タイムリミットまであと【1日】
カリカリ。
深夜のアルベルト殿下の執務室にはペンの音が響いていた。
アルベルト殿下と、私、レオンと、エディは、皆真剣に仕事をしていた。
「終わりました。ご確認を!!」
「こっちも終わりました」
「私も終わります。皆で確認を」
レオンとエディ、私はほとんど同時に声を上げたが、アルベルト殿下はまだのようだった。頭を掻きながらペンを動かしていた。
「待ってくれ、私はもう少しかかりそうだ」
「お手伝いしますわ、アルベルト殿下。どちらですか?」
私は殿下の隣に座って、書類を見た。
「あ、ああ。この辺りがまだ終わっていない」
「かしこまりました。エディ様とレオン様は、出来ている書類の最終チェックをお願い致します」
私は、終わった書類を2人に渡した。
「はい」
「はい」
☆==☆==☆==
「終わった……」
全ての書類のチェックが終わって、私たちはようやく一息ついた。
「朝一で、複写してもらうように頼んできます」
エディが完成した書類を持って、執務室を出て行った。
「本当に終わったのか? あの量が?」
殿下が隣で目を白黒させていた。無理もない。本当にレオンとエディは優秀だ。私の想定よりも随分と早く仕事が終わった。
「ふふふ、はい。エディ様とレオン様のおかけですね」
私はレオンを見ながら疲れて少し気の抜けた顔で笑った。
「いえ、ロゼッタ嬢のご指示が的確だったからですよ」
レオンを見ていると、レオンがアルベルト殿下を見ながら声を上げた。
「どうされたのですか? 殿下」
レオンの声でアルベルト殿下を見ると、アルベルト殿下は穴が開きそうなほどじっと私を見ていた。ぎょっとしていると、アルベルト殿下が口を開いた。
「いや、久しぶりにロゼッタと話をしたと思ってな」
「そう……ですか?」
仕事を終わらせるために仕方なく隣に座ったが、仕事が終わればここにいる必要はない。私は、居心地が悪くて、アルベルト殿下の隣を離れようと席を立とうとした。すると、アルベルト殿下に手を握られた。ぞわぞわと嫌悪感で鳥肌が立った。
「やはり……ロゼッタは私のことを心から想ってくれているのだな……」
え?
今、アルベルト殿下は、なんて言った?
「殿下、手を離して下さい」
「なぜだ? 嬉しいだろう? ああ、恥ずかしいのか?」
私は、今のアルベルト殿下を見て、もう私の知っているアルベルト殿下ではないのだと思った。彼は昔から一つのことに夢中になると周りが見えなく所があった。だが、他人の気持ちを蔑ろにするような人ではなかった。こんな風に私の気持ちを無視するような……そんな無神経な人じゃなかった。
――アルベルト殿下に好きな人が出来た。私の存在を消してでも一緒になりたい女性が出来た。
私はその点については仕方ないと思っている。私とアルベルト殿下は、元々、母同士がとても仲が良く婚約が決まった。幼い頃から共に過ごし、もう互いに家族のようだった。そして、時にライバルで、時に戦友だった。殿下は帝王学を私は王妃教育を互いに叱咤激励して学び、支え合う関係だった。殿下とカルラのような甘いずっぱい関係なんて少しもなかった。
私たちはお互いに知り過ぎている。だから、アルベルト殿下が私を消そうとしていると知った時も、心のどこでは『ああ、殿下が本当に思い込んだら、そのくらいのことはするだろう……』と、どこか納得していた。
だからこそ、今の発言はらしくないと思った。
本来、直情型で純情一途なアルベルト殿下は、他に好きな子はいるのに、思わせぶりな態度で、私の手を握るようなそんな中途半端なことをする男ではないのだ。
きっと色んな意味で、アルベルト殿下は女性という存在を知ってしまったのだろうと思う。いや、この場合溺れているというのが正しいかもしれない。今の殿下はカルラ基準で世の中の女性を判断しているのだ。だから、私もカルラと同じように思うと勘違いをしている。
女性を知ったつもりになって、勘違いしているアルベルト殿下を見ていられなかった。
「アルベルト殿下、おやめください!!」
私は、大きな声を上げていた。
――お願いです、アルベルト殿下。これ以上、私にあなたを幻滅させないで下さい。
「殿下。そこまでです」
気が付けば、私とアルベルト殿下の間にはレオンがいてくれた。
「……レオン様」
レオンの背中が見えて、心からほっとしていたことに気付いた。レオンの向こうから殿下の苛立った声が聞こえた。
「レオン。悪いが、少し席を外してくれないか? ロゼッタに礼をしたい」
話などない、お礼などいらないと断ろうとすると、先にレオンが声を上げた。
「お断りします! 深夜に、結婚前の男女をお二人にするわけにはいきません」
「私は、ロゼッタの婚約者だ」
「お断りします!! 例え今は婚約者であろうと、未婚のしかも怯えている女性と二人きりになどできません!!」
「……ロゼッタは、怯えてなどいないだろう? 早く部屋を出ろ、レオン」
「お断りします」
一歩も引かないレオンの態度に、アルベルト殿下は何も言えないようだった。
私もレオンの後ろから少しだけ身体をずらして、殿下を見ながら言った。
「アルベルト殿下、私も遠慮致します」
「ロゼッタ……」
それから数秒睨み合っていると、扉がノックされて、エディが戻って来た。
「失礼します。書類の複写を頼んで参りました。調印には間に合わせてくれるとのことです。それと兄さん、ロゼッタ嬢。今日はもう遅いので城に部屋を用意してくれているそうです。そろそろ、お休みになったほうがいいでしょう。調印に遅れるわけには参りません」
エディの登場に私はほっとしていた。
レオンは、私を庇うように部屋から出る体勢で言った。
「では、殿下。ロゼッタ嬢は私と、エディでお部屋にお送りいたします。ほら、エディ行くぞ」
「え? あ、はい。それでは殿下失礼いたします」
エディは部屋に入った途端にまた出ることになった。
「それでは、アルベルト殿下。ごきげんよう」
「……待て、ロゼッタ」
私たちはアルベルト殿下を無視して、逃げるように殿下の執務室を出たのだった。
その後、私はレオンたちに今日泊まる部屋まで送ってもらうことになった。
殿下の執務室から随分と離れた廊下まで来た時、ふと廊下から窓の外を見た。すると、そこには明るい月の光に照らされた庭園が見えた。もうすぐ満月だろうか? 月の光に照らされた王家の庭はこの世の物とは思えないほど神秘的で荘厳だった。思わず見とれていると、レオンが声をかけてくれた。
「少し立ち止まって見ますか?」
「でも、お2人共お疲れでしょう? 早くお部屋に……」
するとエディが困ったように言った。
「少し庭を眺めるくらい待ちますよ」
レオンは、優しく目を細めていた。
「ではもう少しだけ」
私は2人に甘えてこの美しい光景をもう少し眺めることにした。
庭を眺めながら私はぼんやりと考えていた。
――人は変わるのだと……。
もうアルベルト殿下は以前の殿下ではない。それにきっと私も、変わった。今は、もう前のように殿下を良き王にするために尽力しようとは思えなかった。
むしろ……。
先程、自分を必死に守ってくれたレオンの後ろ姿を思い出して、レオンの側にいたいと思うようになっていた。
「レオン様、エディ様本日はありがとうございました」
私が2人にお礼を言うと、レオンがふわりと優しい笑みを浮かべた。
「いえ、あなたの助けになれたのなら、こんなに嬉しいことはありません。明日の調印式も同席してもよろしいでしょうか?」
「え? いいのですか?」
「はい。ぜひ」
レオンの横で、エディも呟くように言った。
「私も最後までお付き合い致します」
「ありがとうございます」
それから私たちは部屋に戻って、使者との打合せまで少し身体を休め、お昼過ぎにシリアール国と調印の場に向かったのだった。
☆==☆==☆==
『ロゼッタ嬢、本当にありがとう。ぜひ次もあなたに交渉をお願いしたいものです』
『こちらこそ、ありがとうございました。また機会がありましたら、よろしくお願い致します』
調印を終えて、シリアール国の使者と握手をして別れの挨拶をした。
アルベルト殿下は、この後、使者との会食を予定しているらしいので、使者と共に去って行った。
元々アルベルト殿下は、この仕事を私抜きに済ませようと思っていたので、調印後に会食に席には、カルラと出る予定していたようだ。
ドランからは『なんでも、ロゼッタ様の代わりに他の令嬢が会食に出られるとおっしゃっていました』と聞いたので、カルラと出るかは聞いてないのだが、絶対にカルラだろう。
殿下と使者が部屋を出ると、都合の悪くなった陛下の代わりに、本日の調印に同席してくれたこの国の筆頭公爵であるロンド公爵が私に声をかけてくれた。
「ロゼッタ嬢。今回の調印内容は、昨日の朝に確認していた物と随分違うようだ。実は私も『よく先方がこの内容で納得したものだ』と不思議に思っていたが……蓋を開ければ今日の朝には全く別の非常に合理的な物になっていた。疑問に思って文官に確認すると、『殿下があなたに無断で調印を進めたが、先方が納得せずにあなたが1日でまとめ直した』と言うじゃないか! 殿下は困ったものだが、さすがは、ロゼッタ嬢だ。あなたが王妃になるのなら、私も諦めがつく。もしあなた以外の女性が王妃候補だったのなら、なんとしてでも私の娘を王妃にしたのだがな……ははは、冗談だぞ? 本気にしないでくれ」
ロンド公爵の娘であるロンド公爵令嬢のアリアは、アルベルト殿下の弟であるジルベルト殿下の婚約者なのだ。
「今回は、レオン様とエディ様も手伝って下さったからできたことです」
「ふむ……だが、あの二人とて、殿下には手は貸さずに、ロゼッタ嬢には貸したのだろう? 優秀な人間が手を貸そうと思えるのは、上に立つものとして大切な資質だ。何事も一人で出来ることなどそうないのだからな。まぁ、殿下には不安はあるが、あなたがいればゆくゆくは、陛下のような素晴らしい王になられることだろう。どうか殿下を頼みましたぞ」
「……」
私は、公爵の言葉に何と答えればいいのかわからずに黙ってしまった。どうやら公爵の耳には、『私たちが婚約破棄をする』ということが伝わっていないようだった。すると公爵が慌てた様子で声をかけてきた。
「どうされた、ロゼッタ嬢……先程の娘を王妃にというのは冗談だぞ?」
「ロンド公爵、少々よろしいでしょうか?」
私が困っていると、レオンが声を上げた。
「レオン殿か。レオン殿、兄上は伯爵領を随分と発展させているようですね。領主として見事な手腕だ」
「恐れ入ります。兄に伝えておきます。ところで公爵……実はお耳に入れておいてほしいことが……」
「なんでしょうかな?」
レオンが何かを伝えると、公爵は顔色を変えた。
「なんだと? 学園でそのようなことが……アリアにもしそのようなことがあれば……!! レオン殿情報感謝する。同じ轍を踏まぬように、私は目を光らせておくことに致します」
公爵が厳しい顔でそう言った後に、私の方を見た。
「ロゼッタ嬢。無神経なことを言ってしまった。あなたは、あなたの幸せを探してほしい。それでは私は急用ができたので、失礼する」
公爵は、私にそのように告げると部屋を出た。きっとレオンは、私と殿下が婚約破棄をすることを伝えたのだろう。
「ロゼッタ嬢。そろそろ、出かけませんか?」
レオンが私の顔を覗き込みながら言った。
「え? 今からですか?」
「はい」
てっきり、今日出掛けるの無理だと思っていたので、私は嬉しくなった。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
エディに見送られて、私はレオンにエスコートされて部屋を出た。
「ロゼッタ嬢。馬での移動でもいいですか?」
「え? はい。ドレスですが……」
「大丈夫です」
そしてレオンは、私を横抱きにして、馬に乗った。私も落ちないようにレオンに抱きついた。
レオンはとても馬に乗るが上手かった。私は、レオンの心臓の音が聞こえて顔を赤くしながらも、とても安心して、レオンの腕の中で馬に揺られたのだった。
「間に合った! ここです」
「キレイ……」
レオンが連れて来てくれたのは、草原に沈む夕日が見れる場所だった。
黄金色の草原にさらさらと風が渡っていく。
大きな夕日に照らされた世界はとても美しいと思えた。
屋敷からそう遠くもないのに、私はこれまでこんな近くにこれほど美しい場所があることを知らなかった。
「ずっと、いつかあなたに見せたいと思っていました」
私は馬の上でレオンに抱かれながら、レオンの顔を見上げた。
「ありがとうございます。とても美しいです」
「あなたの方がずっと……」
レオンが切なそうな瞳で私を見ると、すぐに目を逸らした。
「いえ、ここまで待ったのです。この先は……明日まで――待ちます」
私の心臓が痛いほどに脈を打った。
全身の血液が高速で流れている気がする。胸の鼓動が早い。
――それってもしかして……。
顔に熱が集まる。
私は少し震える声で言った。
「はい……」
短い返事だったが、今の私にはこれ以上に言葉に出来なかった。
「ロゼッタ嬢……」
レオンの私を抱きしめる腕に力が入った。私は無意識にレオンの胸に頬を寄せていた。
「今日は、名残惜しいですが……このままお送りいたします」
私はそれを聞いて、『まだ帰りたくない』と思っていたが、小さく頷いた。
その後、私はレオンに馬で侯爵邸まで送って貰った。
そして、私はどこかふわふわとした気持ちで、夕食を摂ってお風呂に入ってベッドに入った。
「……あ!」
そしてその時、レオンから明日の説明を聞くのを忘れていたことに気付いたのだった。