第74話 草創期
一世紀前。ロシア。イルクーツク州。バイカル湖。
そこでは白軍と亡命者の残党約25万人が行進していた。
列は果てしなく続き、馬車やソリに物資を乗せ、引いて進む。
中身は、食料や医療品などの生活必需品に加えて、金塊も含まれる。
しかし今となっては、金目のものに価値などなく、安寧の地が求められる。
――すでに100万人が道中で亡くなった。
死因は凍死や餓死がほとんどで、厳しい環境に殺された。
赤軍の追っ手らしい追っ手はなく、寒波が最強の敵だった。
氷の上で横たわり、脱落していく人を介抱できる余裕はない。
――誰もが生きるので精一杯。
終着点が見えず、助かる保証はなく、次々と人が死ぬ。
それが徐々に精神を蝕んで、誰かを思い遣れる余裕を奪う。
訓練を受けた軍人でも、想像を絶する過酷さに根を上げていた。
「……お前、名前は?」
そんな中、馬車の隣を歩く兵士は偉そうに尋ねた。
長い銀髪が特徴で、肩には一丁の小銃を背負っている。
目立った勲章はなく、配置から見ても一般兵のように見えた。
「ジーナだ。聞いたところでどうにもならんぞ」
馬車の御者席に座る俺は、半キレ気味に言った。
服装は、毛皮の帽子に、厚手のコートを着ている。
革製の手袋で馬の手綱を握り、目線すら合わせない。
会話する熱量が惜しく、出来るだけ手短に済ませたい。
ここまで態度が悪ければ、相手も話を切り上げるはずだ。
「ふっ、女みたいな名前だな。高貴なロシア人とは思えんセンスの悪さだ」
そう思っていたら、軍人は馬鹿にするように反応する。
無視してやってもよかったが、言っていいことと悪いことがある。
「あぁ? だったらお前はどうなんだ。よほど高貴で崇高な名前なんだろうな?」
俺はカロリーの無駄と分かりつつ、食い気味に話に乗っかる。
ハードルを上げ、変な名前なら容赦なく馬鹿にしてやるつもりだ。
たとえ高貴な由来だとしても、いくらでも難癖をつける自信があった。
「――アレクセイ。ロマノフ王朝の初代皇帝と同じ名だ」
語られるのは、ぐうの音も出ない高貴で崇高な名前。
それが初対面の会話であり、印象は最悪の状態で始まった。
◇◇◇
アレクセイと知り合って、何日か経過した頃。
バイカル湖の上でテントを張って、家族と夜を過ごす。
ロウソクの火がぼんやりと辺りを照らし、憩いの場が作られる。
「それで、アレクセイの野郎がさ……」
俺は毛布にくるまりつつ、雑談に興じていた。
話している相手は、直系の兄。ジーク・ロマノフ。
金色の前髪を左に流して、両サイドは短めにした髪型。
もみ上げと顎髭は一体化し、口髭は綺麗に整えられている。
同じ毛布にくるまり、お互いの身体を温め、寒さを凌いでいた。
「いつもその子の話をするね。これは春も近そうだ」
冗談なのか本気なのか、ジークは聞き流すように語る。
「ば……っ! そんな関係じゃねぇよ! あいつはそもそも俺を……」
急激に体温が上がり、顔を赤らめつつ否定する。
好きか嫌いかと問われれば、嫌いと断言できる相手。
ただ、気兼ねなく悪口を言い合える仲なのは確かだった。
「はいはい。身体も温まったところで、そろそろ寝ようか」
ジークはロウソクの火を消し、話を打ち切る。
わざと誘導したのか、いいオチを用意してやがった。
「……食えない兄貴だ。また明日にでも続きを聞かせてやるからな」
特に反抗することもなく、静かに目を閉じる。
訪れるのは、深い沈黙。この瞬間がたまらなく怖い。
まるで生きた心地がせず、明日が来ないような気さえする。
(目を覚ましたら、闘争のない優しい世界が広がってくれたらな……)
なんて明るい妄想をして、不安を紛らわし、眠りにつく。
実現しないのは分かっていたが、それが唯一の安眠剤だった。
◇◇◇
あれから一夜明け、俺はゆっくりと目を開く。
そこには毛布にくるまるジークとテントが見えた。
いつもの光景。どうせ外には氷の大地が広がっている。
うんざりした思いで、俺はテントをめくり、外に一歩出た。
――そこに広がっていたのは。
「なんじゃあ、こりゃあ……」
巨大生物の口内と、無数のテントと馬車とソリと積み荷。
それこそが草創期。覚醒都市が出来るまでの最初の一歩だった。