また、あなたに恋をする
卵が先か鶏が先か
エンバール王国の第二王子であるマルコスは、とんでもない放蕩王子だった。
王位は兄である王太子が継ぐと決まっており、国王夫妻も次男の教育には少し手を抜いてしまったのが原因のひとつだっただろう。マルコスはろくに勉強せずにその美貌で女性に声をかけまくり、あっちへふらふらこっちへふらふら遊び歩くようになってしまった。
御年二十歳になっても放蕩ぶりが収まる様子はなく、遊び相手の女性はいても彼のことを本当に愛して結婚してくれる令嬢は現れなかった。
頭を抱えた国王夫妻は、王家でも重用している占い師に次男の未来について占ってもらった。
その結果――
「はああっ!? このババアが俺の妃だって!?」
「口を慎みなさい、マルコス!」
謁見の間に、マルコス王子の悲鳴と王妃の怒声が響いた。
昨夜も散々遊び歩き、ベッドに入ったのは明け方になってから。
やっと眠りに就いた頃にたたき起こされたマルコスは最初から不機嫌そのもので、しかも両親に「おまえの結婚相手が見つかった」と言われ、さらには――その結婚相手が明らかに年を取った女性だったのだから、怒りが噴出した。
金色の髪をかきむしるマルコスの前に立つのは、ブルネットの髪の女性。すっと背筋を伸ばして立っており、紺色のロングドレスが痩身によく似合っている。
知性に満ちた佇まいの彼女だが……どう見ても、四十歳を過ぎている。中年でも若々しい美貌を保つ者もいるが、彼女の場合はそうでもなく年相応といった雰囲気だ。
「マルコス、彼女は書庫勤めのパウラ・シントロン女史だ。モルス殿が、マルコスの妃になるべき人は彼女だと教えてくれたのだ」
「あんなくたばり損ないのジジイの妄言を真に受けてるんじゃねぇよ!」
国王の説明にも大声を上げ、マルコスはずかずかとパウラに歩み寄った。
……近くで見たら案外美人だった、ということもなく、パウラはごく普通の中年女性だった。
「……ババア、おまえいくつだ」
「今年で四十五になりました」
「母上より上じゃねぇか!」
「いい加減にしなさい、マルコス! おまえのような尻軽男と一緒になってもいいと言ってくれた方なのよ!」
マルコスの嘆きは、まあもっともなのだが、王妃は息子をもう甘やかさないと決めたようで毅然と言い、そしてパウラの背中をそっと撫でた。
「ごめんなさい、シントロン女史。こんな顔がいいだけのぼんくら息子で……」
「いいえ、王子殿下のお言葉ももっともでございます、王妃殿下。……マルコス殿下」
「うるせぇ!」
「わたくしは、殿下の本当の妻になるつもりはございません」
ぷいっと顔を背けたマルコスに、パウラは根気強く言葉をかける。
「モルス様の占術により、わたくしにはマルコス殿下を妃として支える資格があると判明しました。ゆえにわたくしはあなたをお支えしますが、それだけです。間違っても、閨を共にすることなどは求めません」
それに、とパウラはそこで儚げに微笑んだ。
「わたくしは未婚ですが、二十代の頃に子を産んでおります」
「なんだ、こぶ付きかよ」
「いえ、その子も……かつて愛した人も、もう手の届かないところにおりますので」
パウラの言葉に、さしものマルコスも気まずそうに口をつぐんだ。
アホンダラのぼんくら王子ではあるが、パウラは恋人と子を亡くしたのだろうと推測するだけの頭と、そのことを茶化さないくらいのデリカシーはあった。
「……そうか。じゃあおまえはその男に操を立てているということか」
「そういうことでございます。国王陛下も王妃陛下も、わたくしの事情にご理解を示してくださいました」
マルコスはじっと黙る両親を見て、肩を落とした。
きっと占い師のモルスも両親も、パウラをマルコスの妃としてそのだらしない性格を叩き直させようとしているのだ。パウラが亡き恋人と子をいつまでも愛しているというのを踏まえた上で、マルコスとは白い結婚をしてもらうつもりなのだろう。
その後マルコスはパウラと二人で別室に移動させられ、そこで彼は腕を組んでパウラをじろりと見下ろした。
「……おまえと結婚してやってもいい。だが、俺のやることに文句は言わせない」
「それでよろしゅうございます」
「おまえを抱く趣味はないから、今後も女と遊ぶ」
「はい、そうなさってください」
マルコスのどんな言葉にもパウラは従順で、穏やかな微笑みさえ浮かべている。
ともすれば、マルコスをからかっているとも取れるのに――その微笑みはどこまでも清らかで愛情深く、マルコスのほうが気まずくなってくる。
「本当にいいんだな? 俺はおまえの顔を立ててやったりなんかしない」
「はい、構いません。おそばに置いてくださるだけで十分です」
パウラは、なおも笑顔でそう言う。
いっそ不気味なほどの落ち着き様だが、彼女にあれこれ暴言を吐いても全く効果がないだろうし……何より、無抵抗な女性に対して酷いことをしているという自覚が今になって押し寄せてくるので、マルコスは顔を背けた。
「……俺は、おまえを愛さない」
「はい、承知しております」
「おまえからの愛も、求めない」
「ありがたいことです。わたくしの愛はいつまでも……あの人にあるので」
そう言って、パウラはそっと自分の胸に触れた。
その後もマルコスはパウラとの結婚についてあれこれ文句を言ったものの、心を鬼にした国王夫妻の決意は固かったし、占術師として高名なモルスの言葉を国民たちも疑わなかった。
第二王子マルコスは、二十五歳年上のパウラと結婚した。マルコスたっての希望で結婚式は行わず、教会での結婚宣誓の場にも現れず、自分の名前がサインされた宣誓書を人づてに寄こすだけだった。
マルコスとパウラの結婚生活は、うまくいくはずもなかった。
相変わらずマルコスは遊びほうけ、パウラは城で夫の帰りを静かに待った。だが彼女は二十年近く書庫で働いていたということもあり非常に博識で、留守がちな夫のために公務を手伝った。
マルコスは遊び続けたが、二十代半ばくらいになるとさすがに自分のヤバさに気づいた。また遊んでくれる女性もだんだん減ってきたので、城に帰ることが多くなった。
城に帰ったマルコスを、パウラはいつも穏やかな微笑みで迎えた。多くは語らず聞かず、静かにそこにいてくれるパウラの存在がありがたいと、少しだけ思うようになった。
さらに時が流れ、マルコスが二十代後半になる頃には彼もいい加減落ち着き、公務を行うようになった。自分が表に出るとマルコスが嫌がると知っているパウラは裏方に努め、一日のほとんどを城内で過ごしていた。
三十歳に近くなるとマルコスも「いつまでも意地を張るのは格好悪いから」とかなんとか言って、パウラを連れて庭に出たり食事会に行ったりするようになった。
その頃のパウラはもう五十歳を越えていたが、「まるで親子のような夫婦だ」と嘲笑されても、夫婦揃って笑って流していた。
そして、マルコスが三十歳、パウラが五十五歳のある日。
パウラが、倒れた。
マルコスは病床に就いた妻を毎日見舞い、皺だらけのその手をしっかり握った。
「パウラ、死ぬな。うちには優秀な医師が余るほどいる。必ずおまえは元気になる!」
「いいえ、殿下。どれほど優れた医師や薬師でも、寿命を迎える人を助けることはできません」
涙ながらに訴えるマルコスに、パウラは穏やかな微笑みでそう言う。
賢い彼女は、自分の命がもう長くないとわかっていた。死を受け入れようとするパウラだが、マルコスはそうもいかない。
「パウラ、パウラ、いかないでくれ。俺は君に、ずっと側にいてほしい」
「ありがとうございます、殿下。そう言ってくださっただけで、わたくしは十分報われました」
パウラはぼろぼろ涙を流す若くて美しい夫の頬に触れて、「ねえ、殿下」と優しく呼びかける。
「いずれあなたの前に、あなたを誰よりも愛してくれる人が現れるでしょう」
「モルスのジジイはもう死んでいるだろう! パウラ、君は占術師じゃないんだから、変なことを言うな!」
「いいえ、わたくしは知っています。だから、泣かないで」
「泣いてなんかない!」
いい年をして子どものように反発をする夫を愛おしげに見つめて、パウラは目を細めた。
「……やっと、会えるのです。私の……あの人と……」
「パウラ、パウラ……!?」
マルコスがいくら声をかけても、揺さぶっても、虚ろな妻の瞳はここを見てはいない。
……初めて彼は、パウラの亡き恋人に、亡き子に、嫉妬した。
今も彼女の心を占めているだろう者たちに妬き――だが自分にはそんな資格がないのだという現実に、打ちひしがれるしかなかった。
第二王子妃パウラの葬儀は、身内だけで行われた。
マルコスとの結婚生活は、たったの十年。閨を共にしたことが一度もない夫婦だったが、マルコスはパウラの棺に縋って泣き、それが地中に埋められていくのを見ていられなくて地面に伏せっていた。
一年間の喪が明けると、マルコスのもとには再婚を申し出る手紙が殺到した。温和な才媛であるパウラのおかげでマルコスはすっかり丸くなり、公務に真面目に取り組む優秀な王子となっていたからだ。
だが彼は全ての縁談を蹴り、喪が明けてもなお黒い衣装を着て過ごした。
生前のパウラに「お仕事はきちんとするのですよ」と言われていたからか公務の手を抜くことはなかったが、時間が空けば墓地に行き、妻の墓石の前でぼうっと過ごしていた。
そんなマルコスを、皆は腫れ物に触れるように扱った。
国王や王妃でさえ、亡きモルスの占術の結果とはいえここまで息子が妃に執心するとは思っていなかったので、意気消沈する息子をそっと見守ることしかできなかった。
そうして、パウラが亡くなってちょうど二年となる日。
いつも以上に立派な花束を手に妻の墓参りをしていたマルコスは、驚いた。
他者の立ち入りを固く禁じている妻の墓の前に、見知らぬ若い女性が倒れていたからだ。
「……誰だ!」
腰に下げた剣に手をかけたマルコスが叫ぶと、女性の背中がびくっと動いた。彼女はゆっくりと体を起こし――その顔を見て、マルコスは愕然とした。
年の頃は、二十代前半くらいだろうか。
艶やかなブルネットに、ぱっちりとした目。
その顔つきは、まさに――
「……パウラ?」
「……えっ? 私を、ご存じなのですか?」
女性が、驚いたように尋ねる。
その声もまた、マルコスの亡き妻とそっくりだった。
マルコスは急ぎ女性を城に連れて帰り、あれこれ質問した。
だが彼女は記憶に大きな欠落があるようで、なぜあの立ち入り禁止の墓地にいたのかはわからなかったそうだ。しかも――
「パウラ……君は、パウラというんだな?」
「はい。パウラ・シントロンです」
震える唇でマルコスが問うと、向かいのソファに座った女性――パウラは気まずそうにうなずく。
彼女の名は、パウラ・シントロン。年齢は、二十三歳。エンバール王国の田舎出身。
マルコスは、混乱した。
目の前にいる女性はまさに、亡き妻が若くなった姿だった。名字も同じだし、王国の田舎出身だとも聞いていた。
だが、妻は二年前に死んだ。世の中には不思議な出来事がいくつもあるが、死者が若返って蘇るなんてことはありえない。
まさか、マルコスが亡き妻にいつまでも執着していると知ったどこぞの貴族が、妻にそっくりの娘を用意して仕向けてきたのではないか。むしろ、そうとしか考えられない。
パウラという女性は自分の名前や年齢など以外はほとんど覚えていないようで、マルコスが名乗っても不思議そうに首を傾げていた。エンバール王国の王子だと言っても、ぴんときていないようだった。
マルコスは、悩んだ。
彼女が敵対勢力の手先であるという可能性も十分あるが、妻に生き写しの彼女を放っておくことはできなかった。
だから彼はごく少数の者にだけ彼女の存在を教え、自分の城の奥深くに住まわせることにした。
ほぼ軟禁状態だが彼女は「保護してくださっただけで十分です」と言って境遇に文句は言わず、しかも亡きパウラと同じで本が好きだったので、城の書庫にずっとこもって過ごしていた。
マルコスは喪服を脱ぐようになり、墓参りの後にまっすぐ城に帰った。パウラと名乗る女性はマルコスが帰ってくると嬉しそうに出迎え、「マルコス様」と純粋に慕ってくれた。
……彼女が自分に好意を抱いているようだということは、すぐにわかった。
彼女は二十三歳で、自分は三十二歳。きっと、優しくて頼もしい年上の男性として憧れているのだろう。
だがマルコスには亡きパウラがいる。それに、敵のスパイだという可能性もまだ十分にあるので、油断はできない。
だからマルコスは彼女からの好意をそれとなく躱しつつ、ボロが出るのではないかと警戒しつつ――それでいて、彼女が城で待ってくれているという現状を密かに喜んでいた。
パウラという女性が現れて半年ほど経った、ある日。
「マルコス様」
いつものように公務と墓参りを終えて城に帰ったマルコスを、パウラが神妙な顔をして迎えた。
「私、わかりました。私は……時を超えて来たのです」
「……なに?」
息を呑むマルコスに、パウラは静かに言葉を紡ぐ。
……パウラの実家は貧乏で、両親は二十三歳の娘を金持ちに嫁がせようと企んだ。
その道中でパウラは馬車から逃げ出したものの、誤って崖から川に転落して……気がついたら、あの墓地に倒れていた。
「それが、光暦四百三十年のことです。私もてっきり、今は光暦四百三十年だと思っていました」
「……えっ? だが今は――」
「光暦四百六十四年。……私はきっと、三十年以上先の未来にやってきたのです」
そう言って、パウラは悲しげに微笑んだ。
「いろいろと、思い出しました。……私の記憶では、エンバール王国の王子様は一人だけでした。私のいた頃はまだ、マルコス様は生まれていないのです」
「……で、では君はまさか、パウラなのか!?」
「……やはり、マルコス様の亡き奥方も、パウラといったのですね」
パウラは、目を伏せた。
彼女にいらない苦労をかけさせまいと、マルコスは城内で亡き妻の名前を一切出さないようにした。使用人にも徹底させていたのだが、パウラは薄々そのことに気づいていて……記憶が戻ったことで、確信をもったのだろう。
「私が過ごしているお部屋も、奥方のものだったのでしょう? ……部屋の奥から、手記が見つかったのです」
そう言ってパウラが見せたのは、革表紙の小さなノート。マルコスはそれを見たことがないから、亡きパウラはこっそり書いたそれをどこかにしまっていたのだろう。
……いや、彼女は『隠していた』のだ。
いつか、『パウラ』が――若い頃の自分が見つけると知っていて。
「ここに書かれていることは……あまりにも衝撃的でした。でも、納得もしました」
ノートをぎゅっと胸に抱いたパウラが、「マルコス様」と泣きそうな笑みで名前を呼んでくる。
「私、あなたのことが好きです」
「……」
「私はいずれ、もとの時代に戻ります。私は王城に行き、書庫で働くようになります。そうして四十五歳になる年に、占術師モルス様によってマルコス王子の妃として選ばれるのです」
「……まさか、そんな――」
はっとした。
パウラにはかつて、愛した人がいた。
その人との間には、子どもがいた。
だが子どもも愛した人も、もう手の届かないところに行ってしまった。
それが、彼女が二十代の頃のことだった。
――パウラは、死ぬ前に言っていたではないか。
『いずれあなたの前に、あなたを誰よりも愛してくれる人が現れるでしょう』と。
どくん、と心臓が拍動する。
パウラがそっとマルコスのもとに来て、微笑む。
「マルコス様、お慕いしています」
「パウラ……」
「手記によれば私はもう二年もせずに、あの時代に帰ってしまうとのこと。……それまでに、あなたを愛したという証しを残してくれませんか?」
パウラの瞳を見下ろして――マルコスの脳裏を、静かに微笑む老いた妻の顔がよぎる。
妻は、全てわかっていた。全て、知っていた。
こうなることを、こうであるべきだということを。
なぜなら――いずれも、彼女が体験したことだったから。
マルコスは、そっとパウラの頬に触れた。
パウラは、嬉しそうに微笑んでいた。
第二王子妃パウラの死から、三年経ったある日。
マルコス王子の城の一室で、元気な産声が上がった。
余所の者が誰一人として知ることのない、マルコス王子が寵愛する女性。彼女が、マルコスにそっくりな男児を産んだ。
マルコスの子どもを、国王夫妻と兄王太子だけがこっそりと見に来た。
彼らはやっとマルコスがパウラの死を乗り越えたのだと喜んだが、そんな家族に対してもマルコスは恋人のことを教えなかった。
一度こうと決めたら頑固になるマルコスの性格をよくわかっている国王夫妻と王太子は、恋人のことをよく労るようにとだけ言って城を離れた。
聞き分けのいい家族で本当によかったと、マルコスは心の底から思った。
「パウラ……」
家族を見送ったマルコスは、大きな息を吐き出した。
早く、パウラのもとに帰りたい。両親や兄たちがいる間は別室に隠れてもらっていたけれど、今頃子ども部屋で赤ん坊の世話をしているだろう。
まだ名前を決めていないから、パウラと一緒に決めたい。そして時間が許す限り、家族三人で一緒にいたい。
……そう思っていたのに。
「殿下。『お嬢様』がどうしても、殿下以外を部屋に入れるなとおっしゃって……」
城内に戻ったマルコスに、メイドが困った顔で言った。使用人たちにはパウラのことを、『お嬢様』と呼ばせていたのだ。
マルコスは急いで子ども部屋に向かい――そして、愛するパウラの姿を見つけてほっとしたのもつかの間、窓から差し込む夕日を浴びてその姿がうっすら透けていることに気づいて悲鳴を上げた。
「パウラ!?」
「……マルコス様。どうやら、時間のようです」
こちらを見たパウラは寂しげに微笑み、ベビーベッドで眠る息子の頬にキスをしてこちらに歩み寄ってきた。
美しいブルネットが、白い肌が、彼女のために仕立てさせたドレスが、透けている。
ほっそりとした指が持ち上がり、マルコスの頬を優しく撫でた。そしてそこを伝っていた涙を、そっと拭ってくれる。
「泣かないで、私の愛しいあなた」
「……嫌だ。また君は、俺を置いていくのか!?」
思わずマルコスはパウラの手首を掴んだ――掴もうとしたが、すかっと宙を掻いた。
よろめくマルコスを支えることのできないパウラはくしゃりと顔をゆがめ、それでも気丈に微笑んだ。
「いいえ、会いに行くのです。私はもとの時間に戻り、マルコス王子の妃になります」
「……ならなくていい! パウラ、あんなっ……あんなろくでなしの妃になんて、ならなくていいんだ! 君は、思うままに生きればいい。昔の俺になんて、会わなくていいから……」
ぼろぼろ涙を流しながら叫ぶマルコスを見て、パウラはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、私は正しい時の流れを作らねばなりません。マルコス様、私は十分幸せでした。あなたの妃のパウラも……きっと、幸せでした」
「パウラ……!」
「今戻れば、ちょうどマルコス様がお生まれになった頃でしょうね。私の息子と夫が同い年なんて、神様は粋なことをなさいます」
「っ……」
「私は、運命に逆らいません。マルコス王子の妃になり、王子を支えます。それでも……私の愛はいつまでも、あなたのもとに」
パウラの体が傾き、マルコスはとっさに彼女に駆け寄る。
二人の唇が重なることはもうなかったが、マルコスは必死に両腕を伸ばして幻になろうとしている恋人を抱き込もうとする。
パウラはそんなマルコスを愛おしげに見つめ、小さな息を吐き出した。
「さようなら、私の愛した人。さようなら、私のかわいいぼうや。……いつまでも、愛しています」
「パウラ――!」
さあっと、窓の外から風が吹き込んだ。
レースのカーテンが揺れ、茜色の夕日がマルコスのまぶたの裏に躍った――その後にはもう、パウラの姿はどこにもなかった。
自分が生きるべき時代へと戻っていった、マルコスの『お嬢様』ことパウラ。
だが不思議なことに、姿を消した彼女のことをマルコス以外の誰一人として覚えていなかった。赤ん坊はいつの間にか城にいたことになり、皆不思議がっていた。
それでも、たった一人だけパウラのことを覚えているマルコスは赤ん坊のことを自分の息子だと主張し、しかも成長するたびにその顔はマルコスそっくりになっていったため、彼はマルコスの嫡子として正式に認められた。
一体相手は誰だったのかと国王夫妻からいくら問われても、マルコスは頑として口を開かず、ただ息子のことを慈しみ大切に育てた。
後の世における王家の系譜では、マルコスは妃パウラと結婚していたものの息子は妃の没後に生まれたため、他の女性に産ませたものとして記された。
だが長い時が流れ、エンバール王国では自然災害が発生したり内乱が起きたりして、過去の出来事を記す書物が失われていった。
そうしてやっとエンバール王国に平和が訪れた頃に、改めて歴史学者たちが歯抜け状態になった史書を紐解くようになった。
だがその頃になると、文献の多くが散逸して当時の出来事や王族の年齢もあやふやになっており――考証の末に、マルコス王子と妃パウラの間に息子がいたと記されるようになったのだった。
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