初感応
病室の隣から、子どもの泣き声が聞こえた気がした。
──いや、違う。
耳で聞こえたんじゃない。胸の奥に、ぐっと染み入るような、沈んだ気持ちが流れ込んでくる感覚だった。
「これ……まさか」
俺はスマホを確認する。
⭐︎《感応進行中》
⭐︎対象:隣室・入院患者(8歳・男子)
ベッドの上で息をのむ。
心臓がひとつ大きく鳴った、その瞬間。
──視界が、揺れた。
•
気がつくと、白い天井ではなく、柔らかなパステルカラーの天井が広がっていた。
すぐにわかった。ここは、病室の隣の──子ども病棟の一室。
カーテンの向こうから、誰かのすすり泣く声が聞こえる。
「……ママ、なんで来ないの……?」
声の主は、小さな男の子。
ベッドに膝を抱えて、泣きそうな目をしながら小さなぬいぐるみを抱いていた。
──この子が、スキルの“対象”か。
その瞬間、胸の奥がざわっとする。
彼の「さみしさ」「不安」「置いていかれたような孤独」が、まるで俺のことみたいに入り込んできた。
「っ……これが……《共感同期》……」
頭がくらくらする。
まるで、自分がこの子の人生を少しだけ“借りている”ような、不思議な感覚。
•
「ねぇ」
思わず声をかける。
男の子がぴくりと反応した。
「……お兄ちゃん、だれ?」
「……となりの部屋にいる、ただの“おせっかいなお兄ちゃん”」
「へんなの」
そう言いながらも、男の子は目をそらさなかった。
その視線の奥に、もうひとつの感情が重なっていた。
──「期待」だ。
捨てきれない希望。
本当は「誰かに気づいてほしい」と思っている、その小さな声。
俺はゆっくりと笑って言った。
「大丈夫。今日は、ちゃんと君の“声”が届いてる」
その瞬間、スキルの光がふわりと消える。
•
「……戻ってきた、か」
病室のベッドの上。
視界には、見慣れた天井。
「ほう。初めてにしては、上出来じゃないですか?」
ラフィエルが、窓際で腕を組んでそこにいた。
そして、手元の資料を手に取り言った。
「どうだった?」
「……疲れた。けど、なんか──泣きそうだった」
「それが、“共感”よ」
ラフィエルがぽつりと告げる。
書類をまた直す。
「さあ、あなたはこれから、もっと深く、もっと重たい“声”に触れていくわ」
俺はゆっくりと目を閉じた。
──この夏、俺はきっと変わっていく。
そう思った矢先、ラフィエルが何かに気づいたように、視線を窓の外に向けた。
「……来たわね」
低く呟いたその声に、俺は顔を上げる。
「え? 誰が?」
「“次”よ。もう動き出してる」
ラフィエルは、どこか張り詰めた表情のまま、手に持っていた書類を消すようにパッと開いた掌でかき消した。
「ちょ、待って。なんか不穏な空気なんだけど?」
「あなたは、ただ“感応”するだけじゃない。──時には、自分の“声”を届ける側になる必要がある」
「俺が……?」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
けど──どこか胸の奥で、「そうか」と頷く自分がいた。
「覚悟しなさい、朝霧飛来。これは“物語”じゃなくて、あなたの現実なんだから」
ラフィエルはくるりと背を向けると、窓辺で静かに翼を揺らした。
──俺の知らない、誰かの“痛み”が、また俺を呼ぼうとしている。
「でも、お、俺、あの子に何もしてあげれてないよ!」
「……。」
(こいつ……。)
ラフィエルが目を細める。
「共感スキルというのは、転生の中でもマイナーなんです。決して主役になるスキルじゃありません。」
「え???」
「あなたが求めるならば、自ら救いなさい。この現実世界を、そのスキルを使って……。」
「……。」
(めんどくせぇぇぇぇぇ。ただ、共感して、スキルを使いきれば私は天界に戻れるのにぃ!!!)
ラフィエルは部屋の角へ行き、壁をまた蹴り出した。
「ラフィエルさん?」
(これ、別に手当貰えるかしら。貰えるわよね?貰える。きっと)
「なんですか?」
ラフィエルは顔を整え振り向く。
「俺、やってみます。」
「……。はい。」
「え?反応薄くないですか?」
「ラフィエルさん、さっき壁蹴ってましたよね?」
「……蹴ってません。」
(誰も見てないから“なかったこと”にする。それが天使の掟)
こうして俺は初めてスキル「共感」を使った。
そして誰も救えなかった。
次の《共感》は、きっともっと深い場所へ。
そして、その先に──“あの少年”の問いが待っている。
「次は、もう少し届くといいな──俺の声が。」