春、綺麗な踊りを
その日、公園の並木道には、春の風が吹いていた。
舞い上がる桜の花びらが、空と地面の境界を曖昧にして、
あたり一面が、色のついた静けさに満たされていた。
僕は、時間より早く着いてしまって、
ベンチに座ったまま、遠くを見ていた。
携帯を何度か確認したけれど、通知は何もなかった。
春の風がシャツの裾を揺らして、
桜の甘い匂いと土のにおいがまじっていた。
やがて、君が来た。
細い並木道の向こうから、
白い靴で、まっすぐに歩いてきた。
地面は桜の絨毯みたいで、
君は、そのひとつひとつを踏みながら進んできた。
それは、まるで何かを試すような歩き方だった。
躊躇いと覚悟が、同じリズムで混ざっていた。
足元で小さな音がした。
湿った花びらを踏みしめる、柔らかい音。
それが不思議と、心臓の奥に響いた。
君は笑っていた。
遠くからでもわかるくらい、柔らかい笑顔だった。
でも、どこかで、寂しさをまとっていた。
悲しいのか、諦めているのか、わからない。
それでも、君は美しかった。
踊っているみたいだった。
ほんのわずか、つま先でリズムをとるように歩くその姿が、
風と桜に溶け込んで、季節の一部みたいだった。
それが、少しだけこわかった。
このまま、季節と一緒に君が消えてしまいそうで。
僕は立ち上がることもできず、
声をかけるタイミングを探して、探しすぎて、
結局、何もできなかった。
君はこちらを見ていなかった。
視線は少し下に落ちていて、
足元の花びらを見ているようで、
でも本当は、何も見ていなかった気がする。
体だけはこっちを向いていたのに、
心だけは、もう遠くにいた。
春って、こんなにやわらかいのに、
どうしてこんなに痛いんだろう。
暖かいはずの風が、胸の奥に突き刺さるようだった。
僕たちは、何かを言うべきだったのかもしれない。
でも、言葉はどこにも見当たらなかった。
「元気でね」なんて、
「また会えるといいね」なんて、
もう、言えなかった。
君が僕の前まで来て、ふと立ち止まった。
ほんの少しだけ目が合った気がした。
でもそれは、偶然だったのかもしれない。
君の目は、僕ではない何かを見ていた。
記憶か、未来か、過去か、
わからないけれど、確かに僕ではなかった。
「……春、だね」
君が呟いた。
その声が、花びらの音よりも小さくて、
風に流れてしまいそうだった。
だけど、ちゃんと聞こえた。
「うん」
それだけ言うと、君はまた微笑んで、
ゆっくりと背を向けた。
そして、何もなかったように歩き出した。
まるで、これが最後だとわかっていたかのように。
その背中に手を伸ばしたいと思った。
でも、伸ばせなかった。
この数秒に何かを託すには、
僕たちはもう、大人になりすぎていた。
花を踏む音が、まだ遠くで響いていた。
春の風が、薄く、やさしく通り過ぎていく。
僕はひとり、花の上に立ち尽くして、
足元で崩れていく色を見ていた。
ああ、きっともう、わかってたんだ。
君が、あのとき、僕の目を見なかった理由も。
そして僕が、手を伸ばさなかった理由も。
これが「終わり」であることを、
心は、最初から知っていた。
でも、どうしても忘れられない。
君が踏みしめた花びらの音。
踊るように歩いていた春の君。
何も語らなかったあの瞬間が、
なぜか今でも、
僕の中で、美しい記憶として残っている。