5-39 貴賓室にて②
「これはこれは姫様、ご機嫌麗しゅう」
「……チャドラ。父王の姿がないようですが」
「王もご多忙なれば。すぐに参られますとも。ええ、すぐにね」
「……そうですか」
「では、わたくしめはこれにて。最後の余興、心ゆくまでお楽しみあれ、姫様」
まさしく慇懃無礼を絵に描いたような態度でチャドラ——賢狼人の筆頭武官——が去った後、賢狼の姫、リリィは内心で深い安堵の息を吐いた。
時はすこしだけ遡り、未だハナッパシラが闘技場に到着する直前の出来事である。ちょうど眼下では、マケンの蒼い強化鎧骨格が石舞台に上がったところだった。
「……マケン殿、ひいては青の武士団は、賢狼人の配下にある軍閥だったね」
「ハラグロイゼ様」
「やあ。かしこまらずとも結構。――うむ、今日の装いもまた、一段と美しい。良く似合っている」
護衛を伴ってやってきたフェンヴェール王国特使であるワリトー・ハラグロイゼ伯は、姫の装いを失礼に当たらない程度に一瞥して賞賛を述べた。
まさに魅惑と表現するほかない甘いマスクに、ほのかな微笑を湛えたその佇まいは、免疫のないものにとっては毒であるとすらいえた。実際、ハラグロイゼはこの毒の使い方を熟知していて、ゆえに今回の特使に抜擢されたという経緯があるのだが……それに対して、リリィ姫はわずかに眉根を寄せた。
「そう言う顔はするものではないよ、姫。特に、今この時では」
「存じ上げております。……ハラグロイゼ様も、あまりお戯れなさらぬよう」
「ふふ、気を付けよう。……この短い間で、私もイセカイジン卿の影響を受けてしまったのかもしれないね」
ハラグロイゼはそう言って肩をすくめると、ボーイからグラスを受け取って唇を湿らせた。
「あの……方の真似をなさるのは、考えものです」
「そうかもしれないが、そう拗ねないでくれたまえ。姫もいかがかな?」
「申し訳のないことですが……」
ハラグロイゼからの誘いを丁重に断り、姫はすこしだけ重心をずらした。ハラグロイゼはそれをみとめるも、気分を害した様子もなく微笑んだ。
「なに、構わないとも。父君とは?」
「いえ、まだ」
姫の短い返答に、ふむ、とハラグロイゼ卿は唸る。グラスに残った液体を天井からの光に透かしてくるくると弄んだあと、まるで諭すような口調で続けた。
「姫も心中、穏やかではないことと思うけれど。決して結果を急がないように。よろしいね?」
「……無論、存じております」
姫は極めて短い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「ほう、ずいぶんと仲のよろしいことだ」
「……ッ!」
不意に聞こえた第三者の声に姫が振り向くと、そこには頭上に王冠をいただいた賢狼人の巨躯があった。誰あろう、賢狼王ウィドー・ル・リン・レイフィールその人が、『野生の後継者』の首魁が、護衛の一人もつけずに姫を睥睨している。足音はなかった。においも。
貴賓室の奥、いくつかの氏族の首脳陣と談笑していたチャドラが血相を変え、駆けだそうとしたのが見えた。しかしウィドー王は少しだけ振り向き、片手を上げてチャドラを制した。
「これはウィドー王。こちらで一緒に観戦していかれるおつもりかな?」
ハラグロイゼは、ウィドー王の登場をまるでそよ風のように受け流して、こちらも動きかけた護衛を片手で制した。人好きする笑みを浮かべたまま、隣席を勧めることまでする。
ウィドー王はハラグロイゼを一瞥し、その場の誰も分からないほど、少しだけ口の端をゆがめた。
「そのつもり、といったら?」
「もちろん歓迎だとも」
ハラグロイゼはにこやかに即答した。ウィドー王はそれに小さく鼻を鳴らすと、興味を失ったように視線を外し、再び姫を見下ろす。
ぶるりと姫が震えた。恐怖か、萎縮か、はたまた狼狽か。果たして、そのどれもが違う。それはヒトの持つもっともプリミティブな衝動――怒りに起因する震えだ。
「そう猛るな、ライカ」
「……!」
姫は――姫に扮したライカは、懐に隠した護身刀の柄に手を伸ばしかけた。ウィドー王に看破されたことに焦ったのではない。それは想定済みだったし、看破されたとしてウィドー王が動きを変えることはないという確信があった。ただ、父を弑した簒奪者が、以前と変わらぬ声で、静かに、穏やかに、叔父として自分を呼ぶことに、我慢がならなかったからだ。
しかし、それでも。ライカは激情を押し殺して、唇を噛み結んでかろうじて耐えた。今この場でこの王を殺したとして、作戦にプラスはないと理解して。ただキッと、強い意志を込めた瞳でウィドー王を睨み返すにとどまる。
「――兄上もお前ほどの気概を持っていればな」
ウィドー王はそのさまを見て、いたく感心するように言った。ライカは自分の口内に血の味が広がるのを覚えた。手足がわななくのを強く意識して止める。
「……ライカは、おりません。今、別の任につかせております」
「ふ。ならば、そういうことにしておこう」
ライカは自身の中に渦巻く激情を押し込め、あくまで賢狼の姫――リリィ・ル・リン・レイフィールとして、父王に毅然と対峙した。貴賓室で寛ぐ森域の有力者たちが、まだ自分を姫と疑いもしていないことを知っているから。
ウィドー王はそれをみとめて、愉快そうに肩を揺らす。眼下では、ちょうどハナッパシラのテンチュイオンⅡTSが石舞台に上がるところだった。闘技場内のボルテージが著しく上昇していて、それはこの貴賓室も例外ではない。だから次の言葉は、きっと飛び交う歓声に紛れて、ライカ以外には聞こえなかった。
「私は逃げも隠れもせん。レイフィールの王城で待つ。そうリリィ姫に伝えるが良い。本物のティエス・イセカイジンにもな。趣向を凝らして歓迎しよう」
「貴様は、何がしたいんだ」
「野生の復権を。それと、これも付け加えるが良い。『空は貴様たちの独壇場にあらず』とな」
「!?」
「では、健闘を祈る」
ウィドー王はライカの答えを待たず、颯爽と羽織を翻してまったく無防備な背中を晒した。ライカはそれを忸怩たる思いで見送ってから、おもむろにハラグロイゼを見た。護衛の一人が、既に貴賓室を出たところだった。
ハラグロイゼは肩をすくめて言った。
「楽をさせてはもらえないようだ。姫、すぐに動けるように準備を。勝負はすぐに決まりそうだからね」
その時、貴賓室がどよめいた。ライカが弾かれたように石舞台に目を向けると、その瞬間、闘技場の空を純白の腕が舞った。




