5-50 老兵は死なず(直喩)②
「――ッ!?」
トマスが気が付いたとき、彼は闘技場の廊下の壁に半ばめり込むようにしてもたれていた。ひどい耳鳴りがして、視界が狭い。一瞬、気をやっていたようだ。
まぶたを瞬かせる。気付いた当初は視界が青黒い影に覆われていたが、それも数秒で収まった。
「――ひどいな」
復活した視界に映ったのは、数秒前まで貴賓室と、その前室であったはずの部屋の残骸だ。壁や天井や床、豪奢に飾り付けられたはずのそれらは無残に粉砕され、今はぢるぢると青い炎が舐めている。そこには大勢の人が――森域の各氏族を纏める重鎮たちが居合わせていたはずだが、今、そこいらに散らばる物体が果たして有機物であったのか、無機物であったのかもわからないほどに黒く焼け焦げて、原形を保っていない。
(体は……動くか)
その惨状を思えば、トマスの状態は破格といっていいほどによいものだった。額が切れて血が出ているし、耳鳴りが響く頭はひどく重い。それでもちゃんと五体満足で、腰に力を入れて脚を踏ん張れば、自分の体重を支えて立ち上がれる程度には健康体だった。
胸元から、ドッグタグとともに結わえてチェーンから下げていた護符を取り出す。正確には、その残骸だ。護符は見事なまでに千々に千切れとんで、今やチェーンに通すために開けたパンチの金具くらいしか残っていない。
「また一つ、助けられてしまったなぁ」
その護符は、いざというときのためにティエスが寄こした手製の護符だった。それが何らかの作用――いったいどんな機序かは見当もつかないが――で、トマスの身を熱波から完全に守り、さらには衝撃のいくらかを緩和したのだ。
まったく、あの娘はどれだけ多才であれば気が済むのだろう。トマスは些かの羨望が胸中に去来するのを苦く笑う。そして、表情を引き締めた。
(エヴィロンスは――全て沈黙している。群青の強化鎧骨格もいない。こちらは転移か?)
もはや視界内に動くものはない。あれだけいたエヴィロンスも、爆発に巻き込まれてすべて破壊されたようだった。推定下手人であろう群青の強化鎧骨格の姿はない。おおよそ、現れたときと同じように転移で姿を消したのだろう。自陣営の尖兵であるエヴィロンスを攻撃に巻き込むことも厭わない姿勢は、危険だとトマスは思った。あれが世界樹に転移しているとすれば、既に戦争は終わっていてもおかしくない。
『私は逃げも隠れもせん。レイフィールの王城で待つ』
しかし、それはないだろうとも直感した。思い返すのは決勝戦開始前、接触してきたウィドー王の発言だ。それが虚偽であるとは、トマスには思えなかった。あの男は、納得のできる決着を求めている。トマスはなぜか、そう確信できた。
(これも年の功……いや、今はそんなことよりも)
トマスは改めて周囲を見回す。爆発の直前の段階で、SPに護衛されたハラグロイゼ卿とライカは階段室に駆け込んでいた。爆発に巻き込まれたとは思いたくないが、なにぶん廊下が崩落していて、先が見通せない。瓦礫を除去して進むのは現実的ではないだろう。時間がかかりすぎる。
事前の打ち合わせ通りならば、一団は一目散に1階まで駆け下っているはずだ。ならば、そこで合流するほかない。闘技場の見取り図は既に頭に叩き込んである。別ルートの選定は数秒も必要なかった。
「ええい、ままよ……!」
祈るように口にして、トマスは駆けだす。目指す先は、貴賓室のその奥。先ほどまで、闘技場を一望できる覗き窓のあった場所。トマスは意を決して、未だ炎の燃え盛る貴賓室へ飛び込んだ。途中、何かを踏み砕く感触が足に伝わるが、すべて無視した。かかずらっている余裕はなかった。
やがて炎の光とは違う、やわらかで青い陽光が視界に飛び込む。闘技場を見下ろす位置に立ってみれば、なるほど、闘技場内は阿鼻叫喚のパニックだ。観客席を埋め尽くした人々が右往左往と無秩序に動いて、各所で将棋倒しを起こしている。……『野生の後継者』による直接的な加害が無いようだったことだけは救いだ。
「せめて自分がたどり着くまでは、無事でいてくれよ……!」
トマスはこの時ばかりは、信じてもいない神に祈った。あの生意気で有能な小娘に、無様な報告をしたくないという意地もあった。
だからトマスはためらいなく、虚空にその身を翻らせた。




