第85話 正体
内面世界に広がるのは、偽りのバイカル湖の凍った大地。
外の世界のことなんて知る余地もなく、僕は闘いに没頭していた。
「「――――」」
互いの拳と拳をぶつけ、力とセンスを競い合う。
真剣勝負というよりも、模擬戦のような感覚に近い。
『殺す』という択がどちらにも存在しない爽やかな戦闘だ。
――悪という悪が存在しない世界。
僕は彼を食べたし、彼は僕のおかげで生きられてる。
共依存といったら聞こえは悪いけど、僕らはそんな関係だ。
どちらかを排斥しようなんて思いはなく、従うか従えるかの問題。
――真意は分からないけど、僕はそう思ってる。
お互いを貶し合うことも、掲げる大義を主張することもない。
勝った方の言う事を聞く。それを決めるための健全な勝負だった。
「…………」
頭の中では納得していたはずなのに、僕は拳を下ろした。
麒麟が放った拳が迫っていたのに、致命的な隙を晒していた。
「興が削がれたか? それもまた選択ではあるが」
放たれた拳は、鼻の先に触れたところで止まる。
相変わらず殺意は微塵もなく、気を配る余裕もある。
彼が悪辣な奴だったら、どれだけやりやすかったことか。
義憤に身を任せ、自分を妄信して、闘いに集中できただろう。
――だけど。
「僕は君のことを何も知らない。その状態で従えても意味がない」
今、優先すべきは、戦闘じゃなくて対話。
ここを蔑ろにすれば、後にツケが回る気がした。
「よかろう。何から聞きたい。魔獣の起源か? 暴走の制御法か?」
麒麟は腰を下ろし、胡坐の体勢で話を進めた。
驚くほど聞き分けがいいし、話の分かる人だった。
厳密には人じゃないけど、そう錯覚するほどの人格者。
聞きたいことは山ほどあるけど、最初の質問は決まってる。
「いや、僕が知りたいのは……君の本当の名前だよ」
こちらも腰を下ろし、足を伸ばした姿勢で僕は言った。
麒麟はキョトンとして、拍子抜けしたような表情を見せる。
真面目に答えるか、お茶を濁すか、悩んでいるようにも見えた。
「…………意義を問うても無駄か。どこまでも律儀な奴よ」
しばしの沈黙の後、清濁を併せ呑む彼は受け入れていた。
反論することなく、質問に対し真摯に向き合おうとしている。
名前があろうとなかろうと、私的な情報を知ることができそうだ。
「儂の名はボルド・ガンボルド。元々は人間だ」
語られたのは、全く聞き覚えのない名前。
だけど、魔獣の根底を揺るがす重要な情報だった。
◇◇◇
煉獄界。幽遊原野を抜けた先の場所。獄門峠。
辺りに暗い霧が垂れ込む中、一本の峠道があった。
底なしの穴に挟まれ、出口の『煉獄の門』へと通じる。
石灯篭が等間隔に置かれ、青白い光が辺りを照らしている。
「ここが出口か。想定よりも、おどろおどろしい場所のようだ」
ボルドは峠道の差し掛かる手前で、感想を口にする。
奥の方では、犯罪者と思わしき人物が魔獣を運んでいた。
手すりや柵などはなく、一度落ちてしまえば命の保証はない。
劣悪な環境であるのが伺えた。灯りがあるのはせめてもの情けか。
「落ちたら地獄行きらしいよ。まぁ、あくまで噂だけど」
飄々とした態度で受け答えるのは、ベズドナだった。
底なしの穴に視線を落とし、見えもしない闇を見つめる。
「私語は慎め。ここより先は白軍の管轄区域だ。戦果のないものに峠道を渡る資格はない。憲兵と遭遇した時点で、即戦闘になると思え」
表情を引き締めるアンドレアは、端的に注意点を告げる。
彼は先住民だ。わざわざ嘘をつく必要性はなく、事実だろう。
実際、『煉獄の門』の前には憲兵と思わしき人物が二名立っていた。
「わたしが先に脅威を排除してきてあげてもいいよ。お父さんが言うんなら」
ルーチェは視線を送って、ベズドナへと意見を求める。
自発的に行動する意思はなく、あくまで親が主体のようだ。
子供らしいと言えばらしいが、従順すぎる性格に違和感が残る。
独断専行に走ろうとするぐらいが、彼女らしい動きのように思える。
そうじゃない今は、肉体と精神の歯車が噛み合っていない状態に感じた。
――近いうちに壊れる。
嫌な予感で済めばいいが、そんな気がしてならない。
落ちることができない峠道も相まって、不安は増していた。
「いや、相手も同じ人間だ。できるだけ傷つけたくはない。穏便に済むなら、それに越したことはないよ」
そんな中、ベズドナは命令を下し、峠道へと足を踏み入れていった。
◇◇◇
峠道の幅は極めて狭い。人が二人通れるほどの幅。
少しでも不可抗力が生じれば、落ちてしまうような道。
ボルドたちは、右側に一列に並び、正面から堂々と進んだ。
順番はベズドナ、ルーチェ、ボルド、アンドレアの並びとなる。
「ねぇねぇ、お兄さんがわたしの素材を集めてくれたんだって?」
ルーチェは歩みを進めながら、後ろを振り返り、声をかけてくる。
何気ない雑談。『お兄さん』という柄ではなかったが、悪意は感じない。
「いかにも。恩を着せるつもりはないが、事実だ」
特に隠すような事柄でもなく、話に応じる。
「じゃあ、最低でも四体は魔獣を殺したんだね」
するとルーチェは、声色を落とし、鋭い目線を送り、言った。
殺した責任を問うような発言。言葉にはどっしりとした重みを感じた。
「あぁ、間違いない。拙者が殺した。そして、貴女が生まれた」
ボルドは、事実に即した内容をそのまま告げる。
瞳に一切の揺らぎも迷いもなく、声色は堂々としていた。
「後悔はない?」
「やらされたわけではない。自ら望んでやったことだ。文句などあるまい」
「殺した魔獣に思うところはある?」
「人は犠牲をなくして生きられん。今より前に進むことが手向けとなるだろう」
「もし、わたしがお兄さんに殺された怨みを抱えていたらどうする?」
ルーチェの質疑応答が始まり、ボルドが淡々と答える展開が続く。
そこで切り出されたのは、殺意の継承。仮定だが、重みのある話題。
責任の所在は、間違いなくこちら側にあり、知らぬ存ぜぬは通らない。
相手は子供と言えど、殺した以上は何かしらの答えを示す必要があった。
「甘んじて受け入れよう。殺したければ、殺すがいい」
ボルドは瞳を逸らすことなく、一人の人間として親身に接する。
まともな倫理観なら殺さないが、殺されても構わない覚悟があった。
原因を考えれば、責め立てる権利は十分あり、受け入れるのが筋だった。
「あっそ。じゃあ、落ちて」
そこでルーチェが下した罰は、峠道から蹴落とすこと。
ベズドナとアンドレアは止めることなく、ただ見守っていた。