解釈違いなので逃げたいです
煌びやかなシャンデリアがゆるやかに揺れる、王宮の大広間。
年に数度あるかないかの大規模な夜会とあって、会場には王都中の貴族たちが集い、談笑と社交の輪が花開いている。
私――セリナ・リンドンは、その会場の隅にひっそりと立っていた。
控えめな色合いのドレス。結い上げただけの赤髪。身に纏う香水さえも、目立たぬようにとごくごく薄く。
私は人の輪に入ることが苦手だ。
それでもこの夜会に出席したのは、おばあ様の「そろそろ婿を迎える覚悟を固めなさい」という、半ば脅しにも似た命令に従ってのことだった。
そして今日の夜会は特別なもので、第三王子の婚約者についての重要な発表があるらしい。
推しに関わる公式発表だけはどうしても聞きたいので、目立たず終わればそれでいいとただ時が過ぎるのを待っていたのだけれど。
「まあ、まあ……こんなところに、随分と慎ましやかなお方がいらっしゃいますのね」
鋭い声に肩をすくめると、気づかぬうちに近くへ寄っていた数人の令嬢たちが、私を囲むように立っていた。
「見慣れない顔ね。どこの家の方かしら?」
「まさか第三王子の婚約者候補に名乗りを上げるおつもりなのかしら?」
「まあまあ、なんてことでしょう……!」
ギラギラとした瞳で令嬢たちは上から下まで私を検分してくる。
なるほど。彼女たちも第三王子の婚約者候補に名乗りをあげているらしい。わかる。
「リンドン伯爵家が長女、セリナ・リンドンと申します」
ここは穏便に挨拶をしておこう。
やむを得ず名を告げた瞬間、彼女たちの表情にわずかな緊張が走った。
「……リンドンですって!?」
「えっ、私は聞いた事がありませんが……」
「アビゲイル様、ご存知なのですか」
「えっ、ええ……」
リンドンの名は王都でもそれなりに通っているみたい。最初につっかかって来た令嬢はどうやら知っているらしく、青ざめてしまった。
リンドン家は魔女の血を継ぐ一族として知られている。特に祖母は、かつて東の魔女と畏れられるほどの何かをしたらしい。
「ま、まぁ、それはそれは。あの有名なご家系にしては……控えめなお召し物ですこと」
中央にいる令嬢は気を取り直したらしく、柔らかな口ぶりに毒が混じる。
言葉に含みがあるのは明らかだったが、私はただ、静かに微笑むことしかできなかった。
面倒だから。その一点につきる。
(ずっと引きこもっていたから、もう疲れた……家に帰りたい)
どう考えても社交界向きではない私に婿を見つけろだなんて無茶を言う。魔女な祖母は横暴である。
だが今日は、目的のものを見るまでは帰ることができない。令嬢たちとのこれ以上の無駄な会話を避けようと、一歩引いたその時だった。
突然、場が静まり返った。
広間の入り口から、ゆっくりと一人の青年が歩み出てくる。
高貴な黒の正装に身を包み、姿勢正しく歩むその人影に、誰もが視線を向けていた。
金の髪。蒼い瞳。そして、鋭く整ったその顔立ち。
(うあああああああ供給ありがとうございますうう!)
現れたのは、私が待ち望んでいた第三王子のレオンハルト・フォン・イーリス殿下その人である。
彼の名声と美貌は、引きこもりの私にまで届いた。新聞に載っていたら切り抜いて記事をスクラップし、彼が行ったという場所があれば、そこを調べたりもする。推しである。
王宮内でもひときわ異彩を放つ若き王子が、まっすぐに壇上の中央へと進み出た。
そのあとを従う侍従が、銀盆を掲げている。
令嬢たちは何が発表されるのかと色めき立ち、私もこっそりとその仲間に入る。
(……あれは何だろう?)
盆の上には、白い布で覆われた何かがある。
レオンハルト殿下がそれを手に取り、ためらいなく布を持ち上げた。
あらわになったのは、一枚のハンカチだった。
目を疑った。
白地の布に、金と蒼の糸で丁寧に縫い込まれた肖像。それは、第三王子の顔そのものだ。
ハンカチに施されたそのご尊顔の刺繍はまるで絵画のように繊細で、魔術糸が光を受けて淡く輝いている。
なんてド派手な刺繍入りハンカチだ。実用的なハンカチ部分はほとんどない。刺繍そのもの。
(うっ……!)
私は思わず嗚咽が漏れそうになった。
「なにかしら、あの麗しい絵画は」
「刺繍の精度が凄まじいですわね。名のある職人の作なのでしょうか」
「なんだこれは……国宝か?」
集まった貴族たちは皆、いぶかしげな顔をしながらもあの盛り盛りの刺繍肖像画ハンカチを称えている。
だってそこにあらせられるお顔は、随一の美貌と名高い第三王子のものだったのだから。
「これは、私の命を救った人物が残したものだ。魔術の術式が込められており、極めて高い技術を示している」
レオンハルト殿下の澄んだ声が会場に響き渡る。
広間には静寂が落ちる。生命を救った、だなんて大袈裟だ。
けれど、ほんの数秒後には、波紋のようにざわめきが広がった。
「殿下のお命を……救った?」
「ただのハンカチではないのね」
「なにかしら……」
その声の数々が、いやでも耳に入る。
私の意識はもう、ひとつの現実を前に崩れかけていた。
あの、誰にも見せるつもりのなかった推しであるレオンハルト殿下のご尊顔を縫い上げた一枚。
白地に金と蒼の魔術糸。丁寧に、誠実に、推しへの愛と尊さと魔力をとことん込めて縫った、完全なる趣味作である。
その刺繍を今、当の本人が、王族が、大勢の前で掲げている。
(今なら静かに死ねる)
頭が真っ白になり、指先が冷たくなってゆく。
けれど、殿下はそれにお構いなしに、さらに追い打ちをかける。
「このハンカチの主は、名乗り出ることなく姿を消した。だが私は……この方を婚約者として迎えたいと考えている」
会場が騒然となり、どよめきが走る。
「こっここここ婚約者!?」
「あのハンカチの主が?」
「王子が直々に!?」
周囲の視線が、まるで探すように動き出すのが分かる。なるほど、そのために集められた令嬢たちだったようだ。
お互いが鋭く牽制しあい、獰猛な視線が絡み合う。
(終わった)
私は天を仰いだ。
こちらは『推しに認識されたくない派』なのである。陰からそっと見守るだけで幸せだった。
よりによって、王子がハンカチの主を「婚約者にしたい」と高らかに宣言してしまった。
アレの制作者は私だ。第三王子が私なんかを婚約者に……?
(いやいや……無理無理無理無理無理無理!)
顔面蒼白のまま、私はそろりと後ずさる。
誰にも気づかれぬよう、空気のように。
目を伏せて、ドレスのすそを持ち上げ、静かに。慎重に。ひと息ごとに心の中で念じながら、会場の壁際を滑るように進む。
(ばれない、ばれない、私は壁……装飾の一部……目立たない木の葉……その辺の枝)
扉が見えた瞬間、ようやく息を吸った。
廊下に出たところで、初めて胸に手を当てる。
心臓がばくばくと暴れている。手が冷たいのに、背中には汗が伝う。
(どうしてこうなったの!? あのとき、別のハンカチを持っていれば……っ)
そして、家へと逃げ帰りながら、おそらく運命を変えたであろうあの時の出来事を思い出していた。
**
ひと月前の朝──
私は王都の東にあるリンドン伯爵領にいた。
緑が多く、のどかな場所だ。
「セリナ。お前、またそんなものを縫っているの?」
おばあ様の声音には、うんざりとした気配が滲んでいる。
『そんなもの』と指されたのは、手元で刺繍しているハンカチだ。
推しを想って刺したこのハンカチは、白地の布に金と青の魔術糸を用い、蒼眼の王子──つまり推し──の麗しい横顔を丁寧に刺繍した渾身の一作だった。額にうっすら汗が滲むさまや、口元の引き結び方にこだわりすぎて三日寝不足だ。
しかも、王家の魔除け紋やらなにやら手当り次第に縫い込むというおまけつき。
これを本人に届けるつもりなど毛頭ない。ただ、推しの加護を感じたかっただけの、限界オタクの習性である。
「はい。刺繍枠の整理がまだ……」
私は答えながらも、手元の布をそっと裏返す。危ない。今見られたら推しハンカチだとバレるところだった。
「まったく……貴族の令嬢が、日がな一日部屋に籠もって刺繍とは。いつになったら夜会に出るつもりなの!」
「ええっと、その、次こそは……」
「次、次と逃げて、もう二年よ? お前の代で家が絶えてもいいとでも言うの?」
私のおばあ様、ヴァイオレット・リンドンは、この伯爵家を長年支えてきた芯の強い女性だ。当主の座を母に譲った後も、我が家での影響力はかなり大きい。我が家は女系なので、前伯爵でもある。
おばあ様は家系の名誉を何より重んじ、魔女の血筋を誇りとしてきた。だからこそ、今の私が受け入れられないのも当然かもしれない。
(でも……私には、無理なんだもの)
夜会なんて、恐ろしい。知らない人と目を合わせて話すだけではなく、歓談やダンスをしなければならない。想像しただけで緊張で指が震えてしまう。
貴族の娘として相応しくないと分かっている。それでも、居心地がいいのは、こうして布に向き合っている時間だった。長い赤髪をふたつの三つ編みにして、ソファーでクッションに包まれながらただただ針を刺すのが楽しい。
「いい加減になさい。お前が婿を迎えなければ、この家は断絶するのよ。縫い物で家を存続できるとでも思っているの?」
「それは……その……」
図星だった。
私は顔を伏せる。
「セリナ。わが一族の血を継ぐ者に相応しい人を探しなさい。お前は魔女の末裔。誇りを持ちなさい」
私は魔法が使えない。おまじないの真似事のようなことは出来ても、それだけだ。
おばあ様だって、今はカード占いをしているだけだもの。
「……誇りなんて、持ったことないもの……」
そう呟いたら、祖母はほんの一瞬だけ、表情を曇らせたように見えた。
おばあ様と違って、私は落ちこぼれだ。もっと華やかで派手な魔女であれたらよかったのに。
「次の夜会に出なければ、私が勝手に見繕いますからね」
おばあ様はそう言い残して去っていった。私の胸の中に重たいものだけが残された。
(結婚、結婚って……私が誰かと暮らすなんて、想像もつかない)
引きこもりの令嬢に婿取りなんて。誰かと見つめ合って、愛を語り合うだなんて、気まずすぎて死にかねない。愛がないのもいやだけど。
だけど家は断絶の危機、縁談の話も迫っている。私だって、おばあ様をいつまでも悲しませたいわけじゃない。家を潰したいわけでもない。
婿を取るべきだって分かっている。それでもいろいろと難しいのだ。つまり、八方ふさがりだった。
それで、私は逃げた。
刺繍道具一式と数日分の着替えを詰めて、旅支度をして、使用人には「しばらく静養してきます」とだけ言い残し、こっそり屋敷を出た。
(少しくらい、私にだって自由があってもいいはずよ。最後、最後にするの)
目的地は森にある別荘……といえば聞こえがいいが、おじい様が遺した小さな赤い屋根のおうちだ。
いつもそこに逃げ込むので、おばあ様もよく分かっている。
緑深い渓谷を馬車で抜けていた時、不意に馬がいななき、止まった。御者が「少し様子を見てきます」と馬車を離れた直後。
聞こえたのだ。何かがうめくような、掠れた声が。そしてそこに、血まみれで倒れている、ひとりの青年の姿があった。
美しい金の髪を泥にまみれさせて、腹を押さえながら倒れている。
(なななななんでよりによって、推しがこんなところで倒れてるの!?)
金の髪が泥にまみれていても分かる。整った横顔、そして肩口に刻まれた王家の紋章入りの装飾。
目の前にいたのは、どう見ても手負いの推し――第三王子レオンハルト殿下だった。
(この傷は、獣? この地区だったら魔獣かしら……とにかく、急がないと!)
混乱する脳を殴って叱りつけ、とにかく急ぎ応急処置を始める。といっても、私は医術に詳しくはない。
(私に出来るとしたら、止血の術式を縫うくらいしか……そうだ、何か包帯代わりになる布……!)
そのとき、鞄の中から手近にあった布を咄嗟に取り出した。
「……っ、コレ」
例の推し肖像画刺繍ハンカチが出てきた。
別の布にしようとまっさらなものを探していたとき、私はあることに気がついた。
(たしかこのハンカチ……刺繍で色んな魔術を盛り込んだはず)
誰かに見せることなど一切想定せず、自室でひっそりと刺繍していたそのハンカチには、思いつく限りの魔術が重ねがけしていた。楽しくなっちゃって。
(魔除けくらいは、まあ基本よね)
まずは王家由来の古式魔除け紋を参考にして、対魔獣・対呪詛用にちょっとだけアレンジしてぬかりなく縫い込み済み。
さらに万が一のときのために、短時間だけ刃や牙を弾く物理遮断結界も重ねがけ。図案の下にこっそり隠すように入れてあるのがポイント。
加護の織糸という魔力との相性がいい特別な糸に、聖属性の魔力を染み込ませて――これで、ハンカチ全体にほんのり守りの膜が張られるという優れもの。仕立てるの大変だったなぁ……。
あとは医療系の術式。止血用の熱圧紋を刺繍殿下の袖口に、局所治癒の簡易陣を胸元に施した。
毒とか呪いとか、何が起こるか分からない世界だから、縁取りにはしっかり浄化の文様も入れている。
気持ちが落ち着くように、目元の刺繍には鎮静の文様を。
それから、深く眠れるように安眠誘導の術式も、魔力の乱れを整える魔力調律の音紋も……色々な祈りを込めて、ついつい縫い込んだ。
(いま思えば、ほとんど盛り合わせみたいになっているわ。やりすぎた気もしなくもない……はあはあ)
使用者を特定できるよう、魔力刻印――ごく微細な、私自身の魔力の波を布の奥に染み込ませてもいた。
加えて、ハンカチの位置を遠隔で感知できる帰還識別符まで縫ってみたのだが、これは不安定で、最後まで動作確認できていない。
最後に「推しが幸せでありますように」という祈りを込めた幸運の文様を、角にひっそりと施した。
とにかく、絶対に破れたり無くしたりせず、あとは殿下の健康とご多幸を願う術式が練りに練り込まれている。私の手持ちで最も強い力があるはずだ。
レオンハルト殿下のお腹のあたりから、じわりと血が滲んでいる。
この際、背に腹はかえられない。私はその推しハンカチを怪我が一番酷い箇所に置いた。
「お願い、どうか効きますように……!」
その祈りに応じるように、王子のひどい傷口に置いたハンカチの刺繍が淡く光る。
それから数分もしない内に、苦悶の表情が消えた王子がうっすら目を開けた。
私の顔を、まっすぐ見ている。
「……あなたが……助けて、くれたのか……?」
なんてことだ、声まで尊い。
私は壊れた人形のようにただコクコクと首を振る。そしてローブのフードを前に引っ張って、より目深にした。目が死にそうなのだ。
「殿下ーーー! レオンハルト殿下!」
遠くの方から、ガサガサとした大勢の足音と王子を呼ぶ声がする。敵かしらと身構えたが、レオンハルト殿下の口から「パウロ」という音が漏れた。
ああ、知っている。パウロ将軍。
レオンハルト殿下に仕えている、国一番の騎士だわ。
「きみ……は……………………」
王子はハンカチの安眠機能が働き出したのか、言葉が止まってすうすうと寝息を立て始めた。顔色は良くなり、頬もうっすらと桃色だ。
その事に安心すると共に、こちらに来る足音も大きくなる。
そこで私は気がついた。王子のお腹を覆う、ヤバい刺繍ハンカチ(自覚あり)の存在に。
(ヒッ、どうしよう……でも回収すると王子の体調に悪影響が出ちゃうかもしれない)
駆けつけてきたパウロ将軍は、これを見てどう思うだろう。こんな……こんな……!
よし、決めた。
私はひとつの決意をした。
「す、すみません……お大事に……!」
ここは全力で走って逃げることにする。
ここにいたら、ハンカチを作った人物だとすぐに特定されてしまう。そして、非常に怪しい目で見られるに決まっているもの。
私は苦渋の決断によりハンカチと別れ、最初の目的地だった森の家に引きこもった。
それからまた新たに王子ハンカチを作ったけれど、やはり初期作と比べて精度が落ちるものだった。
そして、あの夜会の日の出来事が起きたのである。
***
そして、現在。
私は、領地にとんぼ返りしてまた森の赤い屋根の家に引きこもった。
「これから数日間、私は誰にも会いません。話しかけないでください。戸口に近づいた者には忘却の粉を撒きますので、あしからず」
扉を閉じて、内側から施錠。全ての窓を窓魔力探知を妨げる術式を突貫で刺繍したカーテンで覆う。
領地の使用人たちは皆、黙って目を逸らしてくれた。伯爵家のお嬢様が謎の極端行動を取るのは、今に始まったことではない。胸を張ることではないけれど。
あと、おばあ様がちょうど不在で助かった。
王子は命の恩人を探している。
でも、私が残したあのハンカチは、推し愛を詰め込みすぎた趣味の極致。
あんなものを「あなたが作ったの?」なんて聞かれたら……羞恥で死ぬ。
そもそも、あれは助けるための布じゃなかった。見て癒される用だったのだ。なのに実際に使ってしまった己の判断ミスが、今この事態を招いている。
(どうしてこうなった…………)
枕に顔を埋め、深く息を吐く。
(このまま忘れてくれればいい……王子の記憶からも、王都の社交界からも)
羞恥のあまり、もう一生外に出られる気がしない。
縁結びだの婚約者だの、あれは一時の感動が引き起こした勘違いであって、気の迷いであって、どうか王子にも正気に戻っていてほしい。
私はその願いを込めて、さらに布団を引き寄せた。
「セーリナーーーーーー!!」
家全体がびくりと震えるような声が、空気を裂いたとき、心の底から凍えた。
(……いまのは、気のせい。うん。幻聴。だって気配遮断張ってるし)
そう思い直して、再び枕に顔を埋める。心臓の動悸がかなり大変なことになっている。
「セェェェリィナアアアアアア!!!!!」
響き渡る怒号というより、これは咆哮だった。
しかも聞き覚えのある声色。魔女の血を受け継ぐこの家の、恐れられし元当主――よし、いないことにしよう。
「すぐに返事をしなさい、セリナ!」
「はい!」
条件反射だった。術式がばちりと弾け、扉の封印が音を立てて外れた。
「あっ、おばあ様……ごきげんよう」
扉が開いた先、威厳たっぷりに立っていたのは、銀の髪をきちりと結い上げた祖母、ヴァイオレット・リンドンだった。
手には愛用の杖。背筋はぴんと伸び、気迫で扉を破ったとしか思えない立ち姿だ。
「セリナ……逃げることばかり覚えて。ほんとうにあなたは」
いつものように呆れたような声がかけられる。
そのすぐ後ろに立つ人物を目にした瞬間、私の思考は停止した。
金の髪に、蒼い瞳。よく見知った顔立ち。
先日の夜会であのハンカチを掲げ、『婚約者にしたい』と言ってのけた、その本人がそこにいる。なんで。
「お入りください、殿下」
「ああ、ありがとう。失礼する」
涼やかな声が、するりと部屋に滑り込んでくる。そしてレオンハルト殿下は、私を見て柔らかく微笑んだ。
「こんにちは、リンドン嬢」
あの夜と同じような穏やかな笑み。けれど、それは今の私には、もう耐え難い破壊力でしかない。
心臓が跳ねる。顔が熱い。
視線を合わせられないまま、私は心の中で静かに絶叫した。
「君だったんだね。あの刺繍の主は」
その言葉に、私は身をこわばらせる。
レオンハルト殿下の笑顔は、あまりにも自然で。少なくとも、怒ってはいないみたいだった。
恥ずかしさでどうにかなりそうな私の横で、祖母が重々しく咳払いを一つ。
「セリナ。状況は分かっているでしょう。すでに殿下からは正式に話があったわ」
「……えっ?」
布団にくるまっていた二日ほどの間に何が起きていたのか、考えただけで震えてしまう。
おばあ様は杖を軽く床につく。
「サーシャにも、私から話しておきました。リンドン家としても、これ以上にない良縁だと判断しています」
サーシャというのは母の名前。つまり、現伯爵が何かを承諾したらしい。おばあ様の表情からして、おばあ様も納得しているようだ。
その先を聞くのがこわい。
レオンハルト殿下が、少しだけ前に出る。
そういえば、家の前に撒いたはずの忘却の粉は一切合切無くなっている。おばあ様が薙ぎ払ったのだろう。
「ご挨拶が遅れました、セリナ嬢。改めて、ご挨拶を。レオンハルト・フォン・イーリスです。こうして話ができて嬉しいよ」
丁寧な口調の、本物の推しボイス。
耳が弾け飛びそうだ。まるで現実味がない。私の部屋でレオンハルト殿下が喋っている。どうしてこうなった。
「僕の方も、婿入りでも問題はないと父王からも了承を得ているよ」
「へあ」
その一言に、情けなさすぎる声が出た。
「い、いま、なんと仰られたのでしょうか……? 申し訳ありません、ちょっと私の脳の調子がおかしいみたいで」
どう考えても聞き間違いだわ。
震える声で問い返すと、王子はきょとんとした顔をして、それからにこりと笑った。
「君がこのリンドン伯爵家を継がなければならない立場にあることは、調べてある。だから、婿入りという形で問題ないと伝えたところだよ。王族といえど、時代に即した対応を取るべきだと、父も賛同しているから安心してくれ」
(爽やかに、すごいこと言ってるわ!?)
周囲があまりにも静かで、耳の奥で自分の心音ばかりが響いている。
おばあ様はわたしの肩をぽんと叩いた。
「さすがだわ、セリナ。お前ならきっと縁を引き寄せると思っていたわ」
「ちょ、ちょっと待って、おばあ様、あの」
「お前の刺繍には力がある。そうでしょう」
「お、おばあ様、なんでそのことを知ってるんですか!?」
「殿下から見せて頂いたの。意匠は……まあ、好みがあるだろうけれど、すばらしく細かい魔術だよ」
「ひい」
どうやら、おばあ様もあのハンカチを見てしまったらしい。その事実に爆ぜそうだ。
「セリナ嬢」
レオンハルト殿下の声は、静かだった。
けれどそのまなざしは、どこまでも真っ直ぐで。
「僕があの日、森で命を救われたこと。それはもちろん、大きな出来事だった。でも、それだけではない」
レオンハルトは、少しだけ間を置いてから、続けた。
「……あの刺繍には、魔術の技術だけじゃなくて、想いがこもっていた。丁寧に、真剣に、僕の無事を祈る気持ちが、ひと針ずつ積み重なっていると感じたんだ」
それはそうだ。ひと針ひと針、殿下の事を思って縫ったのだもの。
その事が伝わっていると思うと、恥ずかしすぎていたたまれない。
「その想いに心を打たれた。是非、この刺繍を施してくれた方を――あなたという人をもっと知りたいと。セリナ嬢、僕と婚約してくれますか?」
私は息を呑んだ。心臓がうるさい。顔が熱い。すごく真っ直ぐに想いをぶつけられてる気がする。
「か、かっ」
「かっ?」
頭がショートして、鳥のような声が出た。殿下が不思議そうに私を覗き込んでいる。
推しが、婚約者にしたいという。よりによって、この私を。
「解釈違いです!」
叫んだ。叫んでしまった。
静まり返る空間に、私の声が反響する。
おばあ様が、ものすごく残念なものを見るような目で私を見ていた。
レオンハルト殿下はというと――眉尻をきゅっと下げて、ほんの少し目を伏せてしまっていた。
「……僕では、駄目だと……いうことなのだろうか?」
「い、いえ、ちがいます! 私がダメなんです!」
殿下の肩がぴくりと揺れる。
「ちがうんです、殿下は何一つ悪くなくて、むしろ最高で! えっと、お顔立ちも振る舞いも、あの、その、人格面も、王族としても、もう隙がなくて、そう、欠点がないのが欠点かなっていうくらい神で、でもそれってもはや概念的な推しの域で、それに対して私なんてただの陰の者で、部屋から出ない引きこもりで、推しの婚約者なんて、それはもう壁打ちの夢であって現実になっちゃいけないやつで、あの、だから、私が足りていないんです!」
息を吸う間も惜しんで言葉を重ねていると、おばあ様が深いため息をついていた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
けれど、それ以上にびっくりしたのは、殿下がなぜだかとても嬉しそうだったことだ。
口元をゆるませて、頬をわずかに染めている。
まるで、宝物を見つけた子どもみたいな目で。
「つまり、僕に不満があるのではなくセリナ嬢の慣れの問題ということかな」
「は、はい。そう……なりますかね……?」
そう……なるのかな。もう何を言われているのかわからない。ただ顔が熱くて、鼓動がうるさいのだ。
もう誰かこの場から私を消去してほしい。
「では、慣れてもらうこととしよう。今日から、同居ということで」
「……?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「急な環境の変化は刺激が強いかもしれないね。少しずつ、段階を踏んで慣れていくのが良いか。僕は客間でも納屋でも構わないよ。セリナ嬢の視界に入る距離であれば」
「ま、待ってくださいませ。それは推しと一つ屋根の下という概念に私のメンタルが耐えられません」
「では、裏庭にテントを張ってもいいかな? 野営は得意なんだ」
殿下の言葉に、まあ!とおばあ様が声をあげた。
「殿下にそんな生活をさせる訳には行きません。セリナ、いいですね? 本日から伯爵家に殿下が滞在されます」
「……はい、わかりました」
獲物は絶対に逃さない。おばあ様の目にそう書いてあったので私は観念した。
***
そうして、逃げたい私と神々しすぎる殿下による婚約生活(仮)が始まることになってしまった。
実はあの日、殿下は狩猟大会の最中に刺客に襲われたのだという。その刺客はパウロ将軍が討ち取ったものの、ハンカチがなければ死に至っていた可能性が高いと聞いてぞわりとした。
(殿下をお守りできて、良かったです)
最初はどうなる事かと思ったけれど、じわじわと距離を詰められ、今では同じ部屋で、同じソファで過ごすことはできるようになった。
今日もちくちくと刺繍を刺す私を、何が楽しいのか分からないけれど、殿下は相変わらず笑顔で見守ってくれている。
「……レオン様。そんなに見てても、面白くないと思いますけれど」
ぼそりと呟けば、横から小さな笑い声が返ってきた。
「ううん。すごく、楽しいよ。君の真剣な横顔は美しいね」
「ぐっ」
その声音に、胸の奥がふわりと揺れた。
刺繍針を動かしながら、そっと目を細める。
相変わらず、推しのひと言は暴力的なまでに私の心臓を握り込んでくる。
(……でも、こういうのも悪くないかもしれない)
確かに、慣れてきたのだ。殿下の存在に。
静かで、穏やかで、なんだかあたたかい。
ひと針ずつ縫うように、少しずつふたりの時間を紡いでいけば、きっともう少しだけ近づいていける気がした。
おわり
お読みいただきありがとうございます。
私が入手したハンカチの表情が「なんだこれは…国宝か?」だったので、そこから生まれた短編です。
お楽しみいただけたら幸いです(´・(エ)・`)
★★★★★や感想をいただけると嬉しいです〜!