第86話 峠道
落ちる。身体は重力に引かれ、落ちていく。
峠道から蹴飛ばされ、向かった先は底なしの闇。
このまま抵抗しなければ、地獄へと導かれるらしい。
真偽は定かではなかったが、可能性としては十分あった。
「……」
ボルドは起きた状況を受け止め、考える。
このまま落ちるべきか、抗おうとするべきか。
一般人なら落ちる以外ないだろうが、打開は可能。
センスを固定化し、簡易的な足場を作り、蹴りつける。
方法は単純で助かる余地はあるが、状況は少し複雑だった。
『あっそ。じゃあ、落ちて』
抗う気力を奪うのは、落ちた原因となった少女ルーチェ。
四匹の魔獣を殺し、捧げたことで生まれた人間と魔獣のハーフ。
その責任を問われ、受け入れる覚悟を見せた結果が『蹴落し』だった。
――自ずと落ちる方へ思考は傾く。
魔獣を殺したのは事実であり、彼女には責める資格がある。
殺された怨みが受け継がれていると仮定するなら、当然の反応。
どう考えても抗う理由はなく、自己保身に走るほど腐ってはいない。
そう考える間にも平衡感覚がなくなり、視界が闇に染まろうとしていた。
(『死んで』ではなく、『落ちて』ときたか……)
頭に残るのは、わずかなニュアンスの違い。
考える余地があるとすれば、これ以外なかった。
◇◇◇
煉獄界。獄門峠。その峠道の途中には、三名の姿があった。
堂々と『煉獄の門』へと歩みを進め、落ちた者は気に留めない。
同じ志を持った関係ながら、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
「……さっきのこと、叱らないの?」
ルーチェは歩みを止めて、ふと問いかける。
視線の先には、上半身裸の赤髪の青年ベズドナ。
彼女の生誕に関わり、結果として父親と認識される。
仲間を蹴落とす行為に引け目を感じ、反応を求めていた。
「僕も片棒を担いだ身だ。責める気にはなれないね。……それに」
ベズドナは端的な感想を語ると、足を止めて振り向いた。
そのまま腰を落として、幼いルーチェと目線を合わせている。
気まずそうに目を逸らそうとする彼女に向け、ベズドナは語った。
「殺すつもりはなかっただろ。戻ってくるかどうかは彼次第さ」
決して叱ることはなく、一人の人間として真摯に向き合う。
子供扱いせず、対等な立場として自分の意見を端的に述べていた。
「そう、だけど――」
ルーチェは言い淀む。戸惑いの方が勝っている。
万が一を想定したのか、顔の血色は悪くなっていく。
いっそのこと、叱られた方が楽だと言わんばかりだった。
「おい……そこの囚人、止まらんかい。戦果はどうした?」
そこに現れたのは、一人の偉そうな男性憲兵だった。
顔はヘルメットで隠れ、白い軍服を着て、左腕には腕章。
肩にぶら下げた小銃を構え、銃口を向けて敵意を露わにする。
「あー、そのことだけど……」
両手を上げ、ベズドナは目線を逸らし、はぐらかす。
「いや、言わんでいい。戦果がないなら、ここが終点――」
憲兵は脅し文句と共に、小銃の引き金に手をかける。
すでに装弾されている弾丸が、今にも放たれようとしていた。
「だ――――」
しかし、次の瞬間には憲兵は峠道に倒れ込んだ。
背後には人影があり、特徴的な辮髪が風で揺れている。
「戦果は君と頼もしい味方だよ。……と言っても聞こえてないか」
ベスドナは煽る言葉を並べ立て、憲兵のヘルメットを外す。
そこには白目を剥き、泡を吹く、短い薄茶髪の男の姿があった。