な罰則規定」



当然、特権を脅かされる貴族たちは猛反発し、議会は連日のように罵声が飛び交う嵐となった。しかし、レイナードは冷徹な論理と、公爵家が持つ強大な権力、そして誰にも隙を与えない完璧な執務ぶりで、彼らの反対を力ずくでねじ伏せていった。彼を突き動かしているのは、懐表の裏で静かに眠る、リリアのあの日の筆跡だけだった。




そんなある日、レイナードは自らが私財を投じて建設を主導した、王都の第一孤児院を視察のために訪れた。




「わあ! おじさん、また来てくれたの!」


馬車から降り立ったレイナードの元へ、まだ幼い平民の女の子が、泥だらけの靴のままトコトコと駆け寄ってきた。


騎士たちが「不敬であるぞ、控えよ!」と慌てて咎めようとするのを、レイナードは静かに手を挙げて制した。



その孤児院の広い庭には、レイナードの指示によって、一面に淡い黄色のプリムラが植えられていた。


「……ああ。今日も元気にしていたか」


レイナードが目線を合わせるように少し腰を落とすと、女の子は庭に咲く小さなプリムラを一本、小さな手で器用に摘み取り、自慢げに差し出してきた。


「これね、おじさんが植えさせてくれたお花でしょ? すごく可愛いから、おじさんにあげる! はい!」


小さな泥だらけの手から、淡い黄色の花を受け取る。


その瞬間、社交界では決して見せることのない、レイナードのいつも凍りついている瞳が、ふっと春の陽だまりのように柔らかく緩んだ。


女の子は、レイナードのそんな様子を不思議そうに見上げ、首をかしげながら屈託のない笑顔で尋ねた。


「ねえねえ、おにーさん。そんなふうにお花を見て、好きな人いないのー?」


突然の子供らしい無邪気な質問に、周囲の騎士たちは息を呑んだ。「鉄血の公爵」に色恋の質問など、地雷を踏むようなものだ。


というか何故花を見ているだけで好きな人がいるという結論に至るのか。子供の思考はハチャメチャだ。と騎士たちは冷や汗をかきながら考えていた。


しかし、 当の本人であるレイナードは花を愛おしそうに見つめたまま、静かに、けれど確かな温もりを込めて答えた。


「……いるよ。とても、大切な人が」


「えっ、本当に!?」


女の子は目をきらきらと輝かせて声を弾ませた。


「やっぱり! じゃあさ、じゃあさ、その人ってどんな人なの?」


「花が好きな、とても綺麗で、誰よりも優しい人だ」

「わあ、いいなー! じゃあ、おにーさんはその人に、このお花をあげるの?」


女の子の純粋な言葉に、レイナードの胸の奥が一瞬だけ疼いた。彼は懐表にそっと触れながら、静かに首を振る。


「いや……彼女は今、とても遠いところにいるんだ。だから、直接渡すことはできない」

「遠いところ? お仕事?」

「ああ、そんなものだ。だからね、彼女が戻ってきたときに寂しくないように。そして、お前たちがこの庭で、不自由なく笑って過ごせるように、私はここへ花を植えたんだよ」


女の子は「ふーん?」と小さな頭をひねり、よく分かっていない様子だったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「よくわかんないけど、きっとその人も、おにーさんがこんなに可愛いお花をいっぱい植えてくれたら、すごく喜んでるね!」

「……そうだといいな」

「うん、絶対そうだよ! じゃあ私、みんなとあっちで遊んでくる!」


女の子は元気よく手を振ると、また別の子供たちの元へと駆け去っていった。

一人残されたレイナードは、手のひらのプリムラを見つめ、そっと空を見上げて呟いた。


(届いているか、リリア。お前の望んだ世界が、少しずつ、けれど確実に形になってきているよ)


翌日レイナードは、再びいつもの冷徹な「鉄血の公爵」の仮面を被り、特権に縋る貴族たちを冷ややかに見下しながら、さらなる法案の成立に向けて容赦なくペンを走らせるのだった。





さらに十数年の歳月が流れた。


かつて混迷を極めていた国は、今や劇的な変化を遂げていた。


身分に関わらず、才能と志を持つ者が国の要職に登用され、かつて税を絞り取られるだけだった平民の街には、飢えも怯えもない健やかな子供たちの笑い声が溢れている。


貴族たちの特権は解体され、誰もが法の下に守られる時代がやってきたのだ。レイナードがあの日、血を吐くような絶望の中で蒔いた「リリアの願い」という小さな種は、この国のあちなくに大輪の花を咲かせていた。


自分が果たすべき役割は、すべて終わった。

法は整備され、次代を担う若く優秀な後継者たちも立派に育っている。レイナードは周囲の強い引き留めを頑なに断り、すべての役職を辞し、若き親族に爵位を譲る手続きを済ませた。



そして彼は、人生で最後となる王宮の夜会へと足を運んだ。



光り輝く巨大なシャンデリアの下、色とりどりの豪華なドレスや、胸元に勲章を誇らしげに飾った貴族たちが、彼を囲もうと色めき立つ。かつて彼を「平民に魂を売った狂人」と呪った者たちも、今や「時代の先駆者」「平民の聖者」と手のひらを返して彼を称賛していた。


だが、レイナードはその言葉に歓喜することもなければ、かつての怨恨をぶつけることもしなかった。ただ、一言の挨拶も、微笑み一つ見せることもなく、静かにその華やかな輪から身を引いた。


彼にとって、社交界の光など最初からどうでもよかったのだ。


重厚な王宮の扉が閉まり、眩いばかりの光が遮られる。

城を出たレイナードは、夜の帳が静かに下りる薄暗い夜道を、たった一人で歩き出した。


背後に残された王宮のオーケストラの演奏や、人々の賑やかな喧騒が、遠ざかる波の音のように小さく、消えていく。


公爵としての重い責任、政治家としての果てしない義務。そのすべてを完全に肩から下ろしたレイナードの足取りは、驚くほど軽かった。かつてリリアを失ったあの冬の日から、彼の肩にはずっと、目に見えない重荷がのしかかっていた。それが今、ようやく消え去ったのだ。


カラン、と革靴が夜の静寂を静かに叩く。

その時だった。

どこからか、微かに甘く、どこか懐かしいプリムラの香りが、夜風に乗ってふわりと彼の鼻腔をくすぐった。


(……レイナード)


ふっと、耳元で、優しく愛おしい声が響いた気がした。

十数年もの長い間、一日たりとも、一瞬たりとも忘れたことのなかった、あの鈴を転がすような、温かい鈴の音のような声。


『お疲れ様』


確かにそう、聞こえた。幻聴だと言われればそれまでかもしれない。しかし、その響きはあまりにも鮮明で、あまりにも優しかった。


レイナードはハッとして足を止め、誰もいない薄暗い夜道を振り返った。そこにはただ、夜霧に濡れた石畳と、街灯の淡い光が優しく揺れているだけだった。もちろん、彼女の姿はどこにもない。

けれど、彼の胸の奥は、あのリリアを亡くした冬の日以来、初めて見るほどの温かい光と、深い安堵感で満たされていた。


「……会いに来るのが遅いじゃないか」


レイナードは掠れた声で呟き、自嘲気味に、けれど酷く愛おしそうに微笑んだ。


お前をずいぶんと長い間、暗い天国で待たせてしまった。冷たい手だと笑われるかもしれない。けれど、お前との約束は、これで全て果たしたよ。


胸のポケットにある懐表にそっと手を当て、その確かな温もりの中にリリアの気配を感じながら、レイナードは再び前を向いて歩き出した。


彼が向かうのは、もう誰も自分を縛らない、かつてリリアと夢見た、優しくて静かな田舎の家だった。




辺境の小さな邸宅の庭は、見渡す限りの淡い黄色で埋め尽くされていた。

春の温かな風が吹き抜けるたび、無数に咲き誇るプリムラの花々が、まるで黄色い絨毯のように優しく、豊かに波打つ。それはかつてリリアが手紙に願った、「誰もが笑って、大好きな黄色い花を育てられる国」そのものの縮図のようだった。


かつて「鉄血の公爵」と恐れられ、国を揺るがす変革を成し遂げたレイナードは、今や白髪の穏やかな老人となり、庭の特等席にあるロッキングチェアに腰掛けていた。


「花おじいさん、また新しいお花が咲いたよ!」


近所の平民の子供たちが、彼の植えた庭に遊びにきては、無邪気な笑顔で手を振っていく。


彼らは、目の前にいる物静かな老人が、自分たちの暮らすこの平和で自由な国の礎を築いた偉大な英雄だとは誰も知らない。だが、レイナードにとっては、自分を敬う言葉などよりも、子供たちのその健やかで屈託のない笑い声こそが、何よりの勲章であり、リリアへの最高の報告だった。


「リリア、見てくれ。本当に、お前の言った通りの世界になったよ……」


皺の刻まれた手で、生涯大切に持ち続けてきた懐表をそっと開く。そこには、すっかり色褪せてしまったけれど、あの日と変わらない淡い黄色のプリムラの押し花が、大切に守られたまま眠っていた。


午後になり、心地よい春の陽気がレイナードの身体を包み込む。


その時、急激に、身体の力が抜けていくのを彼は感じた。視界がゆっくりと霞み、心臓の鼓動が静かに、穏やかにその間隔を狭めていく。ついに、この肉体の限界が訪れたのだと、彼は本能で理解した。


(ああ、ようやく……ようやく、お前の元へ行けるのだな)


死への恐怖は、微塵もなかった。

むしろ、十数年もの長くて孤独な旅路をようやく終え、愛する人が待つ我が家に帰れるような、深い、深い安堵感だけが胸を満たしていく。


カサリ、と草を踏む小さな音が聞こえた。


霞む視界の先、満開のプリムラの花畑の中に、一人の少女が立っていた。


少し丸っこい、素朴な仕立てのドレス。あの頃、街の小さな本屋で出会った時のままの、優しくて、温かい、世界で一番大好きな笑顔。彼女はレイナードを見つめ、十数年前のあの日と同じように、優しく彼の名を呼んでいた。


「……待たせてごめんね、リリア。お前との約束を果たすのに、随分と時間がかかってしまった」


レイナードは、ゆっくりと手を伸ばした。もう動かないはずの重い身体が、驚くほど軽くなり、若々しい力を取り戻していくのを感じる。懐かしい彼女の温もりが、すぐ目の前まで迫っていた。


「君がいるなら、死ぬことだって怖くないさ」


掠れた声で、けれど生涯で一番の愛おしさを全て込めてそう呟くと、レイナードは満足そうな、本当に幸福そうな笑みを浮かべて、静かに瞳を閉じ、深い眠りへとついた。


カラン、と彼の手から滑り落ちた銀の懐表が、淡い黄色のプリムラの花の中に静かに沈んでいく。

春の柔らかな風が庭を吹き抜け、無数の黄色い花びらが二人の美しい再会を祝福するように、どこまでも青く澄み渡る空へと、高く、高く舞い上がっていった。




レイナード・ヴァレンタイン公爵が、プリムラの花に囲まれて静かに息を引き取った後。

彼の遺品は、生前の遺言通り、かつて彼が建設した第一孤児院へと寄贈された。


すっかり大人になり、今ではその孤児院の責任者となった「あの日の女の子」は、レイナードの書斎に残されていた古びた日記帳を、愛おしそうに整理していた。


それは、レイナードが生涯、片時も手放さなかったリリアの日記帳だった。


レイナードはリリアの死後、彼女の遺した「手紙」を心の支えにして生きていた。だが、彼女が日々の想いを綴っていた日記帳の本文だけは、彼女のプライベートを尊重し、あえて一度も開くことはなかったのだ。


「おじさん、本当に一途な人だったな……」


女性はそっと日記帳をめくった。ページの大半は、日々のささやかな出来事や、レイナードへの愛、そして貴族社会の息苦しさが淡々と綴られていた。


そして、文字が途絶えた最後の数ページのあと――日記帳の本当に一番最後、白紙のはずの最終ページに、小さな文字で、殴り書きのようなリリアの本当の本音が残されているのを見つけた。


それは、手紙には決して書かなかった、死を前にしたリリアの、たった一つの『我が儘』だった。


『本当は、世界なんてどうだっていい。

身分制度が変わらなくたって、他の誰が不幸に泣いていたって、私には関係ない。


私はただ、レイナードに笑ってほしかった。

私のせいで、あなたが傷つくのが耐えられなかった。

私が死んだら、きっとあの人は自分のせいだと責めて、笑うことを忘れてしまう。

優しくて、生真面目な人だから、自分を罰するように孤独に生きてしまう。


だから、手紙にはあんな綺麗事を書きました。

あなたに「世界を変える」という大きすぎる生きる目的(呪い)を 与えれば、あなたは私を追って死ぬこともできず、前を向いて生きるしかないから。


ごめんなさい、レイナード。私はあなたを騙しました。

あなたをこの世界に縛り付けるために、私の夢をあなたに押し付けました。


でもね、もしも。

もしもあなたが、私の嘘をすべて本当に変えて、誰もが笑える優しい国を創り上げてくれたなら。


その時は、どうか、もう頑張らないで。

完璧な公爵の仮面も、政治家の顔も全部脱ぎ捨てて、ただの私の好きなレイナードに戻って。


そして、私の大好きな黄色い花が咲く庭で、今度こそ、誰のためでもない「あなた自身の幸せな時間」を、穏やかに過ごして。

それが、私の本当の、本当の最後の願いです。


たくさん頑張らせて、ごめんなさい。

ずっと、ずっと、待っています』


そして、最後にはこう綴られていた。


『私ね、本当は生きるか死ぬかとかどうでもよくって。ただ、あなたと一緒が良かったな』


「……そっか」


日記を読み終えた女性の目から、一粒の涙がぽろりとこぼれ、古い紙に吸い込まれていった。


窓の外に目をやると、庭一面に咲き誇る淡い黄色のプリムラが、春の陽光を浴びてきらきらと輝いている。


レイナードが余生を過ごしたあの穏やかな時間は、決して孤独な贖罪などではなかった。リリアが命をかけて仕掛けた優しい嘘の通りに、彼は世界を救い、そして最後に、リリアの本当の願い通り「自分自身の穏やかな幸福」を手に入れて旅立ったのだ。


「おじさん。お姉さんに会えて、今頃たくさん褒めてもらってるよね」


女性は日記帳をそっと閉じ、レイナードの遺品である銀の懐表の隣へと並べた。


風が吹き込み、プリムラの甘い香りが、誰もいない部屋を優しく満たしていった。

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