5-55 老兵vs老兵①
目測20メートルそこそこの紐無しバンジーは、流石のトマス・ロコモでも恐怖があった。だいたい四階建てのビルディングの屋上から跳ぶようなものなのだから、生身の人間が無策で挑めばおおよそ死亡する高度である。鍛え上げた軍人であったとして、人間という基本構造上の強度はいかんともしがたい。
(モードは力場になっているな……っ!?)
無論、トマスには無事に降りるための考えがあった。瞬く間に硬い地面が迫る中、トマスは地上に向けて短杖の引鉄を弾く。それとほぼ時を同じくして、短い自由落下が終わった。
地表に激突する1メートル手前、発生した力場が地表面に接触し、真白く発光する。落着の際に生じる運動エネルギーを、熱と光に変換して殺しているのだ。いわばそれは、減速時間を引き延ばす不可視のクッション。
短杖に内蔵された小型の電源呪符の出力では、力場を展開できたのは2秒にも満たない時間だった。それでも落着時のピーク衝撃が殺せているから、あとはパルクールの要領で前転して残りの衝撃を逃がしてやれば、トマスは傷一つない状態で闘技場に降り立つことができた。
(ハナッパシラ君は……反対側か)
赤熱化し用済みになった電源呪符をイジェクトし、新たな呪符をリロードする間も油断なく周囲を警戒する。ハナッパシラの強化鎧骨格テンチュイオンⅡTSは、トマスから見て石舞台を挟んだ対岸の壁に突っ込んで沈黙していた。救助を考えたが、無理と断ずる。トマスにはトマスの仕事があって、いかに情が訴えても、その優先順序を乱すことをトマスは良しとしない。
(すまん)
トマスは内心で短く詫びて、記憶から闘技場の見取り図を引っ張り出す。貴賓室からつながる階段に一番近い入り口は——
「待たれよ。トマス・ロコモ殿」
「――!」
屋内に続くゲートを見つけ、駆け込もうとしたその時だった。背後から呼び止めてくる厳めしい声に、トマスはずいぶんと聞き覚えがあった。それは個人の声としてもそうだったし、戦場でまま聞く静かな殺意のこもった声としてもそうだ。
問答無用でかかってくる気配はない。声の主は、そういう清廉さを持っている。だからトマスは油断なく、されどゆっくりと、その声の主に振り返った。
「マケン・ウルフマン殿か」
「いかにも。いつぞやの夜会以来だな」
振り返った先。石舞台の上に立つのは、筋骨隆々な体躯と逞しく太い首の上に、よくカットされたトイプードルの頭を載せた凶貌の男――マケン・ウルフマン。森域統合軍・青の武士団の棟梁である軽甲冑姿の男が、抜身の刃を携えてそこに立っている。
トマスは短杖のモードを射撃に切り替え、いつでも打てる状態にした。マケンから放たれる静かな殺気が、このまま友好的にこの場が収められるはずもないと、否が応にもわからせてくるからだ。
「まずは優勝おめでとう、といっておくべきかな?」
「クク、ずいぶんと痛いところを突く」
トマスが皮肉含みで送った賛辞に、マケンはくつくつと笑った。殺気がさらに膨れ上がる。怒ればいい、とトマスは思った。虎の尾を踏もうが構うまい、と。怒って判断力を鈍らせてくれれば、言うことはない。
無論、そう簡単に行くとも思ってはいないが。
「貴様らのよからぬ企みのおかげで、こちらはちと消化不良気味でな。まさかあのような若造をあてがわれるとは、我も随分と舐められたものよ」
「よからぬ企みか、よく言う」
トマスは鼻で笑って、続けた。
「ハナッパシラはあのズニノール・イキリマクッテンネンの子で、中隊長殿も認める武の才人だ。それは、胴を断たれた貴殿もよく分かったのでは?」
「そうであるな。まだ青いが、育てば良き武人になったであろうよ」
「飼い主が仕返しをしてくれたことが、よっぽど嬉しいようだな」
「嬉しい? ——まさか」
マケンは凄絶に笑って、手にした刃を八相に構えた。トマスもまた、短杖をマケンの眉間に照準する。まさに一触即発。そんな状況で、マケンはひどく愉快そうに宣う。
「言ったろう、些か消化不良だと。この無聊を慰めねば、悔いばかりが残るというもの。――トマス・ロコモ殿」
「なにかな?」
「貴殿をひとかどの武人と見込んでお願いする。一合、死合い仕る」
「――時間がない。手短に済ませよう」
「クク、そう時間は掛けぬさ」
じり、と両者が砂を踏みしめる。張り詰めた緊張の糸、それが頂点を超えて、やがて一発の銃声が響いた。




