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あなたのもとへ、もうすぐ…

作者: からし
掲載日:2026/03/01

ショパンのノクターンおすすめです。

電話が鳴った。

それは、あなたの声ではなかった。


聞き覚えのない低い声が、あなたの名前を言った。

その瞬間、言葉の意味より先に、胸の奥が冷えた。


「事故で――」


それ以上は、よく覚えていない。

音は聞こえていたはずなのに、内容が頭に入らなかった。

世界が、水の底に沈んだみたいに遠くなった。


受話器を持ったまま、私はその場に立ち尽くした。

膝が震えていた。

呼吸の仕方がわからなくなった。


「……ちがう」


声にならない声が、喉の奥でつぶれた。

あなたは昨日まで、そこにいた。

普通に笑って、普通に話して、

「またね」と言った。


それなのに。


床に落ちた受話器が、乾いた音を立てた。

私は座り込んだ。

泣くより先に、

何も感じなくなった。


胸に、大きな穴があいた。

そこから、空気が全部抜けていった。


それが、絶望だった。


窓の外は、あの日からずっと同じ色をしていた。

雲の形も、空の明るさも、季節さえも変わっているはずなのに、私の目には、すべて同じ灰色に見えた。


あなたが隣にいない世界。それは色を失った白黒映画のようなはずなのに、なぜか私の毎日は、毒々しいほど鮮やかな極彩色に染まっていった。


「おはよう! 今日も最高の朝だね!」


鏡の中の私は、自分でも知らないほど大きな笑顔で、そう言った。


絶望という名の劇薬は、私の脳を焼き切り、代わりに「異様な明るさ」という防衛本能を植え付けた。

悲鳴を上げる代わりに、私は歌った。

泣き崩れる代わりに、ステップを刻んだ。

心が壊れる音を、自分の声でかき消した。


友人たちは私を見るたび、少しずつ表情を失っていった。


「無理しないで」

「休んだら?」

「ちゃんと悲しんでいいんだよ」


おかしなことを言うと思った。

私はこんなに元気そうだった。

こんなに笑っていた。


あなたのいない部屋で、私は二人分の朝食を作った。

コーヒーを二つ入れた。

トーストを二枚焼いた。

湯気が立ちのぼるのを見ながら、テレビのバラエティ番組を流した。


画面の中の笑い声に合わせて私はお腹を抱えて笑い転げた。

涙が頬を伝ったが、それはきっと、笑いすぎただけだと思った。

やがてテレビも終わり、私はあなたがよく聞いていた『ノクターン』を流した。


旋律は、低く、ゆっくりと始まった。

それは、夜の底に沈んでいくような音だった。

その音に合わせて、私の中の記憶が、一つずつ浮かび上がった。


あなたの声。

あなたの手。

あなたの癖。


どれも、もう触れられないものだった。


こんな生活を続けてあなたを待ち、思い続けたがあなたは帰って来なかった。

時間は、残酷なほど正確に過ぎる。

一日が過ぎた。

一週間が過ぎた。

一か月が過ぎた。

一年が過ぎた。


私の内側にある「絶望の貯金箱」は、気づけばあふれそうなほど、パンパンになっていた。

けれど私は、それを開けなかった。

開けたら、きっと壊れてしまうと思った。


だから私は、明るくなった。

不自然なほど、元気になった。

壊れないために、狂うことを選んだようだった。


旋律は、途中で少しだけ明るくなった。

その瞬間、私の心も、少しだけ緩んだ。


「ねえ、もういいよね」


私は、誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


張りつけていた「明るさ」という仮面は、音を立ててひび割れた。

笑うのをやめた瞬間、胸の奥にしまっていたものが、一気にあふれ出した。


寂しいと思った。

会いたいと思った。

どうしていないのかと思った。

どうして私を置いていったのかと思った。


言葉にならない感情は、重たい塊になって胸を押しつぶした。


私は床に座り込み、窓の外を見た。

同じ色の空だった。

同じ形の雲だった。


けれど、その日は少しだけ違って見えた。


「……私、生きてる」


声に出したとき、それはひどく現実的に響いた。


あなたはもういなかった。

それでも、私はそこにいた。


それは残酷だった。

それは事実だった。

それでも、私は息をしていた。


旋律は、終わりに向かって静かになっていった。

悲しみは消えなかった。

絶望も消えなかった。

それでも、それを抱えたまま呼吸している自分がいた。


「ねえ」


私は、あなたに向けて話しかけた。


「私、変な笑い方をしてた」

「あなたなら笑ってまた私をからかうように何か言ってくれたかな」


涙が、自然にこぼれた。

無理に笑わなくてもよかったのだと、ようやく思った。私はあなたが居なくなって初めて声をあげて泣いた。


最後の音が、ゆっくりほどけた。

部屋の中に、静けさが戻った。


私は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。

夜の空気が、頬に触れた。


「なぜ、あなただけが」


私は小さく言った。


「あなたにもう一度会いたい」

「あなたのいない世界なんていらない」

「あなたと過ごしたあの日々が恋しい」


なぜ私だけこんな世界で生きているのかわからなかった。あなたはもう居ないというのに、


あなたがいなくなったと聞いたあの瞬間からずっと吐き気がする。

喉の奥で何かが引っかかって出てこない。


もうこんな生活は嫌だ。あなたがいなくなったなんて嘘だと言ってどうかもう一度前のように笑顔で帰ってきてくれ。


こんなにも思っても時間が溶けるだけであなたは永遠に帰ってこない。「ああ、嫌だ」「嫌だ」涙がこぼれ、嗚咽の音だけが広がっていく。

ああ、あなたに会いに行こう。


眠れなくて買った睡眠薬の瓶を私は、ラムネのようにすべて貪り、温かい、眠ってしまうような心地の良い湯をたっぷりと張った風呂に浸かった。


私は、静かに、深く、息をした。もう悲しくは無い。もうすぐあなたに会えるのだから。

疲れていたせいか、睡眠薬のせいか、すぐに睡魔が私に襲いかかってきた。


ああ、眠たい。ああ、眠たい。今夜はよく眠れそうだ。

「おやすみなさい。」そうこの世界に言って、私は微笑みながら目を閉じた。

今あなたに会いにいくから。待っていて。


静まりきった部屋で優雅に鳴り響く『ノクターン』は華やかにフィナーレを決めもう鳴り響くことは無かった。

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